城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年九月一三日             関根弘興牧師
                  マタイ一三章一節~九節
 イエス様のたとえ話1
   「実を結ぶために」

 1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。9 耳のある者は聞きなさい。」(新改訳聖書)


今日からイエス様が話されたたとえ話を学んでいきましょう。
 今日は、人生の実を実らせるためにはどうしたらよいのか、ということを教えているたとえ話です。
 このたとえ話の最後の9節で、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」と言っておられますね。これは、「よく聞きなさい。いいですか、注意して聞きなさい。その意味を深く考えなさい、そして、それに対して応答していきなさい」という意味が込められています。聞く側がどんな態度で聞くことが大切なのかを教えているのです。 
 しかし、今日のたとえ話は、特別に注意深く聞かなくても、小さな子どもでも分かるような単純な話ですね。
 種を蒔く人がいて、種蒔きをしたという話です。種まきと言っても、一粒一粒丁寧に地に埋めるわけではありません。篭の中の種を手で掴んでばら蒔いていくだけです。すると、種は風に飛ばされて、いろいろな所に落ちたというわけです。
 道ばたに落ちた種は、すぐにカラスに食べられてしまいました。岩地に落ちた種は、根を張ることが出来ずに枯れてしまいました。茨の中に落ちた種は、いばらにふさがれて成長できませんでした。しかし、良い地に落ちた種は多くの実を結びました。「さあ、一番よく実ったのは、どこに落ちた種でしょうか」と聞かれれば、誰だって「良い地に落ちた種です」と答えることができますね。真剣に聞かなくても、簡単に理解出来る話のように思えます。
 それなのに、イエス様は、なぜ「耳のある者は聞きなさい」と言われたのでしょうか。
 イエス様はたくさんのたとえ話をなさいましたが、たとえ話というのは、普通はある事柄を分かりやすく説明するために用いますね。しかし、今日の箇所の続きの10節ー13節を見てください。弟子たちがイエス様に「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか」と聞くと、イエス様はこう答えられました。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」つまり、見る目を持っていない人、真剣に見ようとしない人、真剣に聞こうとしない人には、意味が分からないようにするために、たとえを用いて話しているというのですね。
 これだけ読むと、何だか意地悪な感じがしますね。でも、もちろん、これは、イエス様が意地悪をして真理を隠すためにたとえ話をされるという意味ではありません。イエス様がたとえ話をするのは、聞く人がそのたとえに隠された真理を本当に求めようとするのか、たとえの意味を真剣に知りたいと願うのかという、聞く側の本気度を試す目的があるということなのです。
 ですから、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」、つまり、このたとえ話の中の真理を知ることを熱心に求めなさいと言われたわけですね。
 イエス様は、一見だれでもわかるたとえで話をしながら、そのたとえに隠されている本当の意味は何か、この話が自分の人生とどんな関係があるのか、と注意深く聞こうとすることの大切さを教えておられるわけです。
 さて、イエス様が種まきのたとえ話をすると、弟子たちは不思議に思いました。なんでイエス様はこんなたとえ話をされたのだろうと。弟子たちは、その話の奥に隠されている意味が理解できなかったのです。マルコの福音書を見ると、弟子たちがイエス様に「このたとえの意味を教えてください」とお願いしたことが記されています。そこで、イエス様はこのたとえの意味を弟子たちに教えられました。このマタイの福音書では、18節ー23節にイエス様の説明が書かれていますね。
 まず、蒔かれた種は何かというと、「御国のことば」「みことば」だとイエス様は説明しておられますね。では、その「御国のことば」とは何でしょうか。
 ヨハネの福音書1章1節と14節に、こう書かれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 この「ことば」とは、イエス様のことですね。つまり、イエス様ご自身が神のことばであり、イエス様のことばは、御国のことばそのものなのです。
 イエス様は、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる」と語られました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。「わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とも言われました。つまり、イエス様のことばは、私たちを励まし、希望を与え、永遠のいのちへと導く「御国のことば」そのものなのです。そして、その「御国のことば」が種として蒔かれているのだというわけですね。

1 四つの場所

 蒔かれた種は、四種類の場所に落ちました。それぞれの場所にどのような意味があるのか見ていきましょう。

①道ばた

 当時の種蒔きは、篭の中の種を手で掴んで放り投げるという方法でした。ですから、風が強く吹く時には種蒔きをしませんでした。あまり風が強くない時を選んで蒔くのだそうです。それでも、蒔かれた種の一部は、道ばたやいろいろ所に落ちるわけです。
 道ばたに落ちた種は、実ることができません。なぜならば、道というのは踏み固められているので種が土の中に入り込むことができないからです。種は道の表面にころがっているだけですから、鳥がやって来て食べてしまうのですね。
この道ばたに落ちた種について、イエス様は、19節でこう説明しておられます。「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」
 道ばたに蒔かれた種は、御国のことばを聞いても悟らない人の状態を表しているというのですね。
 ここに使われている「悟る」という言葉は、何か難しそうに聞こえますが、これは、「合点する」という意味なんです。テレビで「ためしてガッテン」という番組がありますね。説明を聞いて「なるほど」と思った人が丸いボタンを押すと、「ガッテン、ガッテン」という声が聞こえますね。つまり、ここでいう「悟る」とは、イエス様のことばを聞いて「なるほど」とうなずいてガッテンすることなんです。でも、そのテレビ番組を見ても分かるように、ガッテンしている人が深い専門的な知識を持っているわけではありませんね。ただ聞いたことを「なるほど」と受け入れたらガッテンするわけです。それと同じで、私たちも、聖書を全部は理解していなくても、その時々に語られたみことばに合点することはできますね。
 しかし、みことばを聞いても、まったく受け入れようとしない人もいます。いろいろな主義主張によって心がコチコチ、カチカチにされていたり、自分の考えに凝り固まっているので、みことばを聞いてもまったく関心を持たないのですね。それでは、道ばたに落ちた種と同じで、実を結ぶはずがありません。せっかく種が蒔かれても、受け入れなければ、すぐに失われてしまうのです。

②岩地

 次に、岩地に落ちた種については、イエスは20節ー21節でこう説明しておられます。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」つまり、岩地とは、みことばをごく表面的に受け取るだけなので、困難や迫害があるとすぐにつまずいてしまう人を表しているというのです。
 この礼拝で何度もお話していますが、信仰に生きるということは、決してバラ色の人生を保証するものではありません。クリスチャンになっても、悲しみや困難や「どうして」と叫びたくなることが起こります。しかし、試練や困難があるからこそ、それを通して神様の恵みや励ましの力を味わうことができ、人としてどのように生きることが大切かを学ぶことが出来るのです。
 ところが、信じたらご利益があるだろうとか、幸せになるだろうとか、クリスチャンになったらすべてがうまくいくだろうと思っていると、何か自分に都合の悪いことが起こったり、物事が自分の思い通りに行かなくなった時、信仰に意味を見いだせなくなって、つまずいてしまうのです。

③いばらの中

 次に、いばらの中に蒔かれた種については、イエス様は22節でこう説明しておられます。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」
 せっかくみことばを知っているのに、世の心づかいや様々な誘惑や欲望に気を取られて、みことばに信頼することを忘れてしまう人の状態を表しているのですね。
 日本では、クリスチャンになるのは大変なことだと思います。日本人の九十九パーセントはクリスチャンじゃないんですからね、理解されないことも多いのです。牧師なんていうのは、ほとんど風変りな人としか見られませんね。ですから、時々、他の人々にどう見られるだろうかと気にするあまり自分を偽ってしまうことがおこりますね。また、この世の価値観にとらわれて、強くて能力があって成績がいいことだけがに値があると考えてしまうことがあります。また富をため込むことだけに熱心になったり、様々な欲望に引きずられて人生を破壊する方向に向かってしまうこともありますね。また、何かで有名になったり、何かの成功を収めた途端、まるで別人になったかのように高慢に振る舞う人もいます。この世の中には、いろいろな心づかいや誘惑や欲望が満ちているのです。
 しかし、もし有名になったり、大きな富を得たり、脚光を浴びることがあったとしても、大切なのは、そういうものによってみことばがふさがれないようにすることです。なぜなら、そのようなものに、みことばがふさがれてしまうとき、せっかく蒔かれた芽を出した種が枯れてしまうからです。

④良い地

 最後に、良い地に落ちた種はについて、イエス様は23節でこう言われました。「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
良い地に蒔かれた種のたとえは、みことばを聞いてそれを悟る人を表しているというのですね。先ほどもお話ししたように「悟る」とは、合点して受け入れることです。そして、そういう人は豊かな実を結ぶことができるというのです。

2 良い地になるために

 でも、ここで問題が出てきます。皆さんは、正直に自分自身の心を見たとき、自分の心は良い地だと自信を持って言えるでしょうか。道ばたのように固かったり、岩地のようであったり、いばらが生え放題になっているような心だと思うことがあるのではないでしょうか。
 でも、安心してください。初めから良い地である人など一人もいないのです。聖書に「義人はいない。一人もいない」と記されている通り、みんな荒野のような心の持ち主なんですね。
 大切なのは、そんな荒れた地をどのように良い地に変えていくかということです。自分自身の努力や修行で変えていくのでしょうか。そうではありません。私たちの岩地のような雑草だらけの固く頑なな心を耕して良い地にしてくださる方がおられるのです。その方こそイエス・キリストです。
 では、イエス様は、私たちが良い地に変わるように、何をしてくださるのでしょうか。

①水を与えてくださる

 イザヤ書43章19節-20節で、神様はこう言われました。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
 神様は、「新しい事」をすると約束してくださり、それはイエス様が来られたときに実現しました。イエス様が私たち一人一人の渇ききった荒野のような心に水をわき出させてくださるのです。
 ヨハネ4章13節ー14節で、イエス様は、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女性にこう言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
 また、ヨハネ7章37節-39節には、こう書かれています。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」
イエス様は、信じる一人一人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようにしてくださるのですが、その生ける水とは、聖霊のことだというのです。聖霊は、私たちの心に宿ってくださり、私たちの心から愛、喜び、平安、信頼、感謝、賛美を湧き上がらせてくださり、私たちの心をやわらかくして、御国のことばを受け入れやすくしてくださるのです。

②石や不要なものを取り除くことができるようにしてくださる

 良い地にするためには、石や雑草や木の根株など、邪魔なものを取り除く必要がありますね。
 しばらく前ですが、教会の玄関脇に植えてあった木が強風で倒れてしまいました。一番大変だったのは、その根を引き抜くことでした。今は、そこにバラが植えてあります。
 私たちの心を見ると、石ころや雑草や心の奥深くまで伸びた根っこがありますね。イエス様は、私たちの心のそういう不要なものを明らかにしてくださいます。そして、私たちがそれを取り除くことができるように助けてくださるのです。時には、引き抜くときに痛みを感じるかも知れません。次々と生えてくる雑草を抜き続けていくためには忍耐も必要でしょう。でも、イエス様に示されたら、素直さと謙遜さをもって、不要なもの、邪魔なものを取り除いていくことが大切です。それを続けることによって、良い土へと変えられていき、御国のことばがしっかりと根付いて、多くの実を結ぶことができるようになっていくのです。
 ヤコブの手紙1章21節にこう書かれています。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
 
③栄養を与えてくださる

どんなに耕した土地でも、やせて栄養がなければ、作物は生長しません。
 私は、幼い頃、栃木県の足尾町に住んでいました。ご承知の通り、昔は足尾銅山で有名でした。しかし、採掘が進み、周りの山は伐採されて木が一本もないはげ山になってしまっていました。けれども、今、足尾町に行くと、はげ山が緑に変わってきている光景を見ることができるんです。なぜかというと、荒れた山肌に種の入った土嚢を置き、また、小さな苗木を植える作業を何十年もかけて行ったからです。せっかくの土嚢や苗木は雨が降るたびに何度も流されてしまいました。しかし、次第に種が根付き、植えられた緑が栄養となり、それがさらに緑を産んでいったのです。そして、種が蒔かれ続けることによって、土地が改良されていったのですね。時間も労力もかかりますが、種が蒔かれ続けていくとき、そこは緑豊かな場所に変えられていくのです。
 感謝なことに、「御国のことば」という種は聖書を通して、溢れるばかりにまかれ続けているのです。吹き飛ばされたり、流されることがあっても、またそこにまかれ続けているのです。 そして、第一ペテロ2章2節には、こう書かれています。「あなたがたは生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」みことばは、私たちの心に蒔かれる種であると同時に、乳でもあるというのです。乳は最も栄養価の高い、そして栄養バランスのとれた食物だそうです。聖書のみことばは、私たちの栄養です。私たちは、聖書から栄養を与えられて良い地に変えられ、豊かな実を実らせていくのです。

 第一コリント3章6節ー7節で、パウロはこう言っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
 私たちの荒れ地のような心を良い地にしてくださるのは神様であり、また、成長させてくださるのも神様ご自身なのですね。
 今週も御国の言葉に合点しながら、また、心の「草むしり」をしながら、成長させてくださる神様を信頼して歩んでいきましょう。