城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年八月九日              関根弘興牧師
                 エペソ五章一五節~二〇節

エペソ人への手紙連続説教24
  「詩と賛美と霊の歌とをもって」

15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、 16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(新改訳聖書)

以前にもお話ししましたが、エペソ人への手紙は、1章から3章の前半と、4章から6章の後半に分けることができます。
 前半部分には、どんなことが書いてあったでしょうか。私たちは、神様の永遠の愛のご計画によって、イエス・キリストの十字架と復活により罪赦され、神様のみ前で聖く傷のない者とされ、神の子どもとして御国を受け継ぐ者とされ、そのことの保障として聖霊が私たちのもとに来てくださいました。自分の業績や努力とはまったく関係なく、ただ、神様の恵みにより素晴らしい祝福を受け取ることができるのです。そして、キリストは、私たちの中にある隔ての壁を打ち壊して、すべてのものを一つにしてくださり、教会の内に、また一人一人の内にいつも共にいてくださり、栄光の富をもって満たしてくださる、ということが書かれていましたね。パウロは、いつでも、まず、神様の恵みや祝福がどれほど素晴らしいものであるかを語るのです。
 そして、次に後半の4章から、パウロは、その神様の恵みの中で生かされている私たちがどのように歩んで行ったらいいかということを様々な視点から教えています。
 今日の箇所では、パウロは、「賢い人のように歩みなさい」と教えています。それは、どういうことなのでしょうか。ご一緒に考えていきましょう。

1 「賢い人」とは

 まず、「賢い人」について、聖書がどのように教えているのか見ていきましょう。

(1) みことばを聞いて行う人
  
 マタイ7章24節ー27節で、イエス様は、「賢い人」と「愚かな人」について、こんなたとえ話をしておられます。
 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
 ここでイエス様は、「賢い人」とは、イエス様のことばを聞いてそれを行う者であり、「愚かな人」とは、イエス様のことばを聞いてもそれを行わない者だと説明しておられますね。皆、イエス様のことばを聞くのですが、聞くだけでなく、そのことばを受け取り、信頼して従っていくかどうか、が賢い人と愚かな人の違いだというわけです。イエス様のことばを聞いて行う人は、岩の上に家を建てるように、どんな嵐が来ても倒れることはないというのですね。
ですから、聖書が教える賢い人とは、学校の成績がいい人とか、知識を豊富にもっている人という意味ではありません。実際の生活において、聖書のことばを土台とし、神様を信頼しつつ生きる人こそ賢い人なのだというのです。

(2) 天に宝を積み上げる人

 次に、ルカ12章で、イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をしておられます。
 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
  それから、イエス様は、弟子たちにこう言われました。
 「いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。・・・何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。・・・あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。・・・自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」
 愚かな金持ちの関心事は、もっぱら何を食べようか、何を着ようかということだけでした。自分のために穀物や財産をため込めば、それで安心だと思い込んでいたのです。しかし、もっと大切なこと、自分のいのちが失われたらどうなるのか、ということについては、まったく考えていなかったのですね。
 イエス様は、「神の国を求めなさい」と言われました。神の国を求めるというのは、神様に人生の王となっていただき、神様のみこころがなされることを求めていくということです。そして、神様のみこころとは何かというと、私たちが神様を愛し、また、互いに愛し合うことです。その神様のみこころを求めていくならば、私たちは、天に宝を積み上げることができるというのです。その宝は決して朽ちることのない永遠の価値のあるのものです。そして、神様は、私たちをその天の御国で永遠のいのちによって生かしてくださいます。
 愚かな金持ちのように、自分のためだけに当てにならない目先のことだけにとらわれて生きるのではなく、神の国を求めつつ、いつまでも残る宝を天に積み上げながら永遠の備えをしていく生き方こそ、賢い生き方なのだと、聖書は教えているのです。

2 「賢い人のように歩む」とは

 さて、今日の箇所で、パウロは、「賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい」と書いていますね。では、賢い人の歩み方とはどのようなものでしょうか。

(1)機会を十分に生かして用いる

 パウロはまず、「機会を十分に生かして用いなさい」と言いっていますね。これは、直訳すると、「時を稼いでおきなさい」とか「時を買い取りなさい」ということです。
 時間はだれにも平等に与えられていますが、それをどう用いるかは人によって違いますね。学生時代を思い出してください。いろいろやりたいことがあっても、試験の前になると、試験勉強のために時間を用いますね。試験のために時を稼ぐ、試験のために時を買い取るわけです。つまり、自分が必要としていること、大切なことのために時間を確保するということなのです。
 パウロは「この時代は、悪い時代だ」と言っています。時間をつまらないことや虚しいもののために用いている時代です。しかし、「キリストを信じるあなたがたは、時を生かして用いなさい」とパウロは言っているのです。時の管理を勧めているわけですね。
 しかし、そう聞くと、プレッシャーを感じませんか。
 以前あるセミナーに出席した時、『時間を管理しましょう』という本を渡されました。それを読むと、一日のスケジュールが分単位で細かく決めてあり、「これを実行しなさい」と書いてありました。私は、すぐについていけなくなりました。おおざっぱな私には、むいていなかったのです。
 皆さん、誤解しないでいただきたいのですが、「機会を十分に生かして用いる」というのは、そういうふうに分単位でスケジュールを作って時間を管理するという意味ではありません。「機会を十分に生かして用いる」とは、私たちの人生において、本当に必要なことのために時を優先していくことなのです。
 ただし、そのためには、「私たちの人生に本当に必要なこととは何か」ということを知っていなければなりませんね。それが分からないと、あるいは、それについて誤解していると、的外れな生き方になってしまうからです。
 先ほどルカ12章を引用しましたが、マタイ6章33節でもイエス様はこう言っておられます。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」人生の優先順位の第一は「神の国とその義を求める」ことだというのです。
 また、出エジプト記20章8節には「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」と書かれています。「安息日」は、神様のみまえで安息し、神様を礼拝するために備えられた日です。
 つまり、私たちにとって、神様を礼拝し、神様を賛美し、神様の祝福を感謝するために時を確保することが最も大切だということなのです。神様の前に静まり、みことばに耳を傾け、自分自身の状態を見直し、必要な養いを受けていく時間が必要なのです。これは実に大切なことです。忙しい時代ですが、ほんの少しでも、心静め、祈りの時を持つことが大切なのです。
 また、仕事に追われる生活の中で、心身の健康のために休息や余暇の時間を取ることも大切です。家族と共に時間を取ることも大切です。神様に造られた自分を大切にし、また、他の人々を大切にしていくのです。
 そして、そのように礼拝と安息の時間を取ることは、17節に書かれている「主のみこころが何であるかを、よく悟る」ことに繋がっていきます。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することこそ、神様のみこころだからです。
 また、イエス様は「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と約束されていますね。私たちが神様を礼拝し、神様をあがめるために時を稼いでおく、時を買い取ることは、皆さんが考えている以上に、大きな祝福に繋がっていくのです。

(2) 御霊に満たされる

 さて、パウロは二番目に18節で、「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と記しています。
 「クリスチャンになったらお酒が飲めなくなる」と誤解している人が時々いますが、聖書は「酒を飲むな」とは言っていません。イエス様は水をぶどう酒に変えたくらいですからね。また、パウロは「少量のぶどう酒は健康のために良い」と書いています。
 しかし、箴言31章4節ー5節に、こう書いてあります。「酒を飲むことは王のすることではない。酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」つまり、酒を飲むと冷静、適切な判断力を失うから、指導者は酒を飲んで酔っぱらってはいけないというのです。
 また、今日の箇所では、パウロも「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」と言っていますね。「放蕩」という言葉は、ギリシャ語で「アソーティア」と言います。これは「救う、生かす」という意味の言葉に打ち消しの「ア」が付いた語で、「救われない」「生かされない」という意味になります。要するに、「あなたがたがいくら酒で憂さを晴らそうともしても、所詮、アソーティア、つまり、救われませんよ」ということなんですね。
 パウロは、この時代は「悪い時代」だと言いました。クリスチャンとして生きていくとき、迫害や困難や苦しみがあることをパウロは知っていました。しかし、だからといって、何か問題や苦難があるとき、酒に酔って憂さ晴らしをするような一時しのぎの生き方は、賢い生き方ではない、必要なのは、御霊に満たされることだと教えているのです。
 では、「御霊に満たされる」とは、どういうことでしょうか。何か熱狂的な状態になったり、恍惚状態になることなのでしょうか。そうではありません。もし「私は聖霊に満たされた」と言っても、その人が混乱や分裂や破壊を招いたり、礼儀や秩序や調和を無視した行動をしていたら、大いに疑ったほうがいいのです。
 聖書が教えている「御霊に満たされる」とは、どういうことでしょうか。聖霊は、私たちがイエス様を救い主として信じたときから、私たちの内に住んでくださっています。聖霊は、私たちを教え導き成長させてくださいます。その聖霊の働きの中にすべてゆだねていく、そうすれば、聖霊に満たされていくというのです。
 聖霊に満たされると、どのようになっていくのでしょうか。聖霊は、父なる神、子なるイエス・キリストと同じ本質を持った方ですから、聖霊に満たされていくとは、父なる神とイエス・キリストの御性質に満たされていくことと同じです。ですから、神様の愛とイエス・キリストの恵みをさらに深く味わうようになる、聖書のことばにさらに信頼するようになる、御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が育っていくようになる、そして、神様への賛美や感謝が出てくるはずなのですね。 
 そこで、パウロは、19節ー20節で御霊に満たされた生活の特徴を記しています。

①賛美

 まず、19節では、「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」と勧めていますが、「詩と賛美と霊の歌」というのは、どのようなものでしょうか。「詩」とは、旧約聖書の詩篇を指す場合もありますが、原文では「弦楽器を弾く」という意味からできた言葉が使われています。昔、ダビデが竪琴を奏でながら歌っていた姿を思い起こしますね。ですから、「詩」とは楽器伴奏付きの歌と考えてもいいのです。次に、「賛美」とは、ギリシャ語では「ヒュムノス」という言葉です。英語では「ヒム」と言いますね。これは、「神様を賛美する」という語源からできた言葉です。そして、「霊の歌」とありますが、「歌」と訳される言葉は、一般に広く歌われる歌という意味で、特別に宗教的な意味はありません。しかし、「霊の」という形容詞がついていますね。「霊の歌」というのは、内側から出てくる心を込めた歌というような意味です。
 私たちは、礼拝でたくさん賛美をしますね。楽器を使って賛美をしますし、神様を心から讃えて賛美しますし、また、自分の心からの信仰の告白を歌うこともありますね。詩と賛美と霊の歌とをもって礼拝をささげているのです。
 そして、パウロは、そうした賛美は、自分自身にも他の人にも語りかけられる大きなメッセージになると教えているのです。私たちは、賛美を通して感動を覚えたり、神様の励ましや慰めを得ることがしばしばありますね。賛美の中で涙を流したり、イエス様に愛されている、決してひとりぼっちではないと確信することもよくあります。
礼拝の賛美は、決して「説教前の準備体操」でもなければ、「説教の刺身のつま」でもありません。賛美は神様へ届けられ、お互いへのメッセージとなって届けられるのです。
 また、詩篇22篇3節には、神様は私たちの賛美を住まいとしておられる、ということが書かれています。私たちは神様を目で見ることは出来ません。しかし、私たちが賛美しているとき、神様がこの中にいてくださるということを味わうことができるのです。
 世界の歴史の中で、大きな信仰復興運動が起きた時には必ず、すばらしい賛美がなされていました。すばらしい説教者もいましたが、同時に、たくさんの賛美の歌が作られていきました。その賛美を通して、大勢の人々が変えられていったのです。
 ですから、賛美はとても大切です。ヘブル13章15節には、こう書かれています。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」どんな状況にあっても神様に絶えず賛美をささげていくことは、私たちの大きな力になるのです。

②感謝

 パウロは次に「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」と勧めています。賛美と感謝は車の両輪のようなものです。御霊に満たされる時には、賛美と感謝が必ずあるのです。
 ここで「すべてのことについて感謝しなさい」と書かれていますね。これは、実行するのがなかなか難しいですよね。良いことには感謝できますが、そうでないことはなかなか感謝できません。でも、パウロは、それでもなお、あえて「すべてのことに感謝しなさい」と言うのです。ここに人生の大切な生きていくための秘訣があるように思うのです。
 ローマ8章28節には、神を愛する人のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる、という約束があります。困難や失敗や悲しみがあっても、神様はそのことすらも益としてくださるというのです。ですから、今は、わからなくても、その神様の約束があるのだから、感謝できないと思えることさえも、神様が備えてくださったものとして、あえて感謝していくのです。
 皆さん、これを毎日の生活で実際に実験してみてください。「感謝します」と言うことが難しい中で、思い切って、「主よ、感謝します」と告白していくのです。そうする中で教えられることがたくさんあるでしょう。
 もちろん、神様の前に正直に自分の心を注ぎだすことは大切です。時には涙を流し、「神様どうしてですか」と怒ることもあるかもしれません。深い悲しみの中にいるとき、初めから感謝などできません。どうぞ自由に神様の前に心を注ぎだしてください。それをしないで、ただ何でも口先だけで感謝していればいいということではないのです。まず、ありのままの自分の姿を神様の前に出しながら、聖書の約束を信頼していくのです。そして、すべてが主の御手にあることを信じ、あえて感謝を捧げていくのです。
 さあ、新しい一週間が始まりました。私たちはいろんな問題の中で生きています。人には言えない悩みがあるかも知れませんし、困難もあると思います。しかし、内に住んでくださる聖霊なる方が私たちを満たしてくださるのです。だから、今週も心からの賛美と感謝をもって過ごしていきましょう。