城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年八月二日              関根弘興牧師
                 エペソ五章一一節~一四節

エペソ人への手紙連続説教23
   「キリストに照らされて」

 11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12 なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。 死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(新改訳聖書)


 先週は、「光の子どもらしく歩む」とはどういうことか、ということについて学びました。それは、主のみこころが何であるかを見分けて歩むことだ、ということをお話ししましたね。
 ただし、「これがみこころだろうか」「あれがみこころだろうか」と神経質になって考えすぎる必要はありません。箴言3章5節にこう約束されているからです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」すばらしい約束ですね。主はあなたの行く所どこにおいても、みこころのままにあなたを導き、道を整えてくださる、というのです。
 ですから、私たちがそれぞれの生かされている場において、「イエス様をあがめます。信頼します。私の道を主に委ねます」と告白していくとき、主はみこころのままに私たちを導いてくださいます。もし私たちが迷ったり、違う道に進んでしまったとしても、主がまっすの道に戻してくださるのです。ですから、主にお任せして、安心して進んでいきましょう。
 ここまでが、前回お話ししたことでしたね。次に、今日の箇所に入りますが、今日のテーマは、14節の最後に書かれているように「キリストが、あなたを照らされる」ということです。。キリストに照らされる歩みとは、具体的にどのようなもので、何をもたらすのかということを、ご一緒に考えていきましょう。

1 暗やみのわざを明るみに出す

 まず、11節に「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」と書かれていますね。これは、どういうことでしょうか。
 「実を結ばない暗やみのわざ」とは何でしょう。12節では、それは「彼らがひそかに行っていること」であって、「口にするのも恥ずかしい」ことだと書かれていますね。
 「ひそかに行っている」とは、つまり、「隠れて行っている」ということですね。ある学者は、これは何か宗教的な秘儀のようなことではないかと言います。また、これは性的なみだらな行為を指しているのではないかと解釈する学者もいます。 パウロは、「そういう暗やみのわざに仲間入りするな」と注意を与えています。そして、仲間入りしないだけでなく、さらに「それを明るみに出しなさい」と言っていますね。
 では、「明るみに出す」とはどういうことでしょうか。
 普通、何かを「明るみに出す」と言うときには、「言葉や行動によって指摘する」という意味のことが多いですね。では、パウロがここで「明るみ出しなさい」と言っているのも、「この人は、実を結ばない悪いことをやっている!」とか「あの人は口にするのも恥ずかしいことをやっている!」とか言葉で批判し、糾弾することを意味しているのでしょうか。そうではないと思います。
 第一コリント4章5節には、こう書かれています。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」主ご自身が、闇の中に隠れたことを明るみだし、明らかにされるのだから、先走ったさばきをしてはいけない、というのですね。
 もちろん、何かが間違っていることに気づいたり、何かが神様に喜ばれることではないと感じたときには、互いに注意したり戒めたりすることは大切です。ただし、それは、互いの徳を高め、互いの成長に役立つために必要だからです。しかも、言い方や言うべき時や場所や状況に十分配慮しなければなりません。ただ闇雲に責めたり非難したりすることは、パウロの言う「明るみ出す」ことではないのですね。
 それでは、この「明るみに出す」とは、どのようなことなのでしょうか。
第一ペテロ4章4節に「彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います」と書かれています。
 当時、コリントの町でもエペソの町でもそうでしたが、ギリシャ神話に登場する神々を祭った神殿には神殿娼婦がいました。多くの人はその中で不品行を行い、欲のおもむくままに生きていたのです。しかし、そうした社会の中でクリスチャンになった人々は、もはやそういう世界と決別していくわけですね。すると、以前の姿を知っている人たちは、「なんだお前、クリスチャンになったら、付き合いが悪くなったな!」と悪口を言ってくるというのです。二千年前も今もあまり変わりませんね。
 クリスチャンになると、以前は平気で行っていたことが、「これは違う」と気づくことがたくさんあるわけです。そして、これは良いこと、これは愚かなこと、これは人の益になること、これは人を害することなどを、きちんと判断して、良くないことから袂を分かち、加わらなくなっていきます。そのようにして、生きていくこと自体が、パウロの言う「明るみ出す」ことにつながるのではないでしょうか。光の子どもとしてのクリスチャンの態度や行動が、周りの人々を照らし、暗やみの脆さや危うさをも明るみに出していくことになるのですね。
 イエス様は、マタイの福音書5章13節-14節で「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界の光です」と言われました。キリストに照らされて歩んでいる一人一人の存在そのものが腐敗を防ぐ塩となり、周りを照らす光とされているというのですね。
 ですから、パウロは、社会との関わりを完全に断ちなさいとか、社会から隔離された生活をしなさい、とは言いません。むしろ、社会の中で生きていきなさい、社会に妥協し迎合して生きるのではなく、暗やみのわざを明るみに出す光として生活しなさい、と言うのです。
 
2 明らかにされたものはみな、光

 次に、13節ー14節に、「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」と書かれていますね。
これは、キリストを信じた人々にも当てはまる言葉です。パウロは、前回の箇所の5章8節で「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」と書いていますね。「私たちは、以前は暗やみそのもののような状態だったけれど、光なるキリストによって光となった」というのですが、それは、別の言い方をすれば、今日の13節に書かれているように、「私たちは暗やみから明るみに引き出され、光なるキリストによって明らかにされ、今は、光となっているのだ」ということなのです。
 イエス様は、ヨハネ8章12節で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と宣言なさいました。イエス様は、「世」つまり「神様抜きの暗やみのような状態の世界」に来てくださった光です。
 光がなければ、私たちは生きていくことができませんね。昔、小学生の集まりで「もし太陽がなくなったら、どうなると思いますか」と尋ねたら、いろいろな答えが返ってきました。「みんな凍えて死んでしまう」「何も見えなくなってしまう」、中には「洗濯物が乾かない」という子もいましたが、とにかく、光が失われたら、私たちは誰一人生きていくことができませんね。光は、私たちを生かし、成長させ、歩むべき道を照らしてくれます。
 ところが、誰もが喜んで光を受け入れるわけではないのです。なぜなら、光によって、今まで見えなかった汚いもの、自分が見たくないもの、人に見られたくないものが照らし出されてしまうからです。冷蔵庫の裏側を懐中電灯で照らしてみてください。タンスの暗い隙間を照らしてみてください。何が見えますか。暗やみにゴミはたまるのですね。
 私たちの心も同じです。暗やみの時には見えなかったのですが、イエス様の光に照らされると、何が見えますか。醜い自分、汚い自分、弱い自分、高慢な自分が見えてくるのです。光に照らされるということは、事実を突きつけられるということです。自分の姿をまざまざと見せつけられるということです。それは時には、とても辛いことですね。
 ヨハネの福音書3章20節には、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」と書かれています。人は、暗闇が好きなんですね。暗闇なら汚れやほこりが目立たないからです。汚れていてもわからないのです。
 けれども、イエス様は、光なる方ですから、暗やみに隠れていたものをすべて明るみに引き出して明らかにされるのです。それは、時には辛いことでしょう。しかし、「明らかにされたものはみな、光だからです」と書かれていますね。私たちの本当の姿が照らし出され、自分と正直に向き合わざるをえなくなったときにこそ、私たちは、赦しの恵みを味わうことができ、大胆に喜びをもって本来の人生を歩んでいくことができるようになるのです。
 ですから、恐れずに、暗やみにあるものを主の光の中に出していきましょう。主がそれを光に変えてくださるからです。光に照らされていくとき、闇は消えていくのです。

3 キリストが、あなたを照らされる

さて、パウロは、14節の後半で、当時よく知られていたと思われる賛美歌の一節を引用しています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
 これには、大きく二つの解釈があります。
 一つ目の解釈では、この歌は「洗礼式に歌われたのではないか」と考えます。洗礼は、水に浸かり、水から上がる儀式ですが、水に浸かることは、古い自分がキリストとともに十字架につけられて死ぬことを表します。そして、水から上がることは、復活のキリストとともに新しく生まれることを表しますね。そのようにして新しく生まれた人は、人生をキリストの光に照らされながら歩んでいくことができる、ということをこの歌は表していると解釈するわけです。
 もう一つの解釈では、この歌は「世の終わりのことを歌ったのだ」と考えます。私たちは例外なく誰もが必ず死を迎えます。しかし、第一コリント15章52節に書かれているように、イエス様は、私たちを朽ちることのないからだによみがえらせてくださり、永遠の天の住まいに住まわせてくださいます。そして、黙示録22章5節を見ると、天の住まいでは、主ご自身が彼らを照らされる、と書かれているのです。つまり、この歌は、私たちが死の床から目覚めた後、キリストが永遠に私たちを照らしてくださることを歌った歌だと解釈するわけですね。
 どちらの解釈にしても、感謝ですね。イエス様は、この地上の生活においても、永遠の御国に移された後も、私たちを照らし続けてくださるというのですから。あらゆる暗やみは、イエス様の光に照らされて消えていくのです。
 この地上においてキリストに照らされつつ歩む人生について、
すばらしい言葉を二つご紹介しましょう。
 一つは、第二コリント3章18節の言葉です。こう書かれています。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
パウロは、ここで「顔のおおいを取りのけられて」と書いていますが、これは、出エジプト記34章に出てくる出来事に由来しています。
 エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民をモーセは約束の地へと導いていきました。その途中、神様は、シナイ山の上にモーセを呼び寄せ、十戒や様々の命令をお与えになりました。モーセは神様のみまえに四十日四十夜留まり、十戒が刻まれた石の板を持って民のもとに帰ってきたのですが、人々はモーセの顔を見て驚き、恐れて近づけませんでした。モーセの顔のはだが光を放っていたからです。しかし、彼が神様のことばを人々に伝え終わると、その光は消えていきました。そこで、モーセは自分の顔におおいをかけました。第二コリント3章13節には、「モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けた」と説明されています。モーセの顔は、神様の栄光を反映して光りましたが、それは一時的なものでした。
 しかし、今は、どうでしょう。私たちは、モーセのように顔におおいを掛ける必要はありません。なぜなら、イエス様が送ってくださった聖霊がいつも私たちの内にいてくださるので、私たちは、いつも主の栄光を反映させながら光り輝く者とされているからです。それだけでなく、私たちは、主イエス・キリストと同じかたちに姿を変えられていきます。そして、それは、私たちの努力や能力によるのではなく、御霊なる主の働きによるというのです。
 私たちは、今、自分が弱く欠けだらけに見えるかもしれません。人と比べて落ち込んでしまうことがあるかもしれません。しかし、自己卑下する必要はないのです。私たちはみな、一人一人の内に住んでくださる聖霊の働きによって、主と同じ栄光の姿に変えられていくと約束されているからです。それは、神様の約束です。ですから、かならずそうなると信頼して、聖霊の働きにお任せして、希望をもって生きていくことができるのです。
もう一つのご紹介したいすばらしい言葉は、詩篇119篇105節の言葉です。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
 キリストは、聖書のことばによって私たちの道を照らし、導いてくださるというのです。
 皆さん、夜、ドライブするとき、最初から目的地までをすべて照らすことの出来る車はありますか。ありませんね。わずか百メートル程度先が照らされているだけですね。でもその目の前に照らされている道を進んでいけば、ちゃんと目的地まで到着できるではありませんか。
 それと同じように、私たちは、キリストに照らされていると言っても、将来のことはわからないし、明日のことさえもわかりませんね。でも、はっきりと分かることは、キリストが聖書の言葉を通して、私たちの足もとを照らし続けてくださっているということです。だから、私たちは、今、照らされている目の前の道を安心して進んでいけばいいのです。キリストが必ず目的地まで導いてくださるのですから。
 ですから、私たちは、この地上の生涯をキリストに照らされながら歩んでいくことができますね。そして、死を迎える時にも希望を持つことができます。人間にとって、死は真っ暗やみの象徴のようなものですが、その死さえも、キリストの光に照らされて光となっていくのですから。
 最後に、もういちどこの言葉を読みましょう。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
今週も、キリストの恵みの光を、救いの光、癒やしの光に照らされながら歩んでいきましょう。