城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年十月四日              関根弘興牧師
                マタイ一八章二一節~三五節
 イエス様のたとえ話4
   「七度を七十倍するまで」

  21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(新改訳聖書)


 私たちは、この世に生きている限り、いろいろな誘惑、罪、過ちを避けることができません。それは、主にあって生かされ、教会に集っている一人一人も例外ではありませんね。罪や過ちによって傷を受け、麗しい関わりが破壊されてしまうこともあります。ですから、「赦し」というのは、とても大切なテーマですね。
 今日は、イエス様のたとえ話から、「赦し」ということについてご一緒に考えていきましょう。

1 七度を七十倍

 イエス様は、今日のたとえ話の前に、15節で、こう言われました。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」誰かが罪や過ちに陥ったとき、その人をすぐに切り捨ててしまうのではなく、戒め、諭し、正してあげなさい、と言われたのです。
 そのとき、ペテロがイエス様の所に来て「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と尋ねたのですね。
 ここで、ペテロは、兄弟が「私に対して」罪を犯した場合と言っていますね。つまり「自分だけが被害者になっている場合」ということですね。自分だけが被害を受けるのですから、余計に腹立たしくなるでしょうし、「赦せない」という個人的な思いも強くなるでしょう。
 ただ、ペテロは、赦すことが大切なのは十分知っていました。なぜなら、イエス様に、「七度まで赦すべきでしょうか」と尋ねているからです。当時のユダヤ教の指導者たちは、「罪を犯した兄弟を三度までは赦せ」と教えていました。それに比べて、ペテロは「七度まで」と言うのですから、模範解答のように思えますね。
 ところが、イエス様は、「七度までではなく、七度を七十倍するまで赦しなさい」と言われたのです。これを単純に計算すると、四百九十回まで赦せ、ということですね。さすがのペテロもびっくり仰天です。でも、皆さん、イエス様はどういう意味でこう言われたのでしょうか。
 この数字を文字通り受け取ると、どうなりますか。「四百九十回か、よし、大変だけど頑張るぞ。一回ずつ数えていこう。はい、あなたを赦しますよ。これも赦しますよ。まだ二百八十回だな」というふうに指折り数えながら罪を見つけては赦しを繰り返し、遂に四百九十回を迎えた瞬間、「これでもう赦さなくてもいいのだ」となるのでしょうか。イエス様が言われたのは、そういうことではありません。
 イエス様は、「七度を七十倍するまで」と言われましたが、七は完全を表す数です。その完全数をさらに七十倍というのですから、これは、「赦しには制限や期限切れはないのですよ」、「赦し続けながら生きていくことが必要なのですよ」という意味なのです。
 ペテロや他の弟子たちが目を丸くして「そんなの不可能だろう!」と驚いている様子が目に見えるようですね。

2 王としもべのたとえ

そんな弟子たちに対して、イエス様は、天の御国における赦しとはどのようなものかを、地上の王にたとえてお話しになりました。このたとえは、三幕構成になっています。

①王と負債のあるしもべ

第一幕は、王と王に一万タラントの借りのあるしもべのやりとりです。
 王がしもべたちとの清算の作業を始めました。決算書を作成したということですね。調べてみると、一人のしもべが王からあり得ないほどの借金をしていることがわかりました。なんと一万タラントもの借金です。日本円に換算すれば、六千億円くらいです。清算するのは到底不可能な金額です。王は、このしもべに自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じましたが、このしもべは、主人の前にひれ伏して「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と懇願しました。しかし、返済期限が延びたとしても、あまりに大きな負債ですから、返済の目途など立つはずがありません。
 すると、王は、このしもべをかわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやったというのです。
 ここで、私たちは、神様の赦しというものが、どのようなものかを知ることができます。
 王とは神様のことですね。では、一万タラントの負債を負ったしもべとは誰のことでしょうか。実は、私たち一人一人のことなのです。「私は、神様にそんな多額の借金などしていない」と思うかもしれませんね。でも、どうでしょうか。
 まず、私たちのいのちそのものが神様から与えられたものです。また、生きていくために必要なものは、すべて神様が備えてくださいました。もし太陽が一瞬たりとも光を失ったら、あるいは、空気がなくなったら、私たちは生きていくことができませんね。それなのに、私たちは、必要なすべてが備えられていることを当たり前だと勘違いしていることが多いのです。そして、感謝もせず、神様をあがめることもしません。それは、神様のものを自分勝手に借用しているようなものですね。
 また、前回お話ししましたように、神様の前に正しい人など一人もいません。皆、自分では解決することの出来ない罪の負債を抱えているのです。私たちが、その負債をすべて自分の力で帳消しにすることは不可能です。自分の持ち物を全部売り払っても、自分でどんな犠牲を払ったとしても、神様に対する負債を返すことはできない、それを、このたとえ話は教えているのです。
しかし、王はしもべを「かわいそうに思って」すべての負債を免除したとありますね。この「かわいそうに思って」という言葉には、「腸(はらわた)が揺り動かされて」という意味があります。つまり、神様は、私たちの状態をご覧になって、腸が揺り動かされるほどにかわいそうに思ってくださり、負債を帳消しにしてくださるというのです。つまり、神様の赦しは、神様の大きな愛に裏打ちされているのです。神様は「まったく、お前はしょうのない奴だなあ。仕方が無いから赦してやるよ」というような方ではありません。私たちを愛するがゆえに、私たちが負債に苦しむ姿を見て、深くあわれみ、助けようとしてくださる方なのです。
 しかし、負債を免除するということは、その負債を王様がそのままかぶるということですね。神様は、ご自分のひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。そのイエス様が私たちの負債を全部負ってくださり、十字架についてくださったのです。イエス様がご自分のいのちによって、私たちの負債をすべて支払ってくださったのです。神様が私たちを赦すと言ってくださるとき、その背後には、イエス様の大きな犠牲があるということを忘れてはなりませんね。
 パウロは、エペソ1章7節でこう言っています。「この方(イエス・キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

②負債を免除されたしもべと仲間

 このしもべは、多額の借金から解放されました。しかし、このたとえ話は、それで終わりではありませんね。第二幕には、しもべ同士の間で起こった出来事が書かれています。
 王に負債を免除してもらったしもべが、外に出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会いました。出会ったというより捜し出したような感じがしますね。そして、その人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と迫っり、相手が「もう少し待ってくれ」と懇願しているのに容赦せず、牢に投げ入れてしまいました。
 ひどいですね。百デナリというのは、一万タラントの六十万分の一、つまり、百万円ぐらいです。しかも、本を正せば、その貸したお金も、王から借りたお金の一部なわけですね。ところが、このしもべは、自分の借りた六千億円もの借金を免除してもらったばかりだというのに、自分の貸した百万円を容赦なく取り立てようとしたのです。相手は仲間なのに、話を聞こうともせず、一方的に断罪して、首を絞め、そして、有無を言わせず、牢に投げ入れてしまったのですね。
聖書は、このようなことが仲間同士の中で、つまり、教会の交わりの中で起こらないように、と戒めています。自分が神様のあわれみによって赦されたことを忘れて、相手を糾弾し、断定的にさばき、攻撃し、追い出してしまうようなことは、あってはならないのです。
 ペテロが「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか」と尋ねると、イエス様は、「七度を七十倍するまで」とお答えになりましたね。それは、「あなたに対して借金がある人、つまり、あなたに対して罪を犯した人を何回でも赦しなさい。なぜなら、あなた自身が神様から測り知れないほど多くの赦しを受け取っているのだから」ということなのです。

③王の怒り

 そして、第三幕です。他のしもべ仲間たちが事の一部始終を王に報告すると、王は、すぐにこのしもべを呼びつけ、「悪いやつだ」と怒りました。
 王は、このしもべが多額の借金をして返すことができないとわかったときには、「悪いやつだ」とは言いませんでした。しかし、このしもべが仲間を赦さなかったことに対しては、強い口調で「悪いやつだ」と叱責したのです。そして、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡したというのですね。
 皆さん、王は、なぜこれほどまでに怒ったのでしょうか。
 もし、このしもべが王に対する自分の借金を全部自力で返していたなら、自分が金を貸した相手にも返済を要求することは正当な権利としてできるでしょう。王の怒りを買うこともないでしょう。
 しかし、このしもべは、自分の努力や頑張りで負債を返すことはできませんでした。ただ、王の大きなあわれみによって、莫大な借金を免除され、赦されたのです。何とすばらしい恵みの経験をしたことでしょう。もしそのことを本当に心から喜び感謝していれば、仲間から容赦なく借金を取り立てるようなことはしないはずですね。
 ところが、このしもべは、自分の背負っていた負債よりもはるかに小さな負債を負っている仲間を赦そうとしませんでした。それは、王から受けた恵みをすっかり忘れて、まるで自分の借金を全部自分で返済したかのような傲慢な態度ですね。
 私たちも、もし自分の罪の赦しを自分の力で勝ち取ったかのような態度で仲間をさばくなら、神様は、決して喜ばれません。
 皆さん、イエス様は、このたとえ話で大切なことを教えておられます。それは、神様の恵みによりイエス様の十字架の贖いによって罪の赦しと永遠のいのちを受けて生きていくということと、仲間同士互いに赦し合いながら生きていくこととは、車の両輪のようなものだということです。私たちは、神様からの一方的な赦しを受け取った者として、互いに赦し合いつつ生きていくのです。それがクリスチャン・ライフの特徴なのです。

3 赦すとは

 しかし、「七度を七十倍するまで赦しなさい」と言われると大きなプレッシャーを感じてしまいますね。「私には、とても出来ない」と思う方もおられるでしょう。赦せないことがしばしばありますからね。では、聖書が教えている「赦す」とは、どういうことなのでしょうか。

①「赦す」とは、意志を働かせること

 第一に、覚えておいていただきたいことは、「赦し」は感情によって左右されるものではない、ということです。感情的に赦せない人を無理矢理好きになろうとすることではないのです。 赦すためには、意志を働かせることが必要です。赦そうと思えないときにも、意志的に「あの人を赦そう」「あなたを赦します」と決断し、宣言することです。「もはや自分はそのことで心を動かされない、動じない」という決断をすることなのです。
 だから、時には時間がかかりいます。「赦す」と決めても感情がなかなか付いてこない時もあるでしょう。「赦せない」という感情が繰り返し湧き上がってくることもあるでしょう。その時に、繰り返し赦しを宣言していくのです。
 神様も、イザヤ43章25節で「わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と意志的に宣言してくださっています。
 神様と違って私たちは弱いですから、なかなか自分の意志通りにできないのですが、繰り返し赦しを宣言していく時に、次第に感情も付いてくるようになるでしょう。ですから、いろいろな葛藤があってもあきらめずに、赦し続けていきましょう。 そのために必要なのは、まず自分が神様の赦しの恵みの大きさを知り続けていくことですね。赦しに生きるというのは、クリスチャンとしてのライフ・ワークなのですね。

②「赦す」とは、不正を見逃すことではない

 第二に、赦すというのは、何でも安易に容認することではありません。
 イエス様は、このたとえの前に、誰かが罪や過ちを犯した場合には、まず、個人的に戒め、注意し、また事実を確かめながら整理し、きちんと諭していくことが大切であることを教えておられます。なぜなら、それが相手の益になるからです。互いの最善を願いつつ、互いに戒め、諭し、励まし合っていくことは、とても大切なことなのですね。ただし、その時に相手を批判したり、裁いたり、拒絶したりすることがないようにしなさい、つまり、赦しなさい、とイエス様は教えておられるのです。

 さて、今日のたとえ話に教えられているように、私たちは、神様の考えられないほどの大きな恵みによって罪の負債を免除していただいたこと、そして、神様に赦され、愛され、生かされていることを、礼拝を通して、また、日々の生活の中で味わっていきましょう。そして、互いに赦し合う仲間となっていきましょう。
 最後に、コロサイ3章12節ー13節のことばをご一緒に読んで終わりましょう。
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」