城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年九月六日              関根弘興牧師
                 エペソ六章一八節~二四節
 エペソ人への手紙連続説教28
   「祈ってください」

18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。(新改訳聖書)

いよいよエペソ人への手紙の最終回となりました。パウロはこの手紙の最後に祈りについて記しています。
 祈りは、クリスチャンライフにおける呼吸のようなものです。祈ることを通して私たちは神様が今も働いてくださっていることを知ることができます。そして、祈りを通して、クリスチャンライフは整えられていくのです。ですから、今日は、まず、祈りについて考えていきましょう。

1 祈りについて

(1)誰のために祈るのか

 祈りには自分のための祈りと他者のための祈りがあります。
パウロは、今日の箇所で、一人一人が自分のためだけでなく、すべての聖徒のために、また、パウロのためにも祈ってほしいと記していますね。
 「すべての聖徒たち」のために祈るということは、顔を一度も見たことのない人のためにも祈りなさいということですね。ここに教会のすばらしい姿があります。祈りは、個人的に知っている知らないの枠を越えたものだということです。私たちは、一度も会ったことのない知らない人のためにも祈ることができます。そして、逆に、知らない人たちによって祈られているということでもあるのです。そして、パウロ自身も「私のためにも祈ってください」と祈りの要請をしています。互いに祈り合うことの大切さを教えているのですね。
 他者のために祈る祈りを「とりなしの祈り」と言います。私たちは、神様から「聖なる祭司」としての役割を与えられています。祭司は、神様のみまえに出て、他の人々のために祈る役割があります。ですから、他の人々のために祈ることは、神様から与えられた大切な役割なのです。
 今日の箇所では、「すべての聖徒」のためにと書かれていますが、クリスチャンでない人々のために祈ることも大切です。 第一テモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書かれていますから、私たちは、すべての人が神様の救いのすばらしさを知ることが出来るように祈っていくことも大切なのです。
また、第一テモテ2章1節ー2節には、こう書かれています。「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」国の為政者が、正しい判断が与えられて国を動かしていけるように、間違ったことをしないように祈っていきなさい、というのです。
 自分のため、聖徒のため、また、顔を一度も見たことのない人のためにも祈っていく者でありたいですね。

(2)いつ祈るのか

 18節でパウロは「どんなときにも」祈りなさいと言っていますね。私たちの人生は、楽しいときもあれば、心配や不安、思い煩いが襲って来るときもあります。でも、どんな状況の中でも祈りなさいというのです。祈ることが癖のようになっているように、ということですね。
 詩篇55篇1節には「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」と書かれています。この作者はとても辛い中にいたのでしょうね。嘆き、うめくことしかできませんでした。しかし、その祈りを主が聞いてくださる、と知っていたのです。
 また、旧約聖書にダニエルという人が登場します。彼は敵国に捕虜として連れていかれたのですが、その知恵と手腕が認められ、行政のトップに就任しました。しかし、ねたみに駆られた者たちがダニエルを失脚させようとして、王様に悪知恵を吹き込みました。そこで王様は「王以外に向かって祈ってはならない。違反した者は死刑になる」という勅令を発布したのです。しかし、ダニエルは、神様に祈ることをやめませんでした。自分の身が危険にさらされているのに、祈りの生活を止めようとはしなかったのです。それどころか、何事もなかったかのように、神様に感謝をささげていたのです。神様は、そのダニエルを守ってくださいました。
 継続は力なり、とありますが、私たちは、いつもどこでもどんなときにも主に祈り続けていくならば、最終的に平安を得ることになるのです。時には、言葉にならないうめきのような祈りしかできないときもあるでしょう。しかし、パウロは、「どんなときにも」祈りなさいと教えるのです。それは、また、「絶えず目をさまして」いることでもあるのです。

(3)どのように祈るのか

 パウロは、18節で「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と言っていますね。詳しく見ていきましょう。

①「すべての祈りと願いを用いて」

パウロは、まず、「すべての祈りと願いを用いて」と記しています。どういうことでしょう。
 礼拝の中で静かに目を閉じる祈りもあるでしょうし、声に出す祈りも無言の祈りもあるでしょう。集いの中での祈りもあるでしょうし、ひとり静かに黙祷しているときもあるでしょう。その祈りの内容は、願い事もあれば、感謝もあるでしょうし、他の人のためにとりなす祈りもあるでしょう。パウロは、そうしたあらゆる形のすべての祈りをあなたの生活に取り入れていこう、と記しているのです。
 そして、ピリピ4章6節ー7節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」とあります。自分で思い煩っていないで、何でも神様に知っていただくことが大切なのです。すべての祈りと願いを用いて、神様に思いを知っていただき、神様におゆだねするときに、平安が与えられるでしょう。

②「御霊によって」

 次にパウロは、「御霊によって祈りなさい」と言っていますね。ユダ1章20節にも、 「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り(なさい)」と書かれています。
 御霊は、私たちの内にいて、祈りを導いてくださいます。その御霊の御性質にそって祈っていくことが大切だということですね。
 それは「主イエスの御名によって」祈ることと同じ意味でもあります。ヨハネ14章14節で、イエス様は、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」と言われました。「イエス様の名によって」祈るとは、「イエス様の御性質にそって」祈ることです。憎しみや偽りをもって祈るのではなく、愛とまことを持って祈るのです。それは、聖書に書かれている神様のことばに信頼して祈るということでもあります。
 第一ヨハネ5章14節には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」という約束がありますから、期待して祈っていきましょう。

③「忍耐の限りを尽くし」

 しかし、自分の祈りや願いが神様のみこころにかなっているのかどうか、わからない時もたくさんありますね。そういうときにも、とにかく祈ってみればいいのです。神様は、必ず答えてくださいます。「イエス」の時もあれば、「ノー」の時もあるし、「待ちなさい」という時もあるでしょう。でも祈らなければ答えを得ることはできませんから、ともかく祈りましょう。すぐに答えが与えられるときもあれば、祈っても祈ってもなかなか答えがない場合もあるでしょう。それで、必要なのが忍耐の限りを尽くすことです。
祈りは忍耐を学んでいくものでもあるのです。祈ってもすぐに答えが出ないとあきらめてしまうことがありませんか。私たちは忍耐があまりなく、すぐに祈ることを止めてしまう、求めることを止めてしまうことがあるように思います。また、自分勝手に考えて、「自分の思うようになっていくことが祈りの答えだ」と思い違いをしてしまうこともあるのです。しかし、実際はそうならないことも多いわけです。そこで、祈っても無駄だ、祈っても答えられない、と祈ることを放棄してしまうこともあるのです。
 皆さん、焦らないでください。第二ペテロ3章8節に「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と書かれているように、神様の時と私たちの時は違うのです。神様は、私たちが期待している時よりもはるかに良い時をご存じです。また、神様のみこころは、私たちの思いをはるかに越えて高いのです。ですから、期待しつつ、忍耐深く祈り続けていきましょう。
 パウロも、祈りの中で忍耐を学びました。先週もお話ししましたが、パウロは肉体に一つのとげが与えられました。病気があったのです。それについて、彼は、第二コリント12章8節ー9節でこう記しています。「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
ここで「三度も主に願いました」というのは、三回祈って終わりということではなくて、何度何度も願ったということです。それなのに彼の病は癒されませんでした。しかし、彼はその祈りの中で、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」 という主の言葉を聴くことが出来たのです。肉体の病は癒されなかったけれど、神様の答えを得ることが出来たのです。
 ローマ12章12節には、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」と書かれています。私たちには、神様に約束された望みがあるのですから、忍耐をもって勇気を失うことなく、自らのために、また他者の祝福のために祈り続けていきましょう。

2 パウロの願い
 
 さて、パウロの一番の願いは、多くの人がイエス様の与えるすばらしい福音を知り、受け入れていくことでした。
 ですから、19節ー20節で、こう書いています。「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」「語るべきことを大胆に語ることができるように」、それがパウロの願いでした。
パウロは、この手紙をローマの獄中で記しました。鎖につながれている状態であったようですね。しかし、「自分の身にどんなことがあろうとも、大胆に福音を語れるように祈ってほしい」と主にある兄弟たちに書き送ったのです。
 第二コリント10章10節を見ると、コリント教会の中にはこう言っている人たちがいたようです。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」どうもパウロは、文章はとても上手だったようですが、説教はちょっと聴きづらいというか、話し下手だったようですね。人の評価というのは、いろいろですからあてになりませんが、パウロは、自分が口下手であろうがなかろうが関係ない、鎖につながれようが、どこにいようが、「語るべきことばが与えられ、語るべきことを大胆に語れるように」と願っていたのです。
当時、パウロは、キリスト教会の偉大な伝道者として大先生扱いされていたわけですが、どんなに偉大な先生と言われても、自分は誰にも祈ってもらう必要はない、と思い始めたら危険です。クリスチャンは互いに祈り祈られつつ仕え合っていくことが大切なのです。「私のために祈ってください」と互いに頼み合うことは、とても自然なことですし、大切なことです。「祈ってもらうなんて申し訳ない」という気持ちになるのではなく、互いが祈り祈られながら歩んでいくのがクリスチャンライフなのだということを覚えていてください。
 ですから、私も皆さんにお願いします。牧師として語るべき言葉が与えられ、いつも語るべきことが語れるように祈ってください。

3 テキコの派遣

 さて、最後に21節ー22節で、パウロはテキコという人物について書いています。テキコは、パウロと一緒に伝道旅行をした同労者の一人です。パウロがテキコをエペソ教会に遣わしたのは、パウロの状況を報告するため、そして、エペソ教会の人々がテキコによって励ましを受けるためだと書かれていますね。
 テキコはイエス様の福音を伝える伝道者でもありましたから、エペソ教会に行ってパウロの近況報告をしただけでなく、説教を語って皆の心に励ましを与えたのでしょう。
 その時のことを想像してみてください。テキコがエペソ教会に到着し、まず最初にパウロの近況が報告されたことでしょう。そして、この手紙が読まれていくのです。一人一人が神様によって選ばれ、恵みによって救われ、永遠を約束されていること、また、キリストによって隔ての壁が打ち壊されて一つにされ、一人一人が平和の主であるキリストのからだの器官とされ、互いに愛し敬い、祈り祈られながら、神様の大能の力によって強められつつ生きていくことができるということが、書かれているのです。この手紙の朗読を聞いて、皆、神様の大きな恵みに勇気づけられていったことでしょう。そして、テキコは、この後、何度説教したかはわかりませんが、その説教によっても人々は大いに励まされたことでしょう。

4 祝祷

そして、この手紙の最後23節ー24節にパウロは祝祷を記しています。「どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」
 これまでエペソ人への手紙を学んできましたが、私たちも、エペソ教会の人々と同じように、この手紙を読み、説教を聞き、心に励ましが与えられ、そして、祝福の祈りを受けて、それぞれの生活の場に出ていきましょう。
 皆さんの上に、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛と恵みが豊かにありますように。