城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年六月七日              関根弘興牧師
                 エペソ四章二五節~二八節

エペソ人への手紙連続説教19
   「生活再考」

 25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(新改訳聖書)


先週、私たちは古い人を脱ぎ捨てて、義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人を着たのだ、ということをお話ししました。
 そして、今日の箇所には、その新しい人を着た者として、どのような生き方をしていったらいいのかということについて、具体的なことが書かれています。詳しく見ていきましょう。

1 偽りを捨て、真実を語れ

 まず最初に、パウロは25節で「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」と書いていますね。
 実は、旧約聖書のゼカリヤ書にも、これと同じ内容の言葉が書かれています。それには、どんな背景があったでしょうか。
 イスラエル王国は、ソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。北イスラエル王国は、紀元前七二一年にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。一方、南ユダ王国は、バビロニヤ帝国によって、紀元前五九七年にエルサレムは陥落し、五八六年には、神殿も破壊され、多くの民が首都バビロンに捕囚となって連れて行かれたのです。これがバビロン捕囚という有名な出来事です。ユダヤ人たちは、バビロンで約七十年もの長い間、捕囚となって過ごしました。
 しかし、その後、ペルシャ帝国がバビロニヤ帝国を滅ぼして支配するようになり、ペルシャのクロス王が、紀元前五三八年にユダヤ人に対して故国への帰還許可を出します。そこで、ユダヤ人たちは、喜び歌い踊りながら故国へ帰還したのです。
 帰還した彼らが最初に行ったことは何だったでしょうか。彼らはまず、荒れ果てたエルサレム神殿の再建工事を始めました。工事は急ピッチで進められ、基礎が据えられました。ところが、それから約十八年間、工事が中断されてしまったのです。大きな原因は二つありました。一つは外からの妨害です。ユダヤ国家の再建を喜ばない隣国のサマリヤ人たちなどが様々な手段で工事を妨害してきました。そして、もう一つは内部の問題です。神殿工事をしている人々の内部からも争いが起こってきたのです。自分の利益を優先し、弱者を無視し、ないがしろにする人々がいましたし、また、敵と通じて神殿建設を妨害しようとする人々もいて、内部が混乱と不一致に陥ったのです。
 その時、神様は預言者ゼカリヤを通してこう告げられました。「これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行え。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。」(ゼカリヤ書8章16節-17節)。ゼカリヤは彼らに「偽りを捨て、真実を語れ」という神様のメッセージを伝えたのです。真実なる神様の住まいである神殿を建て上げるためには、互いに偽りを捨てて真実を語り、平和にみちた人間関係を築く必要があるというのですね。
 さて、今日の箇所では、パウロも「あなたがたは偽りを捨て、真実を語りなさい」と言っていますね。そして、その理由は「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだから」だと記しています。キリストのからだである教会を建て上げるために、偽りを捨て、真実を語ることが大切だと言っているのです。キリストは真実な方です。キリストには偽りがありません。そのキリストのからだの一部分である一人一人は、偽りを捨て、真実を語ることのできる関係によって結び合わされていく必要があるというのですね。
 使徒の働き5章1節ー11節に、初代教会の中で最初に起こった問題が記されています。アナニヤとサッピラという夫婦が土地を売った代金をごまかして偽りの報告をしました。すると、アナニヤもサッピラも「倒れて息が絶えた」と書かれているのです。初代教会で起こった最初の問題は、「偽りを語る」ということでした。そして、その結果は死だったのです。偽りがどれほど深刻な問題であるかを示していますね。
 「偽り」と訳されている言葉には、「演技をする」とか「仮面をかぶる」という意味もあります。私たちはキリストのからだの一部分として、神の家族の兄弟姉妹として、演技をするのではなく、仮面をかぶるのではなく、互いに誠実な関係をもっていきたいですね。
 そもそも私たちは互いに偽ったり格好付ける必要はないのです。互いのありのままを認め、受け入れればいいのです。背伸びする必要もないし、必要以上に自己卑下することもありません。それぞれにそれぞれの特徴や役割があるのですから、それを認め合い、補い合ってキリストのからだを建て上げていけばいいのです。
 こんな言葉があります。「目が蛇を見たら、足を欺くだろうか。舌が苦みを味わったら、胃を欺くだろうか。」つまり、「そんなことは絶対にない」ということですね。目は毒蛇を見たらすぐに足に危険を知らせます。舌は刺激物を感じれば胃に警告を発します。からだの各器官は連動しているわけです。それと同じように私たちは互いに連動しています。ですから、パウロは、「キリストのからだの器官とされている者同士が欺き合い、非難し合い、偽りの中に生きるようなことがないように、もしそのような人間関係があるなら、そんなものは捨ててしまいなさい」と言っているわけです。
 しかし、「真実を語る」ということを実行するとき、気をつけなければならないことがあります。それは、「いつ語るか」ということと、「どのように語るか」ということです。
 たとえば、お医者さんや家族が患者本人に病気の告知をするかどうかの問題があります。病状が重い場合に、それを正直に告げることを家族が迷うときがありますね。「いつ知らせるか」という時期の問題と「どのように話をするか」という伝え方の問題がそこにはあるのです。それは、置かれている状況や患者の性質によっても違ってくるでしょう。
 イエス様も真実を伝える時期や伝え方について配慮されていました。イエス様が公の活動を始められたのは、三十歳の時です。イエス様なら、もっと早い時期からでもよかったのではないかと思いますね。ところが、イエス様は三十歳までじっと待っておられました。そして、三十歳になってから、「時が満ちた」と宣言し、みことばを宣べ伝え始められたのです。
 また、イエス様は、ある時、弟子たちにこう言われました。「わたしにはあなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あながたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16章12節ー13節)イエス様は、弟子たちの状態に応じて伝える時期や方法を配慮しておられたのですね。
 ですから、私たちも、「真実を語らなければならない」といって、時を選ばず何でもかんでもストレートにそのまま話すということであってはいけません。配慮が必要です。場合によっては、ちょうどよい時期が来るまで忍耐強く待つことも必要でし、相手の状態を見極めて適切な伝え方をすることが大切です。真実を語るには知恵と祈りが必要なんですね。
 そして、4章15節に「愛をもって真理を語り」と書かれていたように、「愛をもって」語ることが大切なんです。
旧約聖書のヨブを思い起こしてください。ヨブは神を恐れる正しい人でしたが、家族や財産を一瞬にして失った上、自分も大変な病気になるという悲惨な状況に陥ります。そんなヨブのもとに友人たちが見舞いにやって来て、いろいろなことを言いました。「ヨブよ。あなたが何か悪いことをしたからこんなことが起こったのではないか。神様は正しい者をこのようにされるはずがない」というように、因果応報の理屈でヨブを責め立てたのです。彼らは、自分が真実を語っていると思っていたのですが、その言葉は、ヨブにとって何の慰めにも励ましにもなりませんでした。かえってヨブを苦しめたのです。神様は、どうなさったでしょう。ヨブ記42章7節を読むと、神様はこの友人たちを厳しく叱責しておられます。「わたしの怒りはあなたがたに向かって激しく燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らなかったからだ。」
いつの時代でも、大変な自然災害が起こったり、急にひどい病気にかかったり、悲惨な事故が起こったりすると、「これは神の裁きだ」と言い出す人が後を絶ちません。愛のかけらすらない独善的なことを言い出す人々は残念ながら大勢います。し
かし、そこには何の励ましも慰めもありません。第一コリント13章に書かれているように、どんなに立派なことを言ったり行ったりしても、「愛がなければ、何の役にも立たない」のです。 前回の4章21節に「まさしく真理はイエスにある」と書かれていましたね。私たちが語る真理とは、イエス・キリストのことです。そのイエス・キリストは愛に満ちた方なのですから、愛なしに真理を語ることはできないのです。いつもキリストの愛の心を覚えつつ、相手の最善を願って真理を語る者とされていきたいですね。
 私たちは偽りを捨て、お互いに「私は私です」と言える仲間でありましょう。神様の前でもお互いの前でもありのままの自分を認めましょう。そして、一人一人の内に住んでおられる聖霊が私たちを愛をもって真理を語ることのできる者に変えていってくださることを信頼して歩んでいきましょう。

2 怒りを適切に処理せよ

 二番目にパウロは、26-27節でこう教えています。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
 聖書は、怒りを持つことが悪いことだとは言っていません。
 イエス様は大変柔和な方ですが、エルサレムの神殿でいけにえの動物を売る者たちや両替人たちが不正な利益を得るために商売している姿を見て激怒されました。そして、彼らを追い出し、彼らの台を倒し、「ここは祈りの家と呼ばれている。私の父の家を商売の家としてはならない」と言われたのです。
 また、神を救いを受け入れようとしない律法学者やパリサイ人に対して「あなたがたは、偽善者だ。白く塗った墓のようだ」と厳しく批判なさいました。
 不正や悪に対して怒りが起こるのは当然のことですね。正しいことが曲げられているときは、怒るべきです。
 しかし、怒りを感じたときに気をつけなければならない、とパウロは警告しています。怒りを適切にコントロールし処理することができないと、罪を犯し、悪魔に機会を与えることになるというのです。
 聖書で「怒り」という言葉が使われる場合、人間の怒りより神様の怒りのほうが圧倒的に多く出てきます。しかし、神様の怒りと私たちの怒りとでは、決定的な違いがあります。神様の怒りは、神様と人との関係を破壊するために不正や罪をもたらすものに対する怒りです。そして、神様は、その怒りを適切な方法で適切な時に表すことがおできになります。だから、その怒りは悪魔をおびえさせるのです。しかし、私たちの怒りは、適切にコントロールできなかったり、適切な方法で表すことができなかったりするために、悪魔に機会を与える状況を作り出してしまうことが多いのです。そして、怒りがその人の人生を間違った方向に向かわせてしまうことがあるのです。
 ところで、「悪魔に機会を与える」とは、どういうことでしょうか。27節で「悪魔」と訳されている言葉には「中傷する者」とか「訴える者」という意味があります。つまり、聖書が教える悪魔とかサタンと呼ばれる者の働きは、人を中傷すること、訴えること、そしることなのです。そういうサタンが存在することを聖書は教えています。
 サタンは巧妙に囁いてきます。「おまえの人生なんか意味がない」「おまえなんか生きている価値がない」「お前は神様を信じていると言うが、その生きざまは何だ」といつも私たちの心に訴えかけ、私たちを中傷し、そしるのです。そして、「おまえの罪は、イエスの十字架によっても赦されることはできない。お前なんか神に愛される資格はない。おまえに永遠のいのちが与えられるはずがない」と言って、神様の愛やイエス・キリストによる救いに疑いを持たせ、私たちと神様の関係を破壊しようとしてくるのです。
 私たちはだれも完全ではありません。間違いを犯すし、過ちも犯します。その時、サタンは「もうお前は駄目だ。お前は失格だ。他の人は赦されてもお前は赦されない」と攻撃してきます。しかし、その時に、私たちは、サタンの言葉を信じるのではなく、聖書に書かれている神様のことばを信じることを選び取っていかなくてはなりません。私たちは、どんなに失敗しても、神様の前に悔い改めるなら、いつでも何度でもイエス様によって赦されていることを確信して再スタートできのです。その神様の約束に信頼しましょう。
 そして、怒りを感じた時には、とくに悪魔に機会を与えないように気をつけなければなりません。私たちは怒ることが本当に多いですね。そして、自分のことは棚に上げて、相手を責めたり、攻撃してしまうことが多いのです。それはまるで悪魔の手先になってしまったような状態ですね。また、逆に、自分が怒りを感じていることに罪意識を感じて、自分を極端に責める人もいますね。しかし、相手を責めることも、自分を責めることも、悪魔に機会を与えることにつながります。ですから、パウロは「悪魔に機会を与えてはいけない」、つまり、「悪魔と肩を並べて、人や自分自身を中傷したり訴える者となっていてはいけない」とここで語っているのですね。
 そして、パウロは「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」とも言っていますね。でも、だからといって、「そうか。日が暮れるまではいいのだな。喧嘩をするなら朝がいい」などと考えないでください。そんな風に考えると、北欧では、夏は白夜で日が沈みませんから、ずっと憤ったままでいいことになってしまいますね。もちろん、パウロが言っているのはそういうことではありません。「怒りの感情をいつまでも引きずっていてはならない。早い段階で適切に処理する必要がある」と教えているのです。
 ヤコブの手紙1章19節-20節の中に、こんな言葉があります。「愛する兄弟たち、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」
 私たちの心には怒りがすぐに起こって来ます。そして、その怒りに引きずられてしまうことが多いのです。しかし、ただ、怒りを爆発させたり、ひたすら押さえ込もうしたり、いたずらに自分や相手を責めても良い結果にはなりません。
 まず、自分が怒っていることを認め、神様の前で落ち着いて怒りの原因を考え、怒りに対処する方法を考えましょう。自分の状態を適切に判断し、話し合いが必要なら適切な言い方ができるように、また、怒りが生じる状況を適切に変えていくことができるように、神様の導きと知恵を求めつつ怒りの処理の仕方を学んでいきましょう。また、怒りのために間違った言動をした場合は、すなおに反省し謝罪できるようにしたいですね。神様が私たちの心を守り成長させてくださることを期待しつつ歩んでいきましょう。

3 盗むな、与えよ

 パウロは三番目に、28節でこう言っています。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」これを読むとびっくりしますね。教会宛の手紙なのに「盗みをしている者は、もう盗んではいけない」と書いてあるのですから。もし城山教会宛にこんな手紙が来たら、「何て失礼なことを言うんだ」と怒ってしまいそうですね。
 確かに、古代世界で盗みは大変多くはびこっていたようです。ギリシャの都市で最も人気のあった犯罪は「盗み」で、とりわけ当時の社交場である公衆浴場では盗みが多かったそうです。
 しかし、パウロが書いている「盗みをしている者」というのは、そういう法に触れるような盗みをするプロの泥棒というよりも、盗みをしているような生き方をしている人々のことを指しているように思われます。
 ここで「盗みをしている者」と言われているのは、どのような人たちだったのでしょう。どうも、いつも自分が何かを受け取ることしか考えないような人たちであったようですね。働くことができるのに、働かないで、ただ人から受け取ることだけ考えて生活しているような人たちです。「そういう人たちは盗みをしているのと同じだ」とパウロは言うのです。そして、「そんな生活はやめて、自分で働きなさい。他の人の労苦に頼るのではなく、自分でほねおって働きなさい」と戒めています。。もちろん、働きたくても働けない健康上の理由や様々な事情がある場合があります。そうした事情のすべてを否定して何が何でも働けと言っているわけではありません。それぞれの働きはみな違います。しかし、自分が受けることだけを考えるのではなく、自分が他の人のためにできることを行いなさいとすすめているのです。私たちは、生計のために働き、与えられたものをきちんと管理し、また、他の人と分かち合うことを考えていくことが大切なのです。「受けるだけではなく、与えて生きる」ことを神様は私たちに学ばせようとされます。

 さて、「盗みをしている者」について、もう一つの意味が書かれている箇所があります。旧約聖書の一番最後のマラキ書3章8節で、神様は神殿に礼拝に来る人々に対して「あなたがたはわたしのものを盗んでいる」と言われました。問題は、人々の礼拝の態度でした。当時の礼拝は形式化し、神様へのささげ物が軽視されていました。本来なら、神様の豊かな恵みを感謝して最上のものをささげるべきなのに、自分にとって無価値などうでもいいような物ばかりをささげていたのです。そんな人々に対して神様は「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。本来わたしにささげるべきものをささげていない」と言われました。人は、神様の支えなしには一日も生活できないのに、その神様の恵みを忘れ、感謝を忘れ、与えられたものを自分勝手に自分のためだけに使っている姿は盗みをしているのと同じだというのです。そのような態度を改めて、神様を信頼し、心からの感謝をもって神様を礼拝する必要があると預言者マラキは語りました。
 パウロも、第二コリント8章9節で、コリント教会の人たちにこう書き送っています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」イエス様は私たちと同じ立場にまで下りてきてくださり、ご自分のいのちも与えてくださいました。それによって、私たちは、決して失われることのないいのちが与えられ、神様の栄光の富を受け継ぐ者となったのです。
 ですから、イエス様ご自身も、マタイ10章8節で、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。また、使徒20章35節には、「受けるよりも与えるほうが幸いである」というイエス様の言葉が記されています。
 神様の恵みに感謝して、私たちが互いに分かち合いながら生きていくことの大切さを教えています。ですから、今週、受けるより与える方が幸いだというイエス様の言葉を、それぞれの場において具体的に生き味わう週となりますように