城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年九月二〇日             関根弘興牧師
                マタイ一三章二四節~三三節
 イエス様のたとえ話2
   「天の御国の三つのたとえ」

24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(新改訳聖書)


今日は、イエス様が、天の御国について語られた三つのたとえ話を学びましょう。
 この三つのたとえ話に共通しているのは、「種」がたとえに用いられていることです。「良い麦の種と毒麦の種」「からし種」「パン種」が出てきますね。そして、この三つのたとえ話は、天の御国の主人である神様はどのような方か、また、天の御国とはどのような性質のもので、私たちが天の御国の一員とされているとはどういうことなのかを教えているのです。
 ところで、今日のたとえ話の中の「天の御国」というのは、死んだ後に入る天の御国という意味ではありません。
 聖書では、「天の御国」を「神の国」ともいいますが、ルカ福音書17章20節ー21節には、こんな出来事が書かれています。「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』」
 「神の国はあなた方のただ中にある」とイエス様は言われました。イエス様を救い主と受け入れる一人一人の中に神の国は到来しているというのです。ですから、天の御国のたとえは、私たち一人一人が主と共に歩む人生について、また、教会の姿について教えているものでもあるのです。
 詳しく見ていきましょう。
 
1 良い麦と毒麦のたとえ

 まず、24節から30節までは、「良い麦と毒麦のたとえ」が書かれています。
 イエス様は、まず、「天の御国は、こういう人にたとえることができます」と言われました。そして、まず、畑の持ち主である主人についてお話しになりました。つまり、このたとえは、天の御国の主人である神様がどのような方であるかを教えているのです。
 このたとえも、表面的にはわかりやすい話ですね。しかし、弟子たちは、36節で「畑の毒麦のたとえを説明してください」とイエス様にお願いしました。すると、イエス様は、37節から43節で、このたとえの意味を解説なさいました。
 まず、「自分の畑に良い種を蒔いた人」とは、「人の子」のことだ、と言われました。「人の子」というのは、神が人となって来られた方、つまり、イエス・キリストのことです。それから、「畑」は「この世界」、「良い種」とは「御国の子どもたち」、つまり、イエス様を信じて神の子とされた人たちのことです。
 そして、「毒麦を蒔いた敵」とは、「悪魔」だというのですね。聖書の中に出てくる「悪魔」とか「サタン」というのは、「訴える者」「中傷する者」という意味があります。神様に敵対する存在です。「お前はだめだ」「お前なんか神に愛されるはずがない」などど批判し、中傷して、何とか私たちと神様との関係を破壊し、滅ぼしてしまおうとする存在です。今日のたとえの中でも、毒麦を蒔いて良い麦の発育を邪魔し、あわよくば滅ぼしてしまおうとしているのですね。
 さあ、植えてもいない毒麦が畑から芽を出してきたのを、しもべたちが見つけました。しもべたちは、「これは大変だ。すぐに毒麦を抜いてしまおう」と考えたわけです。
 しかし、主人は、「そのままにしておきなさい。毒麦と一緒に良い麦も間違って抜いてしまうといけないから、収穫の時まで待ちなさい。そして、ちゃんと見分けが付いてから、間違えないように毒麦を刈り取って処分しなさい。そして、良い麦を倉に納めなさい」としもべたちを諭したのです。
 このたとえは、何を教えようとしているのでしょう。
 主人は、「毒麦をすぐに抜くのではなく、収穫の時まで待ちなさい」と言いましたね。その理由は、二つあると思います。

①主人は、良い麦が一つでも失われることを望まない。

 普通なら、毒麦に気づいたら、すぐに抜くのが当たり前ですね。でも、このたとえ話の中の主人は、「毒麦と一緒に良い麦も間違って抜いてしまうといけない」と思ったのです。つまり、主人は良い麦が一つでも失われることがないように気遣っているわけですね。「少しぐらい間違って抜いてしまってもかまわない」とは思わないのです。
 それは、つまり、神様が、天の御国の子どもである一人一人を、大切なかけがえのない存在として見てくださっているということなのです。まだ成長していないうちは、毒麦と間違われるような者かもしれません。しかし、神様は、私たちが途中で失われることのないように、忍耐強く成長を見守り、最後には、御国の倉に納めてくださるというのです。
 私たちは、すぐに排除の論理を振りかざしてしまう傾向がありますね。毒麦だと思うと、それをすぐに抜いてしまおう、と考えるのです。それは、至って当たり前のように思われますね。でも、それが行き過ぎると、とんでもないことになっていくのです。
 ルカの福音書9章53節にこんな出来事が書かれています。
 イエス様が、エルサレムに向かって進んでおられたとき、その途中にあるサマリヤの人たちはイエス様を受け入れようとしませんでした。すると、弟子のヤコブとヨハネは、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と過激な発言をしたのです。すると、イエス様は、彼らを戒められました。弟子たちは、短絡的に、排除の論理で「従わないものは、排除し、滅ぼしてしまえ」と考えましたが、イエス様は、そうではありませんでした。そんなことをしたら、大切なものを失いかねないからです。
 私たちは、気を付けないと、何かを排除することばかりに熱心になって、そこにいる大切な一人一人さえも抜いてしまおうとすることがあるかもしれません。そして、まるで無菌室でないと成長できないかのような雰囲気を作ってしまうのです。
 もちろん、教会には秩序も大切ですし、問題があったら、互いに戒めたり、助言し合っていくことも大切です。また、もし、聖書の教えをゆがめるようなものが入ってきたら、それを適切に正すことも大切です。
 しかし、だからといって、悪いものを何でもかんでも排除しなければ、ということばかりに気を取られて、良いものまで抜き取ってしまうことのないように気を付けなければなりません。忍耐して、成長を待つことも必要なのです。神様も毒麦ではなく、良い麦のほうに関心を向けておられます。ですから、私たちも何かを排除することに熱心になるのではなく、良いものが成長していくことに関心を持っていきたいですね。
 「収穫の時」に神様ご自身が最終的な正しい審判をしてくださり、良い麦と悪い麦を正しく分けてくださることを信頼し、委ねていきましょう。

②毒麦は、良い麦を滅ぼすことができない。

 さて、主人が「毒麦を抜くのは待ちなさい」と言ったもう一つの理由は、毒麦が蒔かれていても、良い麦はちゃんと成長できるだけの生命力を持っているということを、主人が信頼していたからです。主人は、「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」と言っていますね。つまり、この主人は、良い種がちゃんと育っていくことができると知っていたのです。
 これは、つまり、イエス様によって蒔かれた種は、必ず実を結ぶことが出来る生命力を持っている、ということなのです。毒麦に負けることなく成長していけるのですね。
 神様のいのちによって生かされている一人一人は、どのような状況の中でも成長し、実を結ぶことができるということを覚えましょう。
 その素晴らしい生命力について、イエス様は、次のたとえ話で語っておられます。

2 からし種のたとえ

 今日の二つ目のたとえは、31節ー32節に書かれています。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
からし種は、とても小さな種です。しかし、それが蒔かれ、成長すると、空の鳥が来て、枝に巣を作るほどの大きな木になるのです。
 旧約聖書では、「鳥が来て、巣を作る」という表現は、多くの人が保護を求めて集まってくることを表すものとして使われています。たとえば、エゼキエル31章6節には、こう書かれています。「その小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のすべての獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ。」
 天の御国が、このからし種のようなものだというのは、どういう意味でしょうか。それは、最初は、どこにあるかもわらないような小さな小さな存在だけれども、やがて大きく成長し、世界を包含するほど広がり、多くの人に休息と安息を与えるものとなっていくということなのです。その天の御国が私たちのただ中にあるのです。私たちの内に蒔かれたからし種は、小さなものとしか見えないかもしれません。しかし、この小さな種は限りない可能性を与えられている種でもあるのですね。

3 パン種のたとえ

 次に、33節で、イエス様は、三つ目のたとえをお話しになりました。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
 「パン種」とはイースト菌のことですね。パンを膨らませるために入れるものです。聖書の中では、「パン種」という言葉は、「まわりに悪影響を及ぼすもの」という悪い意味で使われることが多いのですが、今日の箇所では、良い意味で使われていますね。「天の御国」がパン種にたとえられています。
 ここで、女がパン種を三サトンの粉の中に入れたとありますね。「サトン」とは、旧約聖書では「セア」となっていますが、一サトンが十リットルから十三リットルぐらいです。ですから、三サトンというと、三十リットルから三十九リットルということですから、結構な量ですね。この粉にパン種を少し入れると、どうなるでしょう。全体が少しずつ膨らんできます。そして、柔らかくなってくるのです。
 つまり、天の御国は、小さな存在であっても、まわりに大きな影響を与えていくのだということを表しているのですね。

 さて、今日の三つのたとえ話は、天の御国の持つ大きな力を示しています。妨害があっても成長していくことのできる力、最初は小さくても驚くほどに大きく育っていく力、そして、まわりに大きな影響を与えていく力です。
 それは、イエス様ご自身の生涯の中に示された力でもあります。
考えてください。イエス様は、約二千年前にベツレヘムの家畜小屋でひっそりとお生まれになりました。母マリヤはガリラヤのナザレという田舎町の娘です。世界に注目されることなど、まったくありませんでした。あまりにも小さくて見えないほどです。
 イエス様が公の活動をされたのは、ローマの属国なっていたユダヤの地です。大帝国ローマからみれば、辺境の地です。そして、イエス様の弟子たちも、ほとんどが田舎出身の普通の人で、目を見張るような人物は一人もいませんでした。
 しかし、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた救いの福音は、どんな圧力や迫害にも押しつぶされることなく、人々の人生を変革しながら全世界に広がっていきました。そして、今、この場所にも教会が建てられているのです。

 そして、私たち一人一人の中に与えられているいのちは、あのからし種のようであり、パン種のようなものだ、と教えられているのです。イエス様を信じ生きる一人一人、そして、イエス様のからだである教会に対して、神様は、大きな信頼を寄せ、どんな状況におかれても失われることのない命を与えてくださっています。
 最初は、目に見えないほど小さくても、大きく豊かに伸びていく力を与えてくださっています。またどんなに小さくても、まわりの全体を変革してしまうほど力強いいのちを与えてくださっているのです。そのことを、イエス様は今日の三つのたとえを通して語っておられるのです。
 最近、スポーツ番組などで「ポテンシャル」という言葉がよく使われます。この人はポテンシャルが高いとか、低いとか言うのですね。それは、潜在的な能力を指す言葉です。
 皆さん、イエス様が私たちをご覧になるとき、「あなたは、わたしの与えるいのちによって生命力に溢れた存在だ」というふうに、私たちのポテンシャルを見ていてくださるのです。
 でも、ときどき、私たちはそのことを受け入ることができなくなります。なぜなら、実際に病気になったり、思うように事が進んでいかない現実に出くわすからです。「ああ、私は弱く、本当に小さなものだ」と思わされることも何度もあると思います。でも、失望しないでください。病気になっても、疲れてしまっても、私たちの中には、イエス様が与えてくださった信仰の種があるのです。それは、からし種やパン種のようなもので、ちっぽけに見えるかも知れませんが、主の豊かないのちに溢れたものなのです。
 ルカ12章32節で、イエス様は、「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」と言われました。
 イエス様は、この小さな群れの中に、大きな可能性と生命力溢れる姿を見てくださっているのです。ですから、私たちも、自分にもお互いにも、そんなまなざしを向けながら歩んでいくことにしましょう。