城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年十月一一日             関根弘興牧師
                 マタイ二〇章一節~一六節
 イエス様のたとえ話5
   「恵みの報酬」

1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。 2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』 20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』 7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』 8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』 9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。 10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。 11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、 12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』 13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。 14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。 15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』 16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(新改訳聖書)


今日も、イエス様のたとえ話から天の父なる神様がどのようなお方なのかを見ていきましょう。
 たとえ話を理解するためには、知っておくべき大切なことが三つあります。

①たとえ話が語り出されるきっかけとなった出来事は何か

 イエス様は、その時々の人々の状態に合わせてたとえ話をお語りになりました。パリサイ人や律法学者たちの批判に対してたとえ話をなさることもありましたし、弟子たちの質問に答えるためにたとえ話をなさることもありました。ですから、たとえ話が語られたきっかけを知ることによって、イエス様が教えようとしておられることが理解しやすくなるのです。

②たとえ話の舞台となっている当時の状況

 たとえ話では、当時の人々が現実に目にする光景がたとえとして用いられています。当時の習慣や生活様式を知ることによって、たとえ話がよりよく理解出来るようになります。

③たとえ話の中で通常と違う点があるか

 もしたとえ話の中で、通常ではあまり考えられないようなことが語られている場合には、それがたとえの中心点、強調点であることが多いので、そこに注意しながら読んでいきましょう。

 では、この三つの点に注意しながら、今日のたとえ話を学んでいきましょう。

1 このたとえ話が語られるまでの出来事

 まず、イエス様がこのたとえを話されることになった経緯を見ましょう。
 19章16節から書かれていますが、ある金持ちの青年がイエス様のもとにやって来て、こう尋ねました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」すると、イエス様は、「旧約聖書に書かれている神様の戒めを守りなさい」とお答えになりました。すると、この青年は「そのようなことはみな、守っております」と答えたのです。これだけはっきり言い切れるというのは、大変な自信ですね。「自分が天国に行けないなら、一体誰が行けるのだ」というような思いを持っていたのでしょう。
 すると、イエス様は、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われました。すると、この青年は、悲しんで去って行ってしまったというのです。
 でも、皆さん、誤解しないでくださいね。このイエス様の言葉を読んで、「イエス様に従っていくためには、全てを捨てなければいけないのか。私には、とてもできない」と心配する必要はありません。
 この青年は、自分の力で永遠のいのちを得ることが出来ると考えていました。また、自分の持っている財力も永遠のいのちを保証する大切なものと考えていたようです。そこで、イエス様は、「あなたは、自分の力で神様の戒めを守っていると思っているが、本当は違う。貧しい人のために自分の財産を売り払うことさえできないではないか。人は、自分の行いで神様の戒めを本当の意味で守ることはできないのだ。だから、永遠のいのちを得たいなら、自分の力や自分の持っている物に頼らないで、わたしについてきなさい」ということを言われたのです。すると、残念なことに、この青年は去って行ってしまいました。
 この出来事は、人が自分の力で永遠の救いを得ることができると考えている間は、イエス様がどうしても必要だとは思わないので、犠牲を払ってまでイエス様に従おうとはしない、それで、永遠の救いを得ることが出来ないのだ、ということを教えているわけです。
 さて、その光景の一部始終を見ていた弟子のペテロが、まるで弟子たち全員を代表するかのように、こんなことを言い始めました。「イエス様、ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」つまり、ペテロは、「私たちは、他の人たちと違って、全てを捨ててあなたに従ってきたのですから、それにふさわしい報いをいただけるはずですよね」と言ったわけです。
 すると、イエス様は二つのすばらしい報いがあると言われました。
 一つは、19章28節に書いてあります。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
 ここで言われているイスラエルの十二部族というのは、実際の民族としてのイスラエルを指しているのではありません。聖書では、イエス様を信じて神の子とされた人々のことをイスラエルと呼ぶことがあるのです。ここでも、「イスラエル」とは教会全体のことを意味しています。
 では、「あなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二部族をさばく」というのは、イエス様の十二弟子が将来教会をさばく裁判官になるということなのでしょうか。そうではありません。ここで言われている「さばく」とは、事の是非を判断したり、問題の解決を与え、事態を処理する働き全体を指す言葉なんですね。つまり、弟子たちは、将来、教会の土台となる働きをしていくのだ、とイエス様は言われたのです。
 どういうことかと言いますと、十二弟子は、イエス様とともに生活し、イエス様の十字架と復活の目撃証言者でした。そして、弟子たちは、自分たちが見たこと聞いたこと経験したことを新約聖書に記録したのです。今、私たちは、その新約聖書によって、救い主イエス様を信じ、適切な判断や問題の解決を得ることが出来るわけですね。その意味で、弟子たちは、教会の土台となり、教会をさばく役割を果たしているわけです。
もう一つの報いは、19章29節に書かれています。「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」とイエス様は言われました。ここでも誤解しないでください。「イエス様の名のために家や家族や畑を捨てる」というのは、何よりもイエス様に従うことを優先する、自分の持っている物をイエス様に用いていただく、という意味です。そうすれば、永遠のいのちを受けることができる、というのです。
 弟子たちは、この二つのすばらしい報いのことを聞いて、具体的にどういうことかはまだよくわからなかったでしょう。でも、「すごいな」と驚き喜んだことでしょうね。自分たちだけに特別なご褒美がもらえるように思ったかもしれません。
 すると、イエス様は、少し浮かれている弟子たちを戒めるように、19章30節で、当時のことわざを引用して、「ただ、先の者が後になり、後の者が先になることが多いのです」と言われました。そして、今日のたとえを話し始められたのです。

2 ぶどう園で働く労務者を雇う主人

 このたとえ話自体はとてもわかりやすいですね。
 ぶどう園の主人が、朝早く市場に行って、一日一デナリの約束で労務者を雇いました。それから、九時ごろと十二時ごろと三時ごろにも市場に行って「相当のものを上げる」という約束で労務者を雇いました。そして、なんと、夕方の五時ごろにも労務者を雇ったというのです。
 当時、ぶどうの収穫は八月から九月にかけて行いました。九月の下旬から十月にかけては雨期が控えているので、その前に収穫するのです。
 日本のぶどうは棚にぶら下がっていますが、当時のユダヤ地方では、ぶどうをそのまま地面に這わせて栽培していました。ですから、雨が降ったら、ぶどうはすぐに腐ってしまいます。雨期が来る前に大急ぎで収穫しなければなりません。しかも、雨期の前は、焼けるような太陽の下で働かなくてはなりませんでした。棚にぶらさがっているぶどうなら、日陰で仕事ができるでしょうが、地面を這うぶどうを収穫するというのは大変な重労働です。ですから、なるべく朝の早い時間に仕事を始めて、なるべく早く終わらせるために人を雇うのです。
 でも、このたとえ話に登場する主人は、普通ではあり得ないことをしましたね。午前中に人を雇うだけでなく、午後になっても雇い、もう仕事が終わりそうな五時ごろにも雇いに行ったのですから、いったいこの主人は何を考えているのだろうと思いますね。
 皆さん、朝早く仕事をもらえる人というのは、どういう人ですか。普通は、若い人、強い人、元気な人、病気や怪我のない人、長時間炎天下の労働に耐えられる人です。九時はどうですか。その次に強い人ですね。
 では、夕方の五時に雇われるのは、どういう人でしょうか。この人たちは、一日中誰も雇ってくれないのです。雇われないというのは、体力がなさそうに見えたのかもしれません。怪我をしていたのかも知れません。使いものにならないと思われていたのでしょう。彼らは、そのことを自分でもわかっていたのかもしれませんね。でも、お金を持たずに家には帰れません。誰か雇ってくれる人がいないかと、かすかな望みを持ちながら市場に立ち尽くしている人たちです。
 その人たちを雇った主人は、神様がどのような方であるのかを表しています。神様は、夕方の五時に市場にいた、弱い、小さい、まるで役に立たないと判断されているような人に、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と声をかけ、招いていくださる方だというのです。
 また、もし、体力のない人が朝早く雇われて炎天下で一日中働かされたら、途中で倒れてしまうかも知れませんね。神様は、そういうことも配慮して、一人一人に一番ふさわしい時を選んで声をかけてくださる方なのです。

3 賃金を支払う主人

 さて、仕事が終わって、賃金が支払われる時が来ました。一日中炎天下で働いた人たちは、相当疲れていて、すぐにでも賃金をもらって家に帰りたいと思っていたでしょうね。ところが、8節を見ると、主人は監督にこう言ったのですね。「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」
 普通なら、最後に来た人たちは、働いた時間も少ないのですから、一番最後でいいと思いますね。ところが、この主人は、最後に来た者から順番に賃金を渡していったというのです。最後に来た者というのは、ほとんど働かなかった人たちですよ。彼らがぶどう園に着いたときには、もう片づけが始まっているような状態だったでしょう。
 考えてみてください。「賃金を払うから並びなさい」と言われたら、長く働いた順番に並ぶのが普通ですね。朝早くから働いた者たちが、当然のように一番前に並ぶでしょう。そして、一番最後に雇われた者たちは、一番後ろに申し訳なさそうに並ぶのではないかと思います。
 ところが、この主人は最後に来た者たちを先頭に並ばせました。彼らは、おどおどしながら並んだのではないかと思います。
 なぜ、イエス様はこんなたとえ話を話されたのでしょう。それは、私たちの神様がどのような方か、どのような心を持っておられるかを示すためですね。
 この主人は、自信のかけらもない、自分の居場所すら失っているかのような人たちに、最初に並ぶように声をかけました。それと同じことを神様もなさるのです。
 この世の中では、優秀な者、大きな者、強い者、出来る者、力のある者が優先されます。勝ち組と負け組という言葉がありますが、強い者が勝ち、弱い者が置き去りにされてしまう状態ですね。
 しかし、天の御国は、それとは全く違います。神様は、自信を無くし、居場所を無くしているような人たちを真っ先に並ばせ、真っ先に報酬を渡されるというのです。

4 労務者への賃金

 では、その報酬は、どのようなものだったでしょうか。20章9節-10節を読んでみましょう。「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。」
 最後に来た人たちが一デナリもらったのを見て、早く来た人たちは、もっと多くもらえるだろうと期待しました。ところが、働いた時間に関係なく、すべての人に同じ一デナリの報酬が渡されたのです。
 すると、最初に来た人たちが文句を言いました。「私たちは一日中大変な仕事をしたのに、この人たちはほとんど働いていない。それなのに、同じ賃金だなんて、ひどいじゃないか」というわけですね。この不満は当然のように思えますね。これを普通の会社で行ったら、大問題になりますよね。労働争議が起こるのではないでしょうか。
 しかし、主人は「私は、あなたに約束通りの賃金をあげたのだから何も不当なことはしていない」と答えたのです。そして、「私は、皆に同じ賃金をあげたいのだ」と言いました。
 この世の中には、こんな主人はいないでしょう。しかし、神様は、このような方だというのです。神様は、この世の功績や努力や実力に関係なく、すべての人に同じように罪の赦しと永遠のいのちを与えたいと願っておられるのです。私たちが何をどれくらい行ったかに関係なく、神様は一人一人に同じように愛と恵みと祝福を注ぎたいと望んでおられるのです。
 皆さん、ここにすばらしい福音のメッセージがあるのです。私たちは皆、いつかはこの地上の人生を終えます。若い頃クリスチャンになった人もいるし、召される直前にクリスチャンになった人もいます。でも、イエス様を救い主として信じ受け入れたなら、信仰生活の長さに関係なく、奉仕の多さに関係なく、誰にでも同じように永遠のいのちが与えられ、皆、天の御国に迎えられるということが、保証されているのです。
 イエス様が十字架につけられた時、その両側に一人ずつ、二人の犯罪人が十字架につけられていました。片方の犯罪人は、イエス様にこう言いましたね。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」すると、イエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と約束なさったのです。この犯罪人は、自分の犯した罪のために十字架に付けられました。それまで神様のために立派なことなど一つもしてこなかったことでしょう。今日のたとえで言うなら、まるで日没直前に雇われたような人です。しかし、最後の最後にイエス様を救い主として信じ告白することによって、他の人たちと同じ報いを受けることが出来たのです。
 私たちは、イエス様を救い主として信じ受け入れるとき、皆同じように罪の赦しと永遠のいのちという報酬を受けることができます。この地上の功績や行いには関係ありません。教会に通っている年数も関係ありません。使徒パウロもペテロも有名な牧師たちも、皆、天国で同じ報いを受けるのです。そこには何の区別も差別もありません。
 そうすると、ある人は、「私のような者があんな立派な人と同じ報いでは申し訳ないです。何か差を付けてください」と言いたくなるかもしれません。しかし、天のお父様は、「いや、そうではない。あなたが弱く、小さい者であることをわたしは知っている。あなたが五時まで立ち尽くし不安の中にいたこともちゃんと知っている。わたしがあなたにあげたいと思っているのだから、そんな心配をしないで安心して報酬を受け取りなさい」と語りかけてくださるのです。
 また、ある人は、「神様のために熱心にがんばってきた人といい加減な信仰生活を送ってきた人が同じ報酬なんて、不公平ではないか」と思うかもしれません。でも、神様が私たち一人一人に与えてくださっている報酬のすばらしさを考えたら、また、神様のすべての人に対する愛の深さを思い起こしたら、そんな思いは消えていくでしょう。
 これが福音の世界です。先の者が後になり、後の者が先になるという、常識では考えられないような、驚くほどのすばらしい恵みの報酬があるということなのです。
 その天の父なる神様の真実な愛に応えて、私たちも心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神様を礼拝し、喜び、互いに助け励まし合いながら、クリスチャン生活を送っていきましょう。