城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年八月一六日             関根弘興牧師
                 エペソ五章二一節~三三節

エペソ人への手紙連続説教25
   「愛し敬え」

21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(新改訳聖書)

 私たちは、夫婦関係、親子関係、友人関係、職場での関係など様々な人間関係の中で生きていますね。その様々な関係の中で、私たちはクリスチャンとしてどのように歩んでいけばいいのでしょうか。そのことが今日の5章21節から6章9節にかけて記されています。
 パウロは、まず最初に、5章21節で「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と勧めていますね。これは、あらゆる人間関係においてクリスチャン生活の基本となるべき態度です。「互いに従う」というのは、当時の人々の考え方とはまったく違うものでした。イエス様の福音に生きていくことは、当時の世界にまったく新しい倫理を届けることになっていったのです。
 さて、この「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」という言葉は、これから述べていく内容をまとめて言い表した表題のようなものです。それを具体的な人間関係の中でどのように適用していったらいいのかということを、パウロは5章22節から6章9節にかけて説明しているのです。まず、5章22節ー33節には夫婦関係について、6章1節ー4節には親子関係について、そして、6章5節ー9節には主従関係についてのことが記されています。
 今日は、まず、夫婦関係の中で「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」ことの意味を学んで生きましょう。

1 夫婦関係

 今日の箇所は、結婚式でよく読まれる箇所です。二千年も前に書かれたこの文章が、具体的な夫婦のあり方を今日に至るまで教えているわけです。
 「なんだ、今日は夫婦のことか。私は独身だから関係ない」などと思わないでください。ここには、夫婦だけに限らず、人として生きるために大切なことが記されているのです。
 さて、この箇所をよりよく理解するためには、まず、当時の社会状況を知っておくといいでしょう。
 当時の女性の立場は、今の女性とはまったく違っていました。圧倒的に男性優位の世界でした。一夫多妻制で、少しでも気に入らない女性は悪妻というレッテルを貼られ、夫の恥だという発想が大変強かったのです。それは、ユダヤの社会でも、ローマの社会でも同じでした。
  人は、ある環境や習慣が長く続くと、それが当たり前となっていきます。当時、多くの人がクリスチャンになりましたが、キリストの十字架の愛に打たれて感動し、教会の働きには熱心であっても、家に帰ると、以前から持っていた男性優位の価値観で妻を支配するという姿が当たり前のようにあったようです。
 そこで、パウロは、ここで、異例とも思える長さで、夫婦関係についてキリストと教会との関係に照らし合わせながら語っているのです。それも、妻よりも夫に対して多く語っています。

(1)妻たちよ、夫に従いなさい

 まず、22節ー24節に、妻たちへの教えが記されていますね。
 22節に「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」とあります。
 実は、原文では「従いなさい」という言葉がありません。直訳すると、「妻たちよ。主に対するように自分の夫にも」という文章です。翻訳するときに、文脈から推測して「従いなさい」という言葉を入れたのですね。では、なぜ「従いなさい」という言葉を入れたかというと、次の23節に、「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです」と書かれているからです。「教会がかしらであるキリストに従うように、妻はかしらである夫に従うべきだということだろう」と解釈したわけですね。
 きっと、この文章を読むと、男性陣は、「そうだ、そうだ。パウロ先生はよく言ってくれた」と心の中でエールを送るのではないでしょうか。あるいは、「いや、我が家は、妻がかしらです」という人もいるかもしれませんね。
 しかし、パウロが言っている「夫に従いなさい」というのは、夫には決して逆らわず、ただ闇雲に何でも従え、という亭主関白を助長する言葉なのでしょうか。どうもそうではないようですね。では、パウロは、どのような意味でこう言っているのでしょうか。
 パウロは「主に対するように」と言っていますね。私たちが主に対する態度で一番大切なことは何でしょうか。それは「心から」ということです。コロサイ3章23節で、パウロはこう言っています。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」主は、心の伴わない表面的な礼拝や賛美やささげものは喜ばれません。主は、私たちが心から主を愛し敬い、心から主に従って行くことを願っておられるのです。ですから、夫に対しても人に対しても心からということが大切なのですね。
 でも、心から従え、と言っても、主イエス様はすばらしい方ですから従えますよ、決して無茶なことも要求しませんからね。でも、夫となると・・・・従えない、と思うこともあるでしょう。そういう時には、夫とよく話し合っていくことも必要でしょう。自分の思いを率直に伝えたり、自分の心の状態を反省することも必要でしょう。そして、夫に心から従えるように主に祈っていくことが大切ですね。
 そして、それは、妻だけが心がけなければならないことではありません。妻が心から従っていけるように、夫の側でも配慮が必要なのです。パウロは、ここで「キリストが教会のかしらであり、救い主であるように、夫は妻のかしらである」と言っていますね。「かしら」とは、その組織をまとめ成長させるリーダーであるということです。また、「救い主」とは、他者を生かす働きをするということです。ですから、夫が妻のかしらであるというのは、夫が家のリーダーとして家族をまとめ、妻や子供たちを生かす働きを担っているということなのですね。 と言っても、どんなことにも夫が主導権を握らなければならないということではありません。あることについては、妻に判断をまかせたり、妻に主導権を握らせることもあるでしょう。「かしら」として一番大切な働きは、互いの良さを引き出しながら調和をもって生活できるように調整していくことなのです。
 キリストは、人を無理矢理強制的に従わせるようなことはなさいません。まず、豊かな愛を示し、道を示し、共に歩もうと招いてくださいます。もし夫がそのキリストのような「かしら」としての役割を果たしていくならば、妻は強制されたり命令されたりしなくても自らすすんで夫に従っていくだろうということをパウロは記しているのです。
 つまり、パウロは、ここで妻たちに語りかけつつ、実は、同時に、夫たちに対しても「キリストのようなかしらになりなさい」ということを語っているわけですね。

(2)夫たちよ、妻を愛しなさい

パウロは、次に25節で「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」と教えています。パウロは、コロサイ3章19節でも「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません」と記してます。さらに、今日の箇所の28節では「自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」とも語っています。つまり、妻を愛し、妻の最善を願いつつ生きることは、自分を愛することと同じだ、とパウロは言っているのですね。そして、妻を愛するために、キリストが教会を愛されたそのすばらしい愛を模範としなさいと教えているのです。
 では、そのキリストの愛とは、どのようなものでしょうか。パウロは、今日の箇所でもキリストの愛について熱心に語っています。

①キリストは、教会のためにご自身をささげられた

25節に「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」とありますね。イエス様はご自分の尊いいのちを差し出すほど、一人一人を愛してくださいました。そして、永遠の愛をもって愛し続けてくださっています。
 私たちは、ときどき自分のことは棚にあげて、「もっと妻が自分に従ってくれれば、もっと妻を愛することができるのに」と思うことがありませんか。
 しかし、イエス様は、私たちが罪人であり、神様を無視した生き方をしているときに、まず、ご自分のほうから私たちを愛し、恵みを注いでくださったのです。イエス様はご自分に背をむけて憎んでいた者のためにさえ、いのちを差し出すほどの愛をもってご自分のもとに一人一人を引き寄せてくださいました。 私たちは、時々、恐れや脅し文句を使って人を自分に従わせようとすることがありますね。強制的に人を縛り付けたり、言うことを聞かせようとすることがあります。
 しかし、イエス様はそうなさいませんでした。イエス様は、まず、無条件に愛を示されました。しかも、ご自身のいのちをささげるほどの無償の愛を示してくださったのです。

②キリストは、教会を聖い栄光の姿に変えてくださる

 次に26節ー27節で、パウロは、こう書いています。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
 ここで「キリストがみことばと水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとしてくださる」と書いてありますね。
 「きよめる」とは、私たちが神様に造られた者としてふさわしい生き方をすることが出来るようにしてくださるということです。そして、「聖なるもの」としてくださるというのは、「神様の専用品」にしてくださる、つまり、神様のもの、神様に用いられるものとしてくださるということです。
 そのためにキリストは十字架について、ご自身をささげてくださいました。そのイエス様を救い主をして受け入れた私たちは、「みことば」と「水の洗い」をもってきよめられ、聖なるものとされるのです。
 まず、「みことば」については、ヨハネ17章17節で、イエス様が父なる神様に向かってこう祈っておられます。「真理によって彼らをきよめわかってください。あなたのみことばは真理です。」神様の真理のことばによって、私たちはきよめられ、聖なるものとされていきます。聖書を読んでいくとき、私たちは、自分が赦され、愛されていくことを知り、神様の専用品として歩む人生の指針を見いだすことができるのです。
 それから、「水の洗い」というのは、洗礼式のことでしょう。今日は洗礼式がありますね。洗礼式は何を象徴しているのでしょう。それは、イエス様と共に古い自分が死ぬこと、そして、イエス様が死から復活されたように、私たちもキリストと共に新しく生きるということの象徴なんです。ですから、洗礼は、過去の自分との決別(葬式)のときであり、新しい主にある人生の出発(新生)のときなんです。
ですから、教会は、みことばによってきよめられ、洗礼に象徴されるイエス様の十字架による赦しと復活のいのちを受けて生かされていく者たちの集まりなのです。
 そして、イエス様は、私たちにすばらしい約束をしてくださいました。それは、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせてくださる」ということです。
 普通は、年を取ると、しみやしわが出てくるものです。それをなんとかして取ろうと日夜努力している人もいるでしょうね。しかし、私たちは、主によってしみもしわも傷もない栄光の姿にされていくのです。第二コリント4章16節にあるように、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」顔のしわは増えるかもしれませんが、心はいつも艶があるんですね。究極のアンチエージング(老化防止)ですね。

③キリストは、教会を養い育ててくださる

 それから、パウロは、29節で「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです」と書いています。キリストが教会を養い育ててくださるというのです。
 この手紙の中で、パウロは、何度も「キリストは教会のかしらである。そして、私たちは、キリストのからだの器官である」と語ってきました。イエス様がからだ全体の調整をし、からだ中に栄養が行き届くようにし、健全な成長が出来るようにしてくださるのです。からだのそれぞれの器官がその機能を充分に発揮し、互いに助け合い補い合うことが出来るようにしてくださるのもイエス様です。イエス様が教会をまとめ上げ、完成させてくださるのです。

④キリストは、教会と一体となってくださる

 そして、31節ー32節では、パウロは創世記2章24節の言葉を引用してこう書いています。「『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」パウロは、結婚をキリストと教会の関係と対比しているわけです。  「人は父と母を離れ」とありますね。結婚とは、それぞれ独立した男性と女性が夫と妻として一体となることだというのです。そして、それは、キリストと教会との関係をさしているというのですね。
 パウロは、5章の最初に「あなたがたは、以前は暗やみでした」と記していましたね。また、2章では「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」と書かれていました。つまり、私たちは、暗やみの者、罪の中に死んでいた者でしたが、キリストによって罪から解放され、光となり、今度は、キリストと一体となって生きることが出来るようになったのです。私たちは、キリストの内に生きており、また、キリストは私たちの内にいてくださいます。いつでもどこでもキリストとともに歩み生きる者となったのです。そして、キリストは愛をもって養い導いてくださり、私たちはその愛に応答してキリストに信頼し、従っていくのです。
 キリストと私たちの間にある絆は、決して失われたり断ち切られたりすることはありません。私たちが痛むときは、キリストも痛んでくださいます。私たちの喜びは、キリストの喜びでもあるのです。私たちも、キリストとともに痛み、キリストとともに喜ぶ者とされていきたいですね。
 パウロは、夫婦の関わりは、そのようなキリストと教会のうるわしい関係を表すものの一つなのだと教えているのです。

(3)互いに愛し敬いなさい

 そして、パウロは、今日の箇所の最後の節で「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」とあらためて記しています。「愛し敬う」、これは、夫婦の中においてだけでなく、どのような人間関係の中においても大切にしていくべき態度です。
 ローマ12章10節には、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と書かれています。また、ピリピ2章3節には、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」とあります。

 パウロは、キリストと教会との関わりを語りながら、具体的に夫婦のあり方を示しました。
 私たちは、夫婦関係だけでなく、それぞれの人間関係の中で主の愛を十分に受けながら、互いに仕え、愛し敬いながら歩んでいきましょう。