城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年九月二七日             関根弘興牧師
                マタイ一三章四四節~五二節
 イエス様のたとえ話3
   「隠された宝のたとえ」

44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(新改訳聖書)

先週は、イエス様が話された天の御国の三つのたとえを学びました。
 最初のたとえは、「良い麦と毒麦のたとえ」でしたね。ある人が麦の種を蒔きました。しかし、悪い者がやってきて、その畑に毒麦を蒔いたのです。植えてもいない毒麦が畑から芽を出し小さな穂をつけ始めたのを見たしもべたちは、「これは大変だ。すぐに毒麦を抜いてしまおう」と考えました。しかし、主人は、「そのままにしておきなさい。毒麦と一緒に良い麦も間違って抜いてしまうといけないから、収穫の時まで待ちなさい。そして、ちゃんと見分けが付いてから、間違えないように毒麦を刈り取って処分しなさい。そして、良い麦を倉に納めなさい」としもべたちを諭したという話でしたね。
 主人は、「毒麦をすぐに抜くのではなく、収穫の時まで待ちなさい」と言いました。その理由は、二つあります。
 まず、天の御国の主人である神様ご自身は、良い麦が一つでも失われることを望んでおられない、つまり、神様は、今日ここにいる一人一人を、決して失われてはいけない、かけがえのない存在として見ていてくださっているということです。
 もう一つは、毒麦をそのままにしておいても、良い麦を滅ぼすことは出来ないということです。つまり、イエス様によって蒔かれた種、には、毒麦に負けることない生命力が与えられているということなのですね。
 その生命力について、イエス様は、次に「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」をお話しになりました。「からし種」も「パン種」も、小さくてどこにあるのかわからないほどのものですが、「からし種」は、驚くほどに大きく育っていく力、そして、「パン種」は、まわりに大きな影響を与えていく力を持っているのです。私たち一人一人に与えられているいのちは、からし種のようであり、パン種のようなものだというのですね。
 イエス様を信じて生きる一人一人に、また、イエス様のからだである教会に、神様は、どんな状況に置かれても失われることのないいのち、豊かに成長し、周囲に大きな影響を与えていくいのちを与えてくださっているということなのです。

 さて、今日は、その続きです。
 前回の三つのたとえでは、私たちに与えられた天の御国は、初めは小さいけれど、その中に限りなく大きな生命力があるということが説明されていましたが、今日の箇所の最初の二つのたとえは、天の御国がどれほど貴重な宝であるかということを教えています。それでは早速見ていきましょう。

1 畑に隠された宝

一つ目のたとえは、おもしろいですね。農夫が畑を掘り起こしていると宝を見つけたという話です。この農夫は、主人の畑で農作業をしていたのでしょうね。すると、その作業中に土に埋まっていた宝を見つけたのです。この人は、その宝を黙って持ち帰ることはしませんでした。何と、自分の持ち物を全部売り払って、その畑ごと主人から買い取ってしまったというのです。そうすれば、その畑に隠れている宝も自分のものになるというわけですね。
 この当時、銀行の貸金庫などありませんから、財産や宝物をどこに隠したかというと、自分の地所のどこかに埋めるということをしたそうです。しかし、持ち主が死んでしまい、時が経つと、そのまま忘れ去られてしまう、ということが時々起こったそうです。
でも、このたとえ話で宝を発見した時の農夫の気持ちを考えると、その驚きは大変なものだったのではないでしょうか。この人は、別に、トレジャーハンター(宝探し人)ではありません。ただ畑の仕事を任されていた雇い人にすぎませんでした。彼は何かを探し求めていたわけではありません。それなのに、突然、大きな宝を見つけたのですね。すると、この人は、自分のわずかな財産を全部出してその畑を買い、その宝を自分のものにしたのです。
 イエス様は、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」と言われましたね。この「宝が隠されている畑」とは、一体何を指しているのでしょう。それは、聖書だとも言えるでしょうし、教会と言ってもいいかも知れません。
 いずれにせよ、多くの人にとっては、ただの畑にしか見えず、ただ眺めて通り過ぎてしまうようなものでしょう。まさかここに宝が隠されているなどとは考えもしないでしょう。しかし、そこに、大きな宝が隠されている、と言うのです。
 さて、ここで、たとえ話の意味を考えるときに気を付けなければならないことがあります。それは、「必要以上に細かいところに注意を向けてはいけない」ということです。たとえ話は、一つ一つの言葉や出来事の中に意味を深く探るのではなく、全体として何を言おうとしているのか、このたとえ話が表している中心的な真理は何か、ということを理解することが必要なのです。そうしないと、たとえ話の本質を見逃してしまうことがあるのです。
 たとえば、この農夫は主人に宝のことを隠しておいて畑を買い取ったわけですが、だからといって、「黙って畑を買ったことに何か意味があるのではないか」とか、「主人に宝のことを言わないなんて、ずるいのではないか」とか、細かいところを詮索すると全体がわからなくなってしまうのです。
 また、この農夫が持ち物を全部売り払って畑を買ったと書かれているのを読んで、「持ち物を全部売り払わなければ天の御国を得ることはできないのか」というふうに解釈したら間違いなのです。
 そうではなく、このたとえ話が教えているのは何かというと、「天の御国は、時には、偶然に見えるような日常の中で見つけることができるが、それは、自分の持っているものすべてと引き替えに買い取っても惜しくないほど価値ある宝物のようなものだ」ということなのです。
皆さんの中には、自分から求めていたわけではないのに、偶然と思えるような出来事が重なってイエス様に出会い、永遠の御国という宝を発見したという方もおられるのでしょう。
 たまたま、いつもは通らない道を通ったら、教会があって来てみたとか、たまたま友人に誘われて教会の音楽会に来たとか、たまたまテレビをつけたら「ライフライン」をやっていたとか、いろいろありますね。
 パウロもそうでした。彼は、クリスチャンを迫害するためにダマスコに出かけていく途中で、突然まばゆい光に打たれ、イエス様に出会ったのです。彼は、イエス様を求めていたわけではありませんでしたが、イエス様に出会い、永遠の宝を発見することができたのです。後に、パウロは、ピリピ3章8節にこう記しています。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」つまり、パウロは、この宝は、すべてのものを捨てても惜しくないほど素晴らしいものだと言っているのです。

2 すばらしい値打ちの真珠

さて、今日の箇所の二番目のたとえ話は、良い真珠を捜している商人のたとえです。これもおもしろいたとえですね。この商人は、良い宝石を見つけるために各地を旅して、ついに、今まで見たこともない高価な真珠を探し当てたのです。すると彼はどうしたでしょうか。彼も、持ち物を全部売り払って、その真珠を買い取ったというのです。
 持ち物全部を売り払って買い取るのは、先ほどの農夫と同じですね。ただ、この商人は宝石商ですから、彼の持ち物は相当な額になったはずです。ですから、ここで強調されているのは、この真珠が他の宝と比べることができないほど価値あるものだということです。
 ここでも、皆さんに注意していただきたいのは、 先ほどお話ししたように、たとえ話を解釈する場合には、細かいところまで一つ一つ意味を探ろうとしてはいけないということです。
 たとえば、「この商人が自分の財産で真珠を買えたということは、自分の力で救いを得ることが出来るということなのだ」と解釈したら間違いなんです。また、「持ち物を全部売り払わなければ、天の御国の一員になれないのだ」と解釈することも間違いなのです。
 畑に隠された宝を見つけた農夫のたとえも、すばらしい値打ちの真珠を見つけた商人のたとえも、全体として何を表しているかというと、天の御国が自分持つすべてを支払っても惜しくないほど大きな価値がある宝物だということなのです。
 ただし、この二つのたとえには、違うところがあります。農夫の場合は、普通の生活をしている時に偶然宝に出会ったのですが、商人の場合は、自分から宝を探し求めていました。そこが違いますね
 イエス様は、マタイ7章7節で、こう言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」イエス様は、求める者に豊かに与えてくださるお方なのです。
 さて、農夫も商人も、天の御国の宝を手に入れました。イエス様がもたらしてくださった宝、天の御国とは何でしょう。それは、主がいつも共にいてくださり、罪をゆるし、愛し、導き、尽きることのないいのちで満たし続けてくださるということです。私たちがこの地上で持っているものは、いつかは失われます。しかし、決して失われることのない宝があります。それが天の御国の福音なのです。

3 地引き網

 次に、イエス様は、天の御国を地引き網にたとえてお話しになりました。
 地引き網の中には、あらゆる種類の魚が集められていますが、最後に網が岸に引き上げられると、良いものは器に入れられ、悪いものは捨てられるというのですね。
 イエス様は、49節ー50節で、このたとえを解説しておられます。この世の終わりに正しいものと悪いものとが選り分けられる、神様の正しい裁きがある、というのですね。
 これは、前回お話しした良い麦と悪い麦のたとえと似ていますね。畑に良い麦と悪い麦が育っているけれど、収穫の時期がくると、良い麦は倉に収められ、悪い麦は焼かれてしまうという話でした。
 その麦のたとえの場合は、まわりに悪い麦がはえている環境にあっても神様に守られ成長していくことのできる良い麦に焦点が当てられていました。
 しかし、今回の地引き網のたとえでは、悪い者が火の燃える炉に投げ込まれて泣いて歯ぎしりする、ということが中心になっていますね。
 このたとえを読むと、「私も世の終わりに悪い者として投げ捨てられてしまうのではないだろうか」と心配になる方もいるのではないでしょうか。
 「あなたは良い人ですか、悪い人ですか」と質問されたら、どう答えますか。「良い時もあるけど、悪い時もあるな」と思いますね。自信を持って「私は良い人です」と言える人などいないのではないでしょうか。調子の良い時には「私は神様を信じて歩んでいます」と言えても、調子が悪い時は、「私は本当に神様を信じているんだろうか」と感じてしまうこともありますね。
 しかし、心配しないでください。聖書に書かれている約束は決して変わることはありません。イエス様を信じて受け入れた人に与えられた救いや赦しや永遠のいのちは、決して失われることはないのです。神の子、御国の子として生かされていることに揺らぎはありません。
 それは、私たちの調子の良し悪しや、どのように感じるかということには、まったく関係ないのです。私たちは感情によって信仰生活を維持していくのではありません。たとえそう思えない時、そう感じられない時があっても、神様の救いの約束を信頼して生きていくことが、本来の信仰生活なのです。
 ですから、この地引き網のたとえを読んで、心配する必要はありません。このたとえは、私たちを不安にさせるために語られたのではないのです。また、「あなたが良い者か悪い者か最後の最後にならなければわからないのだから、しっかりしなさいね」と言っているのでもありません。
 このたとえの中心は何かと言えば、この世界には終わりがあり、最終的な神様のさばきがあるということです。この世界には、いろいろな問題や矛盾があるけれど、神様が必ず正しいさばきによって決着をつけてくださるというのです。
 神様の裁きについて考える時、スポーツの審判を例にして考えるとわかりやすいでしょう。
 たとえば、ラグビーでもサッカーでもいいのですが、競技には必ず審判がいますね。もし審判がいなかったらどうでしょう。互いに、「今のはファールだ」「違う、何言ってるんだ」などということになって試合が成立しません。また、審判がいても誤審ばかりでは、ひどい試合になりますね。良い審判がいて初めてそれぞれの選手が自分の実力を発揮して気持ちのいい試合ができるのです。つまり、審判の良し悪しで、試合は全く違うものになってしまうのですね。良い試合になるかどうかは審判にかかっていると言ってもいいくらいです。
皆さん、私たちは、矛盾だらけの世界の中に生きています。しかし、神様は良い審判者として私たちの人生を導き、最終的に正しい審判を下してくださるのです。そういう方がいるならば、安心できると思いませんか。
 神様こそ唯一の良い審判者です。そして、その審判者である神様がおられることについて、この地引き網のたとえから、さらにどんなことを学ぶことができるでしょうか。

①神の警告
神様は、えこひいきなさる方ではありません。正しい審判者ですから、反則を犯す者には警告を与えます。反則があまりにもひどいものなら退場処分もありますね。
 人が人としてのあり方を放棄して生きようとするなら、それこそ警告ものです。また人が高慢になって、自分がまるで神様にでもなったかのような振る舞いをするなら、それがどれほど危険な行為かを知らなければなりません。
 神様がこの世の終わりに最終的なさばきをなさるというのは、それまでは悪いものを見て見ぬ振りをなさっているということではありません。絶えず、警告を与え、自分を振り返る時を与え、正しい生き方に立ち返るよう呼びかけてくださっているのです。警告を無視して反則を続けるなら、神様は、最終的にきちんとしかるべき処置をなさるのということをこのたとえ話は教えているのです。

②さばくのは神
 パウロは、第一コリント4章4節-5節にこう書いています。「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」
 パウロは、ここで「先走ったさばきをしてはいけません」と書いていますね。私たちが勝手に審判を下してはいけない、ということです。私たちが勝手に「あの人は燃える火の中に投げ込まれるな」とか「束にされて燃やされるな」と勝手な審判を下してはいけないのです。正しい審判者なる神様がおられるのですから、さばきは神様にお任せすればいいのであって、互いにさばき合うことは控えるべきなのです。
 もちろん、互いに戒め、注意し、徳を高め合っていくことはとても大切です。しかし、もし互いを非難し、切り捨てて行くようなさばき合いをするなら、教会の交わりは破壊されてしまいます。
 私たちには、外面的なことしか見えません。しかし、神様は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされる、と書かれていますね。神様は、すべてのことを十分にわかった上で、正しくさばいてくださるのです。ですから、人の評価に一喜一憂する必要もありません。一人一人が良き審判である神様が導いてくださる人生という試合の中で、自分らしくプレーしていけばいいのです。

③「正しい者」とは
 そして、世の終わりに神様の審判による最終宣告が待っているわけですが、悪い者は燃える火の中に投げ込まれてしまうというのですね。私たちは、大丈夫でしょうか。
 ローマ3章23節-24節には、こう書かれています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
 すべての人が罪を犯した、つまり、正しい者はだれもいないということですね。そのままでは皆、燃える火の中に投げ込まれるしかない状態です。
 しかし、イエス様の身代わりの十字架によって義と認められるという道を神様は備えてくださいました。この「義と認める」とは、法廷で無罪と宣告されるということです。つまり、「正しい者」と認められるというのです。ですから、イエス様の十字架による救いを信じる私たちは、神様の審判を恐れる必要はありません。むしろ、神様の審判があるからこそ、矛盾に満ちたこの世の中で、神様に委ねて前向きに生きていくことができるのです。

4 倉から何でも取り出す主人

 そして、今日の最後の52節で、イエス様は、一連の天の御国のたとえの締めくくりとして、こう言われました。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
 天の御国を与えられ、受け入れた一人一人は、天の御国の学者ようなもので、倉から何でも自由に取り出すことができるというのです。
 どういう意味でしょうか。天の御国について記されているのは、聖書ですね。私たちは、旧約聖書と新約聖書のあらゆる箇所から自由に恵みの言葉を引き出し、分かち合いつつ歩んでいけるということなのです。
 天の御国の民とされていることを喜びながら、そして、正しい審判者である神様に委ねつつ今週も歩んで行きましょう。