城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年八月二三日             関根弘興牧師
                   エペソ六章一節~九節

エペソ人への手紙連続説教26
   「差別することのない主」

1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。(新改訳聖書)

 私たちが生まれることと生きていくことには、だいぶ違いがありますね。
 クリスチャンとして新しく生まれることとクリスチャンとして生きていくことにも、大きな違いがあります。
 クリスチャンになるのは、とても単純なことです。ローマ10章9節ー10節には、こう書かれています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」私たちは、私たちのために十字架にかかり、死者の中からよみがえられたイエス様を信じ、イエス様が救い主であることを受け入れ、告白するなら、それだけで、誰にでも例外なしに、永遠のいのちが与えられるのです。
 クリスチャンになることを「新生する」と表現することがあります。「新しく生まれる」ということですね。「新生」は私たちの頑張りや努力の結果ではありません。百パーセント、神様の恵みとイエス・キリストのみわざによるのです。ですから、私たちは、新しく生まれるためには、ただ「イエス・キリストは私の救い主です」と信じて告白すればいいだけなのですね。
 しかし、その後、クリスチャンとして生きていく中では、私たちの側でもすべきことがあります。
 生まれたばかりの赤ちゃんを考えてください。おなかがすいたり、おむつが汚れると、「オギャー」と泣きます。お母さんはその泣き声を聞いてお乳をあげたり、おむつを替えたりするのですね。要するに、生きていくためには、親とのコミュニケーションが必要なんです。赤ちゃんが「オギャー」と泣けば、おかあさんはすぐに赤ちゃんに必要なものを与えます。赤ちゃんは、そうしたやりとりの中で、「オギャー、オギャー」と泣きながら、少しずつ知恵がついていくのです。
 「先生。私は、なかなか祈ることができません。特に、言葉に出して祈ることができないのです」と言う方がいます。心配しないでください。「オギャー」でいいんです。前にもお話ししたことがありますが、祈りはア行ですることができるんですって。「アー、イー、ウー、エー、オー」つまり、うめきのようなものですね。最初は言葉にならなくてもいいんです。初めは自分の思いや願いを言葉に言い表すことができないかもしれません。でも、ア行でいいんです。「オギャー」と叫ぶことを繰り返していくうちに、少しずつ言葉が出てくるのです。しかし、「祈ることができない」といって何も叫ばなかったら、「オギャー」とも言わなかったら、成長できません。
 私たちはイエス様の一方的な恵みによって永遠のいのちが与えられました。新しく生まれたのです。そして、クリスチャンとして生きていくとき、赤ちゃんと全く同じです。まずは、「オギャー」と泣くことから始まるわけです。
 詩篇には、「神様はあなたの泣く声を聞かれる」(6章8節)、「主は呼び求める声に耳を傾けてくださる」(17章6節)と書いてあります。大いに主を呼び求めましょう。そういう中で、私たちはクリスチャンとして成長していくのです。
 そして、ペテロは第一ペテロ2章2節で、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と言っています。また、パウロは使徒の働き20章32節で、「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」と言っています。
 ですから、生まれたてのクリスチャンは、「オギャー、オギャー」と泣きながら主を呼び求め、与えられたみことばの乳を飲むことによって成長していくのです。
 イエス様は、私たちを生みっぱなしにされるのではありません。ちゃんと栄養のある「みことばの乳」を備え、そして、私たちが「オギャー」と泣いたら耳を傾け、必要を満たし、成長させてくださるのです。

 さて、前回お話ししましたように、私たちは、様々な人間関係の中で生きていますが、パウロは、イエス様が私たちを愛してくださるその姿を模範として、それをあらゆる人間関係の基本にしなさいと教えています。
 そして、5章21節から6章9節にかけて、具体的に三つの関係を挙げて説明していますね。まず第一に夫婦関係、第二に親子関係、第三に主従関係のことが記されていますが、前回は、まず、夫婦関係について学びました。
 パウロがまず第一に夫婦関係を取り上げたのは、家族の基本となる関係だからです。また、夫婦関係は、キリストと教会の関係を反映するものでもあるからです。だからパウロは、イエス様が教会を愛し、養い育ててくださり、しみや、しわや、そのようなものの何一つない栄光の教会として建て上げてくださるように、夫も妻を愛していきなさい、と教えていましたね。イエス様が私たちを愛し、十字架の死にまで従ってくださったのだから、あなたがたも互いに愛し、敬い、従いなさい、と勧めたのです。
 キリストが私たちを愛してくださっているその愛をあらゆる人間関係の基本としなさいと、パウロは教えますが、それは、今日の箇所でも同じです。今日は、親子関係と、主従関係について見ていきましょう。

2 親子関係

 パウロは、夫婦関係の次に親子関係を取り上げました。「私は子どもがいないから関係ない」とか「私は独身だから関係ない」と思う人がいるかもしれませんが、親子関係も夫婦関係と同様、人間関係の基本になるものですから、この箇所もすべての人にとって必要なことが書かれているのです。
パウロの書いたこのエペソ人への手紙は、他の手紙と同様にいくつかの教会に回覧され、集会中に全会衆に朗読されたと言われています。教会に集まった人々の中には、夫婦もいれば、親子もいる、また、主人も奴隷もいました。ただ朗読されているだけなのですから、途中で子供たちは飽きてしまうのではないかと思いますが、きっとこの6章に入ったとき、眠気が覚めたのではないかと思います。
 ところで、私はこの箇所を読むと、昔、父と喧嘩したときのことを思い出します。私は、4節の言葉を引用して、「お父さん、聖書には『父たちよ、子どもをおこらせてはいけません』と書いてあるじゃないか! 牧師のくせに子どもをおこらせるなんて、だめじゃないか」と責めたのです。でも、父も黙っていません。子どもにとってはとって非常に都合の悪い1節の言葉を引用して「『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい』と書いてあるぞ」と反撃してくるわけです。
 でも、皆さん。自己弁護したり、人を批判するために、聖書の言葉を自分勝手に使ったりしないようにしてくださいね。
 パウロは、本当はここで何を教えようとしているのでしょうか。ご一緒に見ていきましょう。

(1)子どもたちよ、主にあって両親に従いなさい。

パウロはまず、1節ー3節でこう言っています。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」
 ここで用いられている「子どもたち」というのは、相続上の身分を表す「息子」ではなく、文字通り子どもである状態を表す「テクノン」という言葉が使われています。ですから、この子供たちとは、未成年の子ども、児童ということでしょう。
 それから、パウロは、「あなたの父と母を敬え」というのは第一の戒めだといっていますね。皆さん、あれ?と思いませんか。この戒めは、十戒の一つですが、十戒の中では五番目に書かれている戒めですね。それなのに、なぜパウロは「第一の戒め」だと言っているのでしょうか。
 十戒のうち、前半の四つは、神様との関係についての戒めです。そして、後半の六つは、人と人の関係についての戒めです。「父と母を敬え」という戒めは、その後半の六つの中の最初に書かれているので、パウロは、ここで第一の戒めと言っているのでしょう。つまり、人間関係の中で第一にくる大切な戒めだということなのです。
 そして、パウロはこの戒めには「しあわせになり、地上で長生きする」という約束が伴っているのだと言っています。両親を敬い従うことは、結果的に豊かな人生となり、祝福につながるのだというのです。この約束は、確かに、モーセが十戒をイスラエルの民に伝えた時に約束されたものです。出エジプト記20章12節や申命記5章16節に記録されています。
 でも、この箇所を読んで反発を感じる方もおられるでしょうね。「敬い従える両親がいたら、この地上で幸せになるのはあたりまえだ。しかし、とても敬えるような両親じゃない場合は、どうするんだ。」そう考える人もいるでしょうね。
 でも、パウロは、ここで、「どんな横暴な親であっても、何でもかんでもハイハイと従え」ということを教えているのでしょうか。
 ここで言われている「従う」という言葉は、「戸を叩く音を聞いて、答える」という意味のある言葉です。親は子どもに語りかけ、子はその声に耳を傾ける、ということです。先ほど記したように、この「子どもたち」とは、文字通りの子どもたちです。子どもは、いろいろな教えの風にもてあそばれたり、ふり回されたり、影響されてしまいやすい不安定な者ですね。だから、子どもにとって何が大切かというと、親の教えや命令や叱責が大切なんです。その時は、うるさいな、何も分かっていない!と思う時があっても、ちゃんとそれを心に留めておきなさいね、とパウロは勧めているのです。子どもの最善を願い語る親の言葉は、耳障りの良くない言葉もたくさんあるでしょう。しかし、それをよく聞いて蓄えておきなさい、ということなのです。
ということは、子供たちが蓄えておくべき言葉を両親が語っていくということが、次に問われていくわけですね。

(2)父たちよ、主の教育と訓戒によって育てなさい

 4節で、パウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と書いています。
 まず、「子どもをおこらせてはいけない」とは、どういうことでしょうか。
 第一テサロニケ2章7節で、パウロは、自分がテサロニケ教会の人々にどのように接したかを思い起こしながら、「あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました」と書いています。「母がその子どもを養い育てるように」というと、母親が優しく赤ん坊を抱いて乳をふくませている姿が見えてきますね。それとおなじようなことを、パウロは、この手紙の中で「父たち」に求めているのです。つまり、子どもたちをおこらせないで、優しく育てることを求めているのです。これは、妻まかせ、人任せでなく、子どもと向き合って育てなさい、ということでもあるのですね。子どもを愛し、子どもの必要を理解し、その子どもの状態にふさわしい適切な接し方をしていくことが大切だということでしょう。
 そして、パウロは、そのために「主の教育と訓戒によって育てなさい」と記しているのです。子どもは、主に教えられ、訓練され、育てられることが大切だというのですね。そのためには、まず親自身が主の教育と訓戒によって育てられる必要があります。聖書のみことばが必要だということです。自分自身が聖書のみことばを受け入れなければ、教育どころではありません。自分が神様をあがめないで、どうして、それを子どもに要求できるでしょう。まず自分自身が主の教育と訓戒によって養われることが先決なんですね。
 イエス様は、マタイ11章28ー30節でこう言われました。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 イエス様は「わたしから学びなさい」と言われました。イエス様は、「大丈夫だよ。わたしがいるから。いつでもわたしから学びなさい」と声をかけてくださるのです。主の教育と訓戒の中に生きること、それは、主の安息で中で憩い、主の約束の言葉をしっかりと握って教えられながら生きていくことです。
 イエス様は、厳しく強制的に言うことを聞かせようとはなさいません。とても出来そうもないことを無理矢理やらせようとしたり、担ぎきれない重荷を負わせようとはなさいません。イエス様は、愛をそそぎ、安息させ、自ら愛の模範を示しながら学ばせてくださいます。「父たちよ、そのイエス様と同じように子どもに接していきなさい」とパウロは教えているのです。

3 主従関係

 パウロは、次に主人と奴隷の関係について語っています。パウロの時代には、奴隷は人間ではなくて「物」扱いされていました。当時のある人は、こう言いました。「農耕用具は三つに分類できる。言語を話すもの(奴隷)と、言語を話さないもの(家畜)と、無音のもの(運搬具)だ。」当時の奴隷は、生きた道具であり、道具以上の権利を持っていなかったのです。
 このような背景を考えると、パウロは、実に驚くべきことを言っています。9節で「主は人を差別されることがない」と言っていますね。「主人も奴隷も、ただ神の前に立つ人間にすぎない。だから、神の前に人を差別することがあってはならない」というのです。パウロは「奴隷制度を撤廃すべきだ」とは言っていません。しかし、キリストにあっては、もはや道具としての奴隷と主人という関係はなくなっているのです。
 パウロの書いた「ピレモンへの手紙」という短い手紙があります。ピレモンはコロサイ教会のクリスチャンでした。ピレモンの家にオネシモという奴隷がいましたが、オネシモは主人ピレモンの物を盗んでローマに逃げてしまいました。しかし、ローマでパウロに出会い、クリスチャンになりました。それで、パウロは、ピレモンに手紙を書いて、「オネシモを赦し、主にある兄弟として受け入れ、和解してほしい」と頼んだのです。本来なら、主人のものを盗んで逃亡した奴隷は、容赦なく死刑にされるはずでした。しかし、オネシモは、ピレモンに赦され、その後、パウロに仕えるようになりました。主人と奴隷であった二人が、主にある兄弟となったのです。これは、当時としては考えられないような出来事でした。
 キリストの福音が伝えられるとき、仕事や役割の違い、職業上の上下関係はあっても、人としての差別はなくなっていくのです。肌の色による差別、職業による差別、貧富による差別、いかなる差別もあってはなりません。
 ですから、パウロは、今日の箇所で奴隷と主人それぞれに、キリストにある者としてどのようにふるまうべきかを教えています。

①奴隷たちよ、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい

 まず、奴隷たちに対して、パウロは「あながたがは、奴隷の身分ではあっても、キリストにあって自由とされたのだ。だから、強制的に命令されていやいやながら主人に従うような生活はやめて、キリストに仕えるように心から主人を愛し敬い従っていきなさい」と勧めています。

②主人たちよ、奴隷をおどすことはやめなさい

 次に主人たちに対しては、パウロは、自分の権力や立場によって弱い人たちをおどしてはならないと言っています。
 マタイ28章18節で、イエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言われました。イエス様ほど権威を持っている方はありません。でもイエス様は、その権威をもって人々をおどしたり、人々を自分の思いどおりに動かされたことはありませんでした。イエス様は、そのすばらしい権威を、いつも他者の幸いのためにのみ用いられたのです。そのイエス様を模範としなさい、とパウロは教えているのです。
 そして、パウロは、「あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい」と言いました。つまり、「主に仕えるように、奴隷である人々を心から愛し仕えていきなさい」というのです。主人か奴隷かに関係なく、互いに仕え合うべき仲間だからです。

 さて、前回と今日の箇所のまとめとして、最後に大切な聖書の言葉を二つ心に留めておきましょう。
 一つは、パウロがピリピ2章2節で言っている「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」という言葉です。もう一つは、コロサイ3章23節の「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」という言葉です。
 私たちは、無意識のうちに人を支配しよう、自分の思うとおりにさせようとする傾向があります。また、人を批判したり、貶めようとする傾向があります。脅したり、強制したり、怒らせたり、落胆させたりするのです。
 しかし、主なるキリストのみ前では、皆、同じです。そのことを覚えて、へりくだることが大切ですね。そして、お互いのすぐれた所を認め合いながら、互いに仕え合っていくのです。 仕えることは、人を生かす事へと繋がっていきます。パウロは、「互いに仕え合う」ということを人間関係を築くキーワードとしていつも語っています。それは、イエス様ご自身も仕えられるためにではなく、仕えるために来てくださったからです。そして、十字架の死にまで従われました(ピリピ2章6-8節)。そのイエス様が私たちとともに歩んでくださるのです。
 ですから、私たちはお互いが主に愛されている存在であることを認め、お互いを生かしていくために、主に対してと同じように心から仕え合っていくことが大切です。そのことを、今ある夫婦関係、親子関係、職場の関係の中でもう一度考えていく一週間としていきましょう
 語る言葉や、態度に知恵が与えられ、主の平安と恵みを運ぶ器として歩んでいけますように。私たちを分け隔て無く愛し、恵み深く接してくださる主をあがめつつ歩んでいきましょう。