城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年七月二六日             関根弘興牧師
                  エペソ五章八節~一〇節

エペソ人への手紙連続説教22
   「光の子どもらしく」

8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。9 ──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです── 10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(新改訳聖書)

パウロは、この手紙の後半で、「・・・のように歩みなさい」という言葉をよく使っています。たとえば、4章1節では、「召しにふさわしく歩みなさい」と書いていますし、前回の5章2節では、「愛のうちに歩みなさい」とあります。そして、今日の箇所では、「光の子どもらしく歩みなさい」と記しています。クリスチャンとして、どのように歩んでいくのかということをパウロは繰り返し語っているわけですね。今日は「光の子どもらしく歩む」ということについて学んでいきましょう。
 まず、5章8節に「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」とありますね。びっくりする言葉だと思いませんか。「あなたがたは、以前は暗やみの中にいました」と言うならわかりますが、パウロは、「あなたがたは以前は暗やみだった」、つまり、「あなたがたの存在そのものが暗やみの性質を持っていた」と言っているのですから。
 といっても、これは性格が暗かったという意味ではありません。明るい性格の人もいれば、根暗な性格の人もいるけれども、そういう性格とは関係なく、皆、以前は「暗やみ」だったいうのです。では、それはどういう意味でしょうか。
 エペソ2章1節で、パウロはこう書いていましたね。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
 つまり、私たちは、以前は、「罪の中に死んでいる状態」だったというのです。「罪」というのは、「神様との関係がずれた状態」を表す言葉です。いのちの源である神様との関係がずれてしまって、神様との親しい交わりが途絶えてしまい、電球があっても断線状態で光ることができないような状態です。そのことをパウロは「あなたがたは、以前は暗やみだった」と言っているのです。
 しかし、パウロは、続けて「今は、主にあって、光となりました」と記していますね。キリストが神様と私たちの関係を回復してくださったので、私たちは神様とつながり、神様のいのちを受けて光を放つことのできる者に変えられたのだというのです。
 イエス様は、ヨハネ8章12節で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。イエス様は暗やみを照らすまことの光として来てくださいました。このキリストを心に迎え入れた人は、内側に決して消えることのない光を持って歩むことができるようにされたのです。私たちは光そのものにはなれませんが、内におられるイエス様の恵みの光、救いの光り、癒やしの光りを輝かせながら、世の光として歩んで行くのです。
 だから、パウロは「光の子どもらしく歩みなさい」と勧めているわけですが、では、「光の子どもらしく歩む」とは、具体的にはどういう歩みなのでしょうか。
 9節、10節に「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」とありますね。光の子どもらしく歩んでいくと「あらゆる善意と正義と真実」の実を結んでいくことができる、そして、そのためには、「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」というのですね。
 つまり、「光の子どもらしく歩む」とは、「主に喜ばれることが何であるかを見分けて歩む」ことだというわけです。
 そのことについて考えていきましょう。

1 主に喜ばれることとは

 まず、「主に喜ばれること」とは、一体どういうことでしょう。
 この「喜ばれる」と訳されている言葉には、「受け入れられる」という意味があります。旧訳聖書の中で、神殿で供え物をするときに使われる儀式用語なんです。「神様に喜ばれる供え物」「神様に受け入れられる供え物」というふうに使われます。神様との関係の中で大切なのは、神様に喜ばれる供え物をささげることですね。では、神様は、どのような供え物を喜ばれるのでしょうか。
 第一サムエル15章22節にこう書かれています。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
 つまり、神様は、一人一人の心をご覧になるので、どんなにすばらしいいけにえをささげたとしても、神様に聞き従おうとしないならば、神様は決して喜ばれない、神様が最も喜ばれるのは、神様の御声に聞き従うことだというのですね。
 ところが、旧約聖書を読むと、人々が形式的にいけにえをささげるだけで神様に聞き従おうとしない様子が繰り返し記されています。
 たとえば、マラキ書には、当時、多くの人が、自分のために最も良い物をとっておき、神様には、どうでもいいような物、使い物にならないような物をささげていたことが記されています。神様をなおざりにして、形式的に礼拝するだけで、自分勝手に生きていたのです。そのような姿を神様は喜ばれないというのです。
 新約の時代に生きる私たちは、もう動物のいけにえをささげることはしませんね。イエス様ご自身が完全ないけにえとなってご自分をささげてくださったからです。
 しかし、私たちが神様にささげるものがあります。ローマ12章1節にこう書かれています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」私たち一人一人が神に受け入れられ、喜ばれる供え物として自分自身をささげることが大切だというのです。
 しかし、私が「主に喜ばれる供え物として自分自身をささげましょう」ということだけを説教したら、皆さんは、どんなことを考えますか。「そうか、何か立派な行いをしなくては」とか、「きちんと奉仕しなくては」とか、「主に喜ばれるように頑張らなければ」と考えてしまう方がいるのではないでしょうか。
 でも、「主に喜ばれる」とは、そういうことでしょうか。自分で何かをして神様を喜ばせなくてはいけないのでしょうか。 そうではありませんね。先ほどの第一サムエル15章22節に「聞き従うことは、いけにえにまさる」と書かれていたように、神様が最も喜ばれることは、私たちが神様に聞き従うことです。私たちが神様のみこころを知って、そのみこころにそって生きていくときに、神様は喜ばれるのですね。なぜなら、そのように生きるときに、私たちは最も満ち足りた最善の人生を送ることができるからです。神様は、私たちを愛しておられ、私たちが何かが出来る出来ないにかかわらず、神様の恵みと祝福の中で平安を持って生きることを願っておられるのです。私たちがその神様に感謝し、賛美し、信頼して生きることが神様にとって最高の喜びなのです。

2 神のみこころの見分け方

でも、実際の生活の中で、神様に聞き従って生きる、主に喜ばれる生き方をするというのは、どういうことなのか、判断が難しいことがありますね。「今行っていることは、または行おうとしていることは、果たして主のみこころだろうか」と悩むことがありますね。特に、何かを決断しなければならないときに、「これは神のみこころだろうか」と迷うわけです。
 パウロは、10節で「主に喜ばれることがなんであるかを見分けなさい」と記していますが、どのように見分けたらいいのでしょうか。
 パウロが使っている「見分ける」という言葉は、「検査する」とか「調べる」という意味があります。神のみこころであるかどうかを検査しなさい、調べなさい、と言っているわけですが、私たちは、どのようにして検査することが出来るのでしょうか。検査の基準となるものを紹介しましょう。

①聖書

 まず大切なのは、聖書に聞くことです。それが、最も大切な姿勢なのです。どんなに「神様が示された」と言っても、聖書の調和の声から離れているのであれば、それは神様のみこころではありません。
 前にお話しましたように、当時、いろいろな惑わしの教えやむなしい教えの風が吹いていました。神秘的なことを語り、「これが神のみこころだ」と言いながら、実は聖書から離れていく姿があちこちにあったのです。
 今も同じです。特に気を付けなければならないのは、聖書の中の自分に都合のいい箇所だけを引用して、「これが神のみこころだ」と主張することです。聖書全体からバランス良く判断しなければなりません。
 だから、私たちは聖書を読むのです。少しずつでも、聖書を読んで、聖書に親しむ習慣をつけましょう。それが神の思いを知る、神のみこころを知る第一歩です。聖書は「積んどく」ものではなく、「通読」するものなんですね。

②心の平安

 第二の基準は、心に平安があるかどうかということです。
 ピリピ2章13節に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあります。主は、私たちに何かをさせたいと思うときには、志を与えてくださるのです。このことをしたい、あのことをしてみようという思いが与えられたら、その志を大切にしてください。その志が主のみこころなら、困難があったとしても、主は心に平安を備えてくださるのです。
 私は牧師になろうとした時、自分が牧師になることは本当に神様のみこころだろうか、と悩みました。神様が何か神秘的な方法でみこころを示してくださらないかなあ、と期待したんです。たとえば、直接、私の耳に聞こえるように「牧師になりなさい」と語ってくださるとか、はっきりわかる方法で示してくださらないかと期待したのですね。しかし、何もありませんでした。そして、神学校の入学試験を受けたのです。筆記試験の後、面接がありました。担当の牧師先生に「関根君、君は牧師になることが神様のみこころだと確信していますか」と聞かれたのですが、「正直が一番」をモットーにしている私は、「みこころかどうかは、牧師になってみないとわかりません」と答えたのです。しかし、感謝ことに無事に入学できました。
 私はその時、牧師になろうという志が与えられていたことは分かっていました。そして、「神様は私の人生に不思議な計画を持ち、私の人生を握っておられる。だから神様は、私の人生に、神様の計画どおりに事を成してくださる」という思いを持っていたので、不思議な平安があったのですね。
 皆さんも人生の岐路に立って、いろいろな決断をしなければならないことがありますね。その時に、進もうとしている道の先に困難があると予想されていたとしても心に平安があるかどうかということが大切なのですね。

③クリスチャンとしての経験

 それから、クリスチャンとしての経験を重ねることも大切です。ヘブル5章14節に、こう書かれています。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」クリスチャンとして生きていく中で、経験によって良い物か悪い物かを見分ける感覚が訓練される、というのです。
 赤ちゃんは何でも口に入れてしまいますね。でも、大人はビー玉を食べたりしません。生活経験によって、食べて良い物と悪い物の区別をしていくからです。
 私たちは、クリスチャンとして歩んで来た人生の長さはみな違いますが、いろんな経験を重ねていきますね。失敗もあり挫折もあり、たくさんの経験によって、良い物と悪い物、主のみこころであるかそうでないかを見分けることのできる感覚が少しずつ備わってくるのです。
 もちろん、その感覚は絶対ではありませんから、感覚だけにたよって判断することはよくありません。でも、神様は、私たちを成長させてくださいます。クリスチャンとして、神様を礼拝しつつ生活していく中で様々な経験を通して主のみこころを判断する力が次第に養われていくのです。

④主にある仲間たちの意見

 主のみこころを見分けるときに、他のクリスチャンたちの意見も大切です。自分がみこころだと思っても、他のクリスチャンたちが「それは違うのではないか」と言ってきたら、大いに検討したほうがいいということです。
 たとえば、私が突然、「これから競輪の選手になって小田原競輪に出場し、この教会に人々を導いてきます。これは神様のみこころです」と言い始めたらどうでしょうか。きっと皆さん全員が、「関根先生は、どうしちゃったんだろうね。きちんと言ってあげないと駄目だね」となるでしょうね。
 聖書は「主にある互いの交わり」を大切にします。お互いに吟味し合うことが大切だと教えています。自分が志を持って何かをしようとするときに、主にある仲間がそのことをどのように思うかは大切なことなのです。他の人の意見に耳を傾けることが大切なんですね。
 ただ、他の人の意見に耳を傾けたからといって、必ずしもその意見の通りにしなければならないということではありません。 たとえば、パウロがエルサレムに上って行こうとしたとき、仲間のクリスチャンたちは猛反対しました。エルサレムに行ったら、迫害と苦しみが待っていることは目に見えていたからです。しかし、どんなに反対されてもパウロの志は揺らぎませんでした。エルサレムに行くことが神様のみこころだと強く確信していたからです。そして、そのことを皆にはっきりと語りました。そこで、仲間たちも最終的にはパウロの決心を受け入れ、「みこころのままに」と言ってパウロを送り出し、パウロのために熱心に祈り続けたのです。
 人の言葉というのは時には当てにならないこともあります。けれども、信仰を共有している人たちの意見を求めることは大切なことです。お互いに率直に話し合い、互いの意見を聞きながら、自分の志がみこころにそったものかどうかを検討していくことができ、互いに祈り会うことができるからです。

3 主に委ねる

 さて、神様のみこころかどうかを判断する基準についてお話ししましたが、そういう基準があったとしても、これからしようとしていることが百パーセント主のみこころであると確信することは難しいですね。不可能だといってもいいでしょう。逆に、「これは主のみこころです。絶対に間違いありません」と断言している人を見ると、かえって心配になりますね。
 多くの場合、私たちは「たぶんこれが神のみこころだろう」という程度の思いをもって進んでいくのではないでしょうか。
 でも、皆さんに是非知っていただきたい素晴らしいみことばがあります。箴言3章5節の言葉です。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」すばらしい約束ですね。私たちが主に信頼しながら歩んで行くなら、主は、私たちの行く所どこにおいても、私たちの道をまっすぐにしてくださるというのです。もし見当違いの道や曲がった道に進んでしまったとしても、主がまっすぐにしてくださいます。ですから、私たちは、神経質になって「これは神のみこころだろうか。あれは神のみこころだろうか」と考えすぎる必要はないのです。
 もし、志が与えられたら、実行してみてください。もし右や左に逸れたら、主は、ちゃんと軌道修正してくださいます。あるいは、その道に進めないようにしてくださるのです。そして、もし選んだ道を進めなくなったら、それは、主がさらによい道を用意してくださっているということなのです。
 これは、私の経験ですが、私は、神学校に入るとき、最初に考えていた学校には入学できませんでした。誰も落ちることのない学校だったのですが、私はある事情があって入ることが出来なかったのです。道が閉ざされたわけですね。しかし、牧師になろうとする志はまったく消えませんでした。そして、東京の別の神学校に入学したのです。神学校の卒業間近になって、私は、卒業後に宇都宮の教会の牧師になることがほぼ決まっていました。そこは、教会堂と牧師館と広い庭がある教会でした。しかし、不思議な経緯があって、突然、その話が白紙に戻ってしまったのです。どうしようかと思っていたとき、神学校の中に住んでいた宣教師を通して、小田原での開拓伝道の話を聞きました。小田原にいるジョンソン宣教師がこれから教会を始めるので手伝ってくれないかというのです。そこで、私は二年間ほどお手伝いすることにしました。そして、卒業前から、ときどき小田原に行って説教させていただくことになったのです。ところが、卒業直前のある日曜日、小田原で礼拝の説教をさせていただき、皆で昼食を食べているとき、突然、ジョンソン先生が心筋梗塞の発作を起こし、そのまま天に召されてしまいました。その結果、私は、設立されたばかりの城山教会の牧師に就任することになりました。そして、今日までこの教会の牧師を続けているわけです。小田原には二年間しかいないつもりだったのに、神様は小田原で牧会する道を開いてくださったのです。私は、初めから小田原で牧師をするのが神様のみこころだとわかっていたわけではありません。でも、その時々に判断しながら進んでいったとき、神様がよりよい道へと導いてくださったのです。
私たちは、神様のみこころを知りたいと求めますが、神様は神秘的な方法で示されるよりも、私たちの毎日の生活の中で、いろいろな気づきを与え、志を与え、聖書の言葉を通して勇気と励ましを与え、周りの状況や環境を整えて、みこころのままに導いてくださるのです。ですから、大切なのは、愛なる神様に人生を委ね、信頼し、感謝を持って一歩一歩歩んでいくというとてもシンプルな生き方に歩むことなんです。
 自分の判断が間違っているかどうかをあまり心配する必要はありません。主は、私たちの道を開くことも閉ざすこともできる方ですから、間違っていれば道を閉ざして、もっとよい道に導いてくださいます。ですから、あまり思い煩うことなく、主に信頼し、主をあがめつつ歩んで行きましょう。「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と約束されているのですから。

 光の子どもとして歩んでいくことができるとは、なんと幸いなことでしょう。私たちはキリストのからだを建て上げる仲間です。どんな小さな炎も、二つ、三つと集まれば大きな炎になります。光の子が二人、三人と集められるとき、それはすばらしい光となって周りを照らしていくことでしょう。そんな、仲間とされていることを感謝しつつ、今週も主の恵みの光をたっぷりと受けて、光りの子として歩んでいきましょう。