城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年七月一二日             関根弘興牧師
                   エペソ五章一節~七節

エペソ人への手紙連続説教21
  「愛されている子どもらしく」

 1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。 7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。(新改訳聖書)

 エペソ人への手紙の連続説教を再開します。
 今日から5章に入りました。この章の最初に「愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさい」と書かれていますね。では、「神にならう者になる」とはどういうことなのでしょうか。
 ここで、「ならう者」と訳されている言葉は、「見習う者」「模倣者」という意味ですが、ここでパウロが言っている「神様にならう者」というのは、自分が神のようになろうとすることではありません。また、特別な宗教の教祖になるとか、特別な人間離れした人になるという意味でもありません。
 では、パウロは、どういう意味で言っているのでしょうか。1節に、「愛されている子どもらしく」と書かれていますね。私たちは神様に愛されている子どもです。ですから、神様に愛されていることを知ることによって、その神様の愛に応えつつ、神様の姿を思い、見習いながら成長したいと願うようになるのが自然な姿です。
 でも、見習うと言っても、目に見えない神様をどのように見習うのでしょうか。神様は、私たちが見習うことが出来るように、聖書を与えてくださいました。また、目に見える姿で模範を示してくださいました。それが、イエス・キリストです。私たちは、聖書から神様のことを学び、また、イエス・キリストの姿を見ることによって、神にならう者となっていくことができるのです。
 では、具体的にはどのようなことをならっていくのでしょうか。

1 愛のうちに歩む

 まず、2節に「愛のうちに歩みなさい」と書かれていますね。 神様は愛なる方ですから、神様にならう者として愛のうちに歩むことは大切ですね。でも、「愛のうちに歩みなさい」と言われると、「そうか、愛のうちに歩まなければならないのか。頑張ろう」と気負ってしまう人もいるのではないでしょうか。 しかし、今までも何度もお話ししたように、クリスチャン・ライフには順序が大切なのです。まず、神様の恵みと約束があって、その恵みと約束があるからこそ、具体的な実践へと移っていけるということでしたね。聖書には、この順序が繰り返し強調されています。愛についてもそうです。
 たとえば、第一ヨハネ4章19節には、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」と書かれています。神がまず私たちを愛してくださった、その事実を知ったからこそ、私たちは愛に生きる者とされていくのです。
 今日の箇所の2節には、「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」とありますね。
 これは、ユダヤの社会では馴染みのあるある言葉です。エルサレムの神殿では、人の罪の身代わりとして動物が犠牲として捧げられていたからです。でも、動物の犠牲では、私たちの罪を完全に贖うことはできませんでした。しかし、イエス・キリストは、私たちの罪をすべて背負って十字架についてくださいました。つまり、キリストの私たちへの愛は、ご自分のいのちをささげるほどの愛なのだということなのです。
キリストがそれほどまでに私たちを愛してくださったのは、私たちがキリストを愛し、従っていたからでしょうか。そうではありませんでした。
 ローマ人への手紙5章8節には、こう書かれています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちが弱く、神様に背を向けている罪人であったときに、神様はキリストの十字架を通して私たちへの愛を示してくださったのです。神がまず私たちを愛してくださったのです。
もし、この順序を間違えると、クリスチャン・ライフは途端に重荷になっていきます。「神様に愛されるためには、まず私が人を愛さねばいけないのだ」と考えて、自己否定、自己放棄、自己犠牲に生きようとしてしまうのです。しかし、そんな生き方は、しばらくは続けられたとしても、すぐに疲れてしまいますね。そして、出来ない自分にがっかりして、自分は愛がない者だ、愛に生きることなどできない、と結論づけてしまうのです。しかし、それは、順序が間違っているからなんです。
 イエス様は、ヨハネ15章9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。私たちは、まず、イエス様の愛の中にとどまることが大切です。まず、神様が自分を愛してくださっていることを充分に味わうのです。まず本当の愛とはどのようなものかを知らなければ、愛のうちに歩むことなどできませんね。しかし、それで終わりではありません。イエス様の愛を知ることによって、「愛のうちに歩む」という行動が生まれてくるのです。
 では、「愛のうちに歩む」とは、どういうことでしょうか。
 第一ヨハネ3章16節には、こう書かれています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 「キリストが私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださった」という事実を知ったからこそ、私たちは愛の本質を知ることができたわけです。「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」というのですが、そう言われると、急に心配になりますね。「兄弟のために死ななければならないのか。そんなことはとても出来ない」と思ってしまうのではないでしょうか。
 では、この「兄弟のために、いのちを捨てる」とは、どういう意味なのでしょうか。
 キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださった目的は何でしょうか。罪の中に死んでいた私たちを赦し、生かすことでした。つまり、神様の愛は、人を人として生かす働きなんですね。ですから、「兄弟のために、いのちを捨てる」というのは、闇雲にいのちを投げ出すということではなく、自分と関わりのある人が最善に生きていくことができるように、自分の出来ることをしていくということが基本にあるのです。ある時には、ほんの小さな事であるかも知れません。ひと言をかけることだけかもしれません。また、時には、多大の時間や犠牲が伴うかも知れません。でも、基本は、他の人を生かすために最善のことをしていくということです。相手を理解し、思いやり、時にはさとし、戒めることもあるでしょう。相手の状態を理解して、相手にとって本当に必要なことをしていくのです。そのためには、まず相手の最善のために何をすべきか神様の導きと助けを祈り求めていくことも大切ですね。
 そのようにして、一人一人が愛のうちに歩んで行くならば、互いに生かし生かされる関係が気づかれていくのです。それこそ、キリストのからだを建て上げることであり、また、「互いに愛し合いなさい」というキリストの最も大切な戒めを実践することになるのです。

2 聖徒にふさわしく歩む

次に、パウロは3節で「聖徒にふさわしく」という言葉を使っていますね。
 今までも繰り返して説明しましたが、「聖徒」とは、「神様の専用品となった人々」ということです。私たちは、神様に用いられる神様の専用品となったのですから、それにふさわしく歩むことが大切だ、とパウロは言っているのです。
 第一コリント10章31節には、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と書かれています。
この言葉は、勇気が湧いてくる言葉です。私たちは、神様の栄光を現すために何か特別な素晴らしいことをしたり、聖人君主のような立派な生き方をしなければならないのではありません。食べるにも、飲むにも、何をするにも、つまり、日常生活の些細なことの中に神様の栄光を現すことができるというのです。日常を通して、神様をほめたたえ生きていくことができるのですね。
 その生活の中で、パウロが何回も警告しているのが言葉の問題です。3節ー4節に「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです」と書かれていますね。
 ここでパウロは、口にすることさえいけない言葉の例をいくつか挙げていますが、これらの言葉は、相手の人格を傷つけ、破壊し、自らの品性をも損ねてしまう特徴があります。今は、会社でも学校でも「セクハラ」「パワハラ」「モラハラ」ということが大きな問題になっていますね。でも、聖書は二千年も前から、こうした言葉による暴力、言葉による人格無視、言葉による蔑みに対して注意を与えているのです。そのような言葉は、神様の専用品である聖徒にはふさわしくないのです。
 また、5節を読むと、「不品行な者、汚れた者、むさぼる者、これが偶像礼拝者です」とありますね。この人たちは、言葉を口にするだけでなく、実際に行動している、そして、それは、そのまま偶像礼拝者なのだとパウロは非難しています。
 聖書は、唯一の神様以外のものを礼拝することは、すべて偶像礼拝であると教えています。実際に木や石で偶像を作って拝むことだけでなく、自分の欲望に従って生きること、むさぼりのままに生きること、それも偶像礼拝だというのです。
 人は何を礼拝するかによって、人生が大きく変わってしまいます。礼拝するものに縛られ、支配されてしまうからです。木や石を特別なものとして礼拝するなら、その木や石に縛られていくでしょう。特別な人を教祖のように礼拝していくなら、その人の言葉や行動に束縛されてしまいます。人生は虚しいのだという人生観を礼拝するなら、虚しさから抜け出すことは決して出来ないでしょう。ここでパウロが言っているように「不品行、汚れ、むさぼり」を礼拝しているなら、結果的に自らを滅ぼすことになってしまうでしょう。そのように様々な偶像を礼拝する生き方では、神の国から遠く離れていくだけなのだとパウロは警告しているのです。
 それから、6節には「むなしいことばに、だまされてはいけません」とありますね。
 「むなしいことば」とは、「内容のない教え」「偽り事」「不誠実な言葉」とも訳すことのできる言葉です。当時の社会においても、教会の中においても、むなしい言葉によって人生を台無しにされてしまうことがあったわけです。
 パウロは、こうしたむなしいことばに、だまされるな」と警告していますね。人は、初めから中味のない無駄な話だと思ったら聞こうとしません。しかし、あたかも中味のある新しい教えであるかのように語られると、だまされてしまうわけです。
 エペソ教会の中にも、むなしいことばを語り、イエス様の恵みから引き離そうとする動きがあったようです。
 たとえば、ある極端な人たちは、こう教えました。「人間は肉と霊でできている。肉体は、いつか死んで腐ってしまう一時的なものなのだから、肉体がすることは決して罪にならないし、人を害することもない。大切なのは霊であって、肉体に閉じ込められている霊を解放する必要がある。肉体を欲望のおもむくままにさせておくことによって、その隙に霊を解放することができる」というのです。言葉巧みに語って、肉の欲望に従うことを正当化しているわけですね。しかし、それは、結局、自らを破壊してしまうだけなのです。
 今日も、いろいろな教えの風が吹いています。「むなしいことば」によって、だまそうとする働きは後を絶ちません。ですから、私たちは、いつも聖書に立ち返る癖をつけていきましょう。もし「あれ、これは少しおかしいのではないか」と疑問に感じることがあったら、共に聖書を調べて、チェックしていきましょう。むなしいことばではなく、神のことばによって導かれ、聖なる者とされていきましょう。
 
3 感謝を持って歩む

 そして、パウロは、神に愛されている子どもである私たちにふさわしいのは、感謝することだと教えています。
4節の最後に、「むしろ、感謝しなさい」とありますが、ここには、誰に何を感謝するのかは書かれていませんね。「他の人が、傍らでみだらな、愚かな、下品な冗談を言ってるような時、あなたは神様に感謝をささげなさい」とパウロは言っているのでしょうか。その光景には、少し違和感があるように思いますね。
 この「感謝」と訳される言葉は、「好意を示す、愛顧を与える」という意味の言葉から生まれました。
 以前学んだ4章29節で、パウロは、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」と書いていましたね。また、コロサイ4章6節では、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」と言っています。つまり、「人を蔑み、破壊していくような言葉を語る人たちがいるけれども、主にあるあなたがたは、人の徳を養い、親切で、塩味のきいたことばを語りなさい」とパウロは言っているのですね。そして、その基になるのが「感謝」だ、とパウロは考えているのではないかと思います。
 人と人との関わりに大切なのは、「感謝」です。感謝を表す言葉は「ありがとう」ですね。漢字で書くと「有り難う」です。「有ることが難しい」と書きますね。本来、無くて当たり前なのに、有るからこそ「ありがとう」なんですね。私たちは互いの存在に対してどれほど感謝しているでしょうか?互いの存在を感謝し、大切に思うとき、人の徳を養う言葉、人を生かす言葉を語ることができるようになるのです。
 そして、もちろん、私たちは、神様への感謝を忘れてはいけませんね。
 感謝することなんて何もないと考える人がいます。しかし、よく周りを見てください。日常の至る所にたくさん感謝すべきことがあるのです。
 マタイ5章45節には「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と書かれています。
 もう天に召されましたが、茅ヶ崎教会の牧師をしておられた守本愛子先生は、昔、結核を患い、肺の片方がありませんでした。ですから、特に風邪をひくと呼吸が困難になってしまうのです。私がお会いした時は、一日中、鼻から酸素を吸入しながら生活しておられました。説教をするときにも、酸素ボンベを傍らに置いておられるというのです。その守本先生がこう言っておられました。「関根先生、私は毎日、こうして酸素を吸入しているけれど、酸素の代金も馬鹿にならないのよ。みんな自由に空気を吸って、それが当たり前のように思っているけれど、もし、神様が私たちに毎日の酸素代を請求してきたら大変よね。だから、もっともっと神様に感謝の領収書を出さないといけないわよね。でも、私たちは神様に感謝するどころか、『これしてくれ、あれしてくれ』と請求ばっかりしているんだから。」
 皆さん、私たちがこうして生かされているのは、傍らにいつもたくさんの人の支えがあるからです。だから、感謝です。そして、私たちは、罪を赦し、永遠のいのちを与え、救い、導いてくださるキリストの愛の中に生かされているのです。そのことを深く思い、受け取っていくとき、感謝が生まれないはずがないではありませんか。第一テサロニケ5章に「いつも喜びなさい、たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」とあるように、感謝の言葉を唇からあふれさせ、神様の栄光のために生かされている者として、今週も歩んでいきましょう。