城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年八月三〇日             関根弘興牧師
                 エペソ六章一〇節~一七節

エペソ人への手紙連続説教27
   「強められて生きる」

  10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(新改訳聖書)

さあ、今日は、いよいよこの手紙の最後の部分に入りました。
 この手紙の前半、1章から3章には、神様が私たちのためにしてくださったすばらしいみわざの内容が記されていました。
 2章4節から6節には、このように書かれていましたね。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」つまり、神様は、私たちを愛し、生かし、永遠の天の御国にすわる場所をちゃんと用意してくださっているというのですね。
 そして、4章からの後半には、神様の恵みの中に生きる者として、私たちがどのように歩んでいったらいいかということが記されていましたね。「召しにふさわしく歩みなさい」「愛のうちに歩みなさい」「光の子どもらしく歩みなさい」など、「歩む」ということばがたくさん出てきました。
 そして、前回と前々回は、実際生活の具体的な人間関係の中でどのような態度で歩んでいけばいいのかを学びました。夫婦関係、親子関係、主従関係についての教えがありますが、そのどれもに共通しているのは、「キリストを恐れ尊んで互いに従いなさい」ということ、また「互いに愛し敬いなさい」ということです。お互いが主に愛されている大切な存在であることを認め、尊重し、相手を生かすために仕え合っていくこと、しかも、主に対してするように心から仕え合っていくことが大切なのですね。
 そして、今日の箇所に入るわけですが、パウロは、まず、「終わりに言います」という言葉を使っていますね。この手紙を閉じるに当たってどうしても最後に言っておきたいことがある、このことをぜひ覚えておいてほしい、という気持ちで書いたのではないかと思います。
 パウロは、各地を回って教会を生みだす働きをしていました。その結果、たくさんの教会ができていきました。
 しかし、いろいろな教えの風に惑わされたり、迫害を受けたりして、途中で道を逸れたり信仰を投げ出してしまう人もいました。当時の様々な迷信や習慣から抜けきれずに縛り付けられて不自由な生き方をしている人もいました。
 また、自分が想像していたクリスチャン生活と現実のギャップにつまずいてしまった人もいたことでしょう。私たちは、時々勝手な方程式を作ってしまうことがあります。それは「イエス様を信じたら、すべてうまくいく」という方程式です。でも人生には、うまくいく時もあるし、そうでない時もたくさんあります。神様は、私たちにいろいろな経験をさせて成長させようとしてくださるのです。でも、私たちは、自分の思う通りにことが進まないと、「私の信仰に問題があるに違いない」と考えたり、「イエス様を信じても無駄だ」と思ってしまい、失望し、つまずいてしまうことがあるのですね。
 そこで、パウロは、今日の箇所で、「立つ」という言葉を繰り返し使っています。13節では「堅く立つことができるように」、14節では「しっかりと立ちなさい」とありますね。パウロは、私たちが、惑わされたり失望したりしないで、神様のすばらしい恵みの中にしっかりと立ち続けていくために必要なことを今日の箇所で教えているのです。
 しかし、今日の箇所を読むと、恐れを感じる方もおられるのではないでしょうか。11節には「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために」と書いてありますし、12節には「私たちの格闘は、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と書かれていますね。「悪魔」とか「暗やみの世界の支配者たち」とか「天にいるもろもろの悪霊」と戦っていかなくてはならないなんて、何だかオカルトの世界とか、映画やアニメの世界の中のことのように感じるかも知れませんね。
 実は、聖書の中で使われている「悪魔」と訳される言葉は、ヘブル語では「サタン」、ギリシャ語では「ディアボロス」と言います。この言葉は、「告訴する」とか「中傷する」という言葉から生まれました。ですから、「悪魔」とは、私たちを告訴したり、中傷したり、非難したりする者のことなのです。悪魔は、私たちの罪や欠点を責め立て、「お前は駄目な、どうしようもない奴だ」「神様に愛される価値はない」「もう絶望だ」と攻撃をしかけてきます。そして、いつのまにか、私たちの内にある喜びや愛や平安を奪い、その代わりに、疑いや不安や恐れや失望を置いていくのですね。
 聖書は、そのような存在があることを繰り返し警告しています。
 たとえば、第一ペテロ5章8節には、こう書かれています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。」
 また、ヨハネ10章10節で、イエス様はこう言われました。「盗人が来るのはただ盗んだり殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」
 悪魔の目的は、神様と私たちとの愛の関係を破壊し、私たちを神様から引き離し、私たちを絶望させ、滅ぼすことです。そのやり方は巧妙です。恐れる必要のないものに恐れをいだかせて揺さぶりをかけたり、盗人のようにこっそりやってきて盗んだり、「神様は、本当にそんな約束をなさったんですか」と語りかけて疑いを抱かせたり、「もっといい道がありますよ」と誘惑しようとしたりするのです。
 ですから、そういう働きに惑わされたり倒されたりすることがないように、しっかり立っている必要がある、とパウロは教えているのです。
 と言っても、私たちは、恐れる必要はまったくありません。悪魔は強いですが、神様のほうがはるかに強いからです。その神様が私たちを守ってくださっているのですから、どんな攻撃にも恐れる必要はないのです。
 ローマ8章31節には、こう書かれています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
 また、第一ヨハネ5章18節には、こう書かれています。「神から生まれた方(イエス・キリスト)が彼(信じる人)を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」
 ですから、私たちは、どんな問題や困難が起こっても神様に信頼して平安と希望を持って歩んでいくことができるのですが、そのために、パウロは、今日の箇所で二つのことを確認するようにと勧めています。

1 主にあって、その大能の力によって強められる

 まず、大切なのは、「主にある」ことです。いつも主に信頼し、主から離れないことです。そして、「主の大能の力によって強められる」のです。
 私たちは皆、大変弱い存在です。ですから、自分の力で悪魔に対抗することなどできません。自分で悪魔と戦おうなどと思わないでくださいね。そうではなくて、主の力によって強められるのです。自分が強くなろうとするのではなく、主の力に覆われて強められるのです。そうすれば、何ものにも打ち倒されることはありません。
 パウロは、第二コリント12章9節でこう言いました。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
 子どもの讃美歌にもありますね。「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」です。
 まず、自分の弱さを自覚し認め、その弱い自分が主の力に覆われていることを感謝していくことが大切なのですね。

2 神の武具を身につける

 それから、パウロは、神のすべての武具を身につけるようにと勧めています。私たちのために神が備えてくださった武具があるというのです。
私が通っていた高校は、アイスホッケーが盛んでした。クラスメートにもアイスホッケー部の連中が何人もいました。彼らは、必ず防具をつけて戦います。もし、防具なしで試合をしたら、スティックが顔に当たって大けがをしたり、パックが当たれば命の危険にもつながるからです。ですから、必ず防具を着けます。
 パウロは、「私たちの人生においても武具が必要だ。この武具が私たちを守ってくれる」と語っているのです。
 それでは、神様の武具とは、どのようなものでしょうか。一つ一つ見ていきましょう。

①真理の帯

 まず、14節に「腰には真理の帯を締め」とありますね。
 着物のことを考えるとよく分かると思いますが、帯でぎゅっと締めることによって体もシャキッとしますね。当時のイスラエルの服装は日本の着物と似ていて、帯がしっかりと締められているかが服装の要となったそうです。それと同じように、私たちの要となるのは、真理の帯だということですね。
 真理とは、何でしょう。「真理」という言葉は「真実」と訳すこともできます。「誠実」とか「まこと」とも訳される言葉です。神様の真理が私たちの帯として与えられているのですが、神様の真理とは何でしょうか。
 それについて、パウロは、この手紙の前半部分に書いています。神様は私たちを世界の基の置かれる前から選び、御前で聖く傷のない者としてくださいました。そして、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛し、罪を赦し、キリストとともに天の所にすわらせてくださいました。それが、神様の真理であり、神様が真実をもって実現させてくださったことです。
 決して偽ることのない真実の神様が与えてくださったこの真理を帯としてしっかりと締めなさい、とパウロは言うのです。
 悪魔は「神様の言葉は真理ではありません。信じてはいけませんよ」とささやきかけてきます。しかし、真理の帯をしっかり締めて、神様の言葉に信頼していきましょう。

②正義の胸当て

 次に「胸には正義の胸当てを着け」とありますね。
 この「正義」と訳される言葉は、「正しいこと」という意味もありますが、「まっすぐな正しい関係」を表す言葉としても使われています。
 皆さんは、「義認」、つまり「義と認められる」という言葉を聞いたことがあるでしょう。
 パウロは、ローマ人への手紙3章23節-24節で「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と記しています。
 本来、私たちは神様の前では皆、罪ある者です。有罪と宣告されても文句が言えない存在です。しかし、イエスキリストが十字架で私たちの罪を背負ってくださったその大きな恵みによって、私たちは、義と認められたのです。神様の御前で、キリストの身代わりの十字架によって無罪とされたわけです。
そして、罪のゆえに破壊されていた神様との関係が回復され、私たちは、神様とまっすぐな正しい関係を持つことができるようになりました。つまり、私たちは、ありのままの自分が罪赦され、義と認められ、神様と何一つ隔てのない正しい関係の中に生かされているのです。
 ですから、「お前は罪人だ。そのままでは駄目だ。もっと努力して正しくならないと愛されないぞ」と攻撃してくるものに対して、「神様は、ありのままの私を愛し、私を義と認め、受け入れてくださっているのだ」と自信をもって宣言することができるのです。それが正義の胸当てをつけることです。

③平和の福音の備え

 次に15節では、「足には平和の福音の備えをはきなさい」と書かれていますね。
 世界陸上選手権をテレビで観戦していますが、それぞれの競技で履く靴が違うのですね。短距離の場合はスパイク付きのシューズですし、長距離では全く違う靴を履きますね。靴が競技に合っていなかったら、良い記録を出すことはできません。
 私たちが履くべき靴は何でしょうか。パウロは「平和の福音の備え」という靴をはきなさいと言います。つまり、平和の福音を伝えることの喜びを、あなたの歩むための靴として履きなさい、というわけです。
 私たちがイエスキリストによって伝えられ受け取った福音は、平和をもたらす福音です。敵意を廃棄し、隔ての壁を取り除く福音です。二つのものを一つにしていく福音です。
 敵意やねたみやさばく思いを持たせようとする力が襲ってきたときに、お互いがキリストの平和を伝えていく者とされていることを思い起こしていきましょう。

④信仰の大盾

 それから、16節には「信仰の大盾を取りなさい」とありますね。
 「大盾」というのは、兵士が戦うときに手に持つ盾ではありません。あれは小盾です。大盾とは、地面に立てて使うような大きな盾のことです。そして、その大盾は飛んでくる火矢をみな消すことができるというわけです。
 「盾」という言葉は、よく詩篇に出てきますね。「主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光」「主はすべて彼に身を避ける者の盾」「主は私の力、私の盾」「まことに、神なる主は太陽です。盾です」「主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である」、このような言葉がたくさん出てきます。神様がどんな中でも盾となって守ってくださると約束されているのです。その約束を信頼していさえすれば、私たちを滅ぼそうと飛んでくる火矢をすべて消すことができるのです。

⑤救いのかぶと

次は、17節の「救いのかぶと」です。
 「かぶと」というのは、大切な頭を守るための防具ですね。それとともに、昔は、敵を威嚇する道具でもあったそうです。たとえば、「人を実際の背丈の倍の見かけにし、敵を恐怖に落とすように目論まれた」などという文書もあるくらいです。「かぶと」は、いちばん目に付くわけですね。
 私たちは、イエス・キリストによって救いが与えられました。その救いのかぶとをかぶるというのは、キリストの救いを誇り、救いの恵みに生かされていることを高らかに宣言し、賛美していくことです。
 私たちは、失敗したり、欠点に気づかされると、時々、「私はイエス様を信じたけれど、本当に救われているのだろうか」と思ってしまうことがありますね。また、「私はクリスチャンらしくないのではないか」とか、「私は、信仰が薄い。不信仰だ」と思ってしまうことがあります。
 でも、そういう思いに引きずられそうになったときは、「主は、こんな私を愛し、救い、永遠に至るまで導いてくださる」ということを思い起こし、主が成し遂げてくださったすばらしい救いのみわざを誇り、ほめたたえましょう。

⑥御霊の与える剣である神のことば

そして、最後に、神のことばという剣を受け取りなさい、とパウロは勧めています。
 この「剣」と訳されている言葉は、「短剣」とか「ナイフ」を意味しています。
 短剣は、ちゃんと扱いに慣れていないと怪我をしますね。以前、「ライフ・ライン」でアウトドア用のナイフを製作している方を取材したことがありました。キャンプなどでは、ナイフが一つあるととても便利で、遭難したときもナイフがとても助けになるそうです。しかし、切る方向や使い方を間違うと怪我をするので気をつけてください、と言っておられました。
 パウロは、神のことばは、ナイフのようなものだと言います。
ヘブル4章12節には「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とあります。
 また、第二テモテ3章16節-17節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」とあるのです。
つまり、神のことばは、ナイフのようにいろいろな面で役に立ち、助けになるものなのです。ですから、ナイフと同じように使い方に慣れ、自由に使いこなすことができるように訓練することが大切ですね。 逆に、もし聖書をただ自己弁護のために利用したり、自分に都合の良いところだけを切り取って自分勝手に使ってしまうと、自分自身も人をも傷付けることになりかねません。まず、聖書に親しみ、聖書のことばを蓄えて、適切な使い方ができるようになっていくことが大切なのです。
 イエス様も、荒野で悪魔の誘惑を受けたときに聖書の言葉を使って悪魔を退けられました。そのときに、こう言われましたね。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4章4節)
 神のことばは、人を生かすことばです。そして、どんな攻撃のことばが襲ってきたとしても、神のことばの剣ではね返すことができるのです。

 さて、今日の箇所には六つの武具があげられていますが、それはみな、防御のためにものです。
 私たちは、「悪魔と戦わなくては!」と言って自分で攻撃に出る必要はありません。なぜなら、すでに主イエス・キリストが悪魔に勝利してくださっているからです。悪魔は、最後の悪あがきで、何とか私たちに害を加えようとしますが、主が私たちを守っていてくださいます。ですから、私たちは、恐れることなく、勝利の主に信頼してしっかりと立っていればいいのです。
 神様から与えられた真理の帯を腰に締め、義の胸当てを着け、足には平和の福音をはき、信仰の大盾をしっかりと立て、救いのかぶとをかぶり、神のことばを受け取りながら強められつつ歩んでいきましょう。