城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年十月一八日             関根弘興牧師
                 マタイ二二章一節~一四節
 イエス様のたとえ話6
   「祝宴の招待」

1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(新改訳聖書)


今日も、イエス様のたとえ話から天の父なる神様がどのようなお方なのかを見ていきましょう。
 前回もお話しした通り、たとえ話を理解するときに大切なことがいくつかあります。まず第一に、たとえ話が語り出される経緯となった出来事は何かということを探ることです。第二に、たとえには当時の人々が見聞きしている光景が用いられていますから、当時の習慣や生活様式などを知ることです。そして、第三に、通常ではあまり考えられないようなことが語られている場合は、それがたとえの中心点、強調点であることが多いので、そこを注意しながら読んでいくのです。

1 このたとえ話が語られるまでの出来事
 
 では、まず、今日のたとえが話された経緯を見ていきましょう。
 このたとえ話は、イエス様が捕らえられて十字架に付けられる数日前に語られました。当時のユダヤの指導者や宗教家たち、つまり、パリサイ人、律法学者、祭司長たちは、イエス様をどうにかして亡き者にしたいと思っていました。それには、いくつかの理由があります。
 まず、イエス様は、「わたしを父とは一つです」とか「わたしを見たものは、父を見たのです」などと言って、自分が父なる神と同等の存在であると主張なさいました。彼らにとっては、それは神を冒涜する行為にしか思えませんでした。
 また、イエス様は、彼らに向かって、「あなたがたは、表面的には神様を信じて敬虔な生活をしているように見せかけているけれど、心の中は自己中心的で欲望や悪意や高慢に満ちている。あなたがたは偽善者だ」とはっきり指摘なさいました。それで、彼らは怒り狂いました。
 さらに、多く人がイエス様のもとに集まり、イエス様に従って行く姿を見て、彼らはねたみにかられました。また、人々がイエスを王に祭り上げて暴動を起こすのではないかという恐れも持っていました。
 彼らは、旧約聖書の内容を誰よりもよく知っていましたから、本来なら、イエス様が旧約聖書の中で約束されている救い主であることを一番最初に認め、喜び、出迎えてもいいはずでした。ところが、彼らは、まったく正反対の行動を取りました。何とかしてイエス様を捕らえて、この世界から葬り去ろうとしていったのです。
 今日の箇所の前の21章の最初には、イエス様がろばの子に乗って、ご自分が旧約聖書に預言された救い主であることを示しながらエルサレムに入って来られたこと、そして、それを群衆が大喜びで迎えたことが書かれています。宗教家たちは、それを見て腹を立て、イエスのもとに来て「あなたは何の権威によってこれらのことをしているのか」と詰問しました。すると、イエス様は、彼らに対していくつかのたとえ話をなさいました。 今日のたとえ話は、そのうちの一つです。つまり、イエス様を救い主として認めようとしない頑なな指導者や宗教家たちを目の前にして語られたものだということを頭に入れておいてください。

2 王子の結婚披露宴

 さて、今日のたとえは、王子の結婚披露宴の話ですね。三幕構成になっています。

➀第一幕 招待を断る人々

 人生の中でもっとも華やかで祝福に満ちた瞬間は結婚式だと思います。そして、結婚式に招待されるのは、うれしいことですね。もちろん、付き合いで仕方なく出席する場合もあるでしょうが、もしロイヤル・ウエディングに招待されたとしたら、それはとても光栄なことではないでしょうか。通常、ロイヤル・ウエディングに招かれるのは、一部の特別な人たちだけですからね。
 ところが、今日の話では、ロイヤル・ウエディングであるにもかかわらず、招待しておいた客がだれひとり来たがらなかったというのです。「来たがらなかった」とは、来ることを願わなかったということで、招きを拒否する頑なな姿を表しています。
 王は、それでも忍耐強く別のしもべたちを遣わし、「宴会のための料理もすべて準備が整ったので、どうぞ宴会にお出かけください」と招きました。しかし、招待された人々は、まったく行こうとしませんでした。王の招待を気にもかけず、畑仕事や商売に出かけてしまったというのです。通常なら考えられないことですね。しかも、それだけではありません。王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまった者たちさえいたというのです。王子の結婚披露宴を祝おうとしないどころか、王にも王子にも敵対していたというわけです。それは宣戦布告に匹敵する行為でした。
 すると、王は、そんな彼らの態度に応えるように、兵隊を出し、彼らを滅ぼしてしまった、というのです。これが第一幕です。
先ほどご説明しましたように、このたとえ話が語られている時、そこには、イエス様に敵対し、イエス様を神のひとり子として受け入れようとしないユダヤの指導者たち、宗教家たちがいました。彼らは、旧約聖書のことを最もよく知っている人たちでした。そして、先祖の歴史を通して、神様がどのような方であるか、また、神様がどのような約束をしてくださっているかを知ることが出来たはずでした。しかし、その神様が聖書に書かれている約束の通りに遣わしてくださった救い主イエス様が来られたにもかかわらず、彼らはイエス様を歓迎しようとも祝おうともしませんでした。それどころか、殺そうとしているわけですね。
 イエス様は、そのような当時のユダヤの指導者たちや宗教家たち対して、「あなたがたは、せっかく王子の結婚披露宴に招待されたのに断ったり敵対した人々と同じことをしているのだ」と鋭く指摘なさっているわけです。

②第二幕 招待された人々

 次に、第二幕です。最初に招待された人たちが来なかったので、王様はどうしたでしょう。8節-9節を見ると、王はしもべたちにこう言いました。「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」
 王子の結婚披露宴に誰でもかまわないから招きなさいというのですね。これも通常では考えられないことです。
 大通りにいる人たちは、自分が王子の結婚披露宴に招かれるなどとは考えてもいなかったでしょう。買い物のためにそこにいる人もいたでしょうし、散歩している人もいたでしょう。誰かと待ち合わせのためにそこにいたかもしれません。王子の結婚披露宴があることは知っていても、自分とはまったく関係ないと思っていたでしょう。そこに王のしもべがやってきて、道行くすべての人を披露宴に招待し始めたのです。
 こんなことは普通は考えられないことです。道を歩いていて、いきなり「あなたをロイヤル・ウエディングに招待しますよ」と言われたら、これは怪しい、詐欺ではないか、そんな話があるはずがない、と誰もが疑うのではないでしょうか。
 それに、もしあなたが王なら、こんなことをしますか。私なら自分のプライドが許しません。王としての面子がありますね。王子の結婚披露宴なのですから、普通なら、地位の高い人、功績のある人、有名な人たちを招きますね。通りで出会った者を招いたら、貧しい人、病気の人、何か悪いことをした人など、王の招待客としてふさわしくないと思われる人がたくさんいるでしょう。
 しかし、王は、だれもかれも出会ったすべての人、良い人も悪い人も招いたのです。そして、宴会場はいっぱいになったのですね。もちろん料理の質を落とすことなどしません。最高級のもてなしをするのです。隣の人と料理に差があるなどということもありません。王様だからこそできるもてなしなわけです。通常では考えられないことですね。
 実は、このたとえ話の強調点はここにあるのです。それは、天の父なる神様の招きはすべての人に分け隔てなく差し出されている招きだということです。
 当時のユダヤの指導者たちは、自分たちこそ特別に選ばれた民で、自分たちこそ神様が招いてくださっているのだと考えていました。そして、異邦人や罪人が神様に招かれるはずはない、と思っていたのです。
 しかし、イエス様は、「そうではない。神様は、すべての人を招いてくださる。そして、その招きに応じた人は皆、神の家で食卓に着くことができる。すべての人が救いに招かれる時が来たのだ」と話されたのです。
 この招きは、すべての人に対しての招きです。例外はありません。すべての人は招かれているのです。今日ここにいる私たち一人一人も神様が招いてくださったのです。

③第三幕 礼服を着ていない人

 さて、宴会場は客でいっぱいになりました。それは楽しい宴となったことでしょう。
 ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない者がひとりいました。すると、王は、その人を縛って外の暗やみに放り出すよう、しもべたちに命じたというのですね。
 ある方がこの箇所を読んで、「先生、出会った人を手当たり次第に招いておいて、礼服を着ていないというだけで外に放り出してしまうなんてひどいじゃないですか」とおっしゃいました。でも、実は、そうではないんです。
 考えてみてください。大通りにいた人たちが連れて来られたわけですから、皆、礼服は着ていなかったはずですね。皆さんもスーパーに買い物に行くとき、礼服を着てはいかないでしょう。自分は王子の結婚披露宴とは無関係だと思っていた人ばかりですから、礼服は誰も持っていなかったはずですね。それなのに、礼服を着ていなかったのは一人だけで、他の人は皆、礼服を着ていました。なぜでしょうか。
 当時、通常は、婚礼の場には、ちゃんと礼服が用意されていました。まして、王子の婚礼となれば、しかも、出会った人すべてを招くというのですから、事前にちゃんとその人たちのための礼服が用意されていたということなのです。ですから、招かれた人たちは皆、会場に行ってから用意されていた礼服に着替えて席に着いていたわけです。
 しかし、一人だけ礼服を着ない人がいたのです。それは、礼服のサイズが合わなくて着れなかったというようなことではなく、礼服を着る意志がなく、着ようとしなかったということです。
 12節で、王が礼服を着ていない人に「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と尋ねると、彼は黙っていた、と書かれていますね。礼服を着ない理由を自分で説明しようとしなかったのです。なぜでしょうか。初めから祝うつもりがなかったからです。披露宴を冷やかすか侮辱をするためにだけに来たかのような態度だったのです。すると、王は、彼を暗やみに放り出してしまったというのですね。
 礼服を着るということには、どういう意味があるのでしょうか。当時、王に謁見するときには、王から与えられる晴着を身につけました。普段着で王の前に出ることなど決してありえませんでした。それは王の栄光を傷つけることになるからです。ですから、王子の披露宴に礼服を着ないで出ることは、王の栄光を傷つける行為、王に対する背信行為だったのです。それは、当時の常識でした。
 ここに、イエス様が今日のたとえの中で教えておられるもう一つの大切なことが示されています。何かというと、神様は、私たち一人一人を祝宴に招いてくださるだけでなく、神様の前に出るにふさわしい礼服も備えてくださっているということです。
 私たちは、そのままでは誰も神様の前に出ることができない者です。神様の招待に応じて神様の御前に出るためには、礼服を身につけなければなりません。その礼服を神様が用意してくださったのです。
 ローマ3章23節ー24節には、こう書かれています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
 また、ガラテヤ3章27節には、「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」と記されています。
 つまり、神様は、私たちのために、キリストご自身を礼服として与えてくださったというのです。
 聖書は、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けることによって、イエス・キリストを身につけて生きる者とされる、と教えています。洗礼は、「キリストとともに十字架で死に、キリストとともに復活して新しく生きる者とされた」ということを表わすものです。そして、キリストを着るとは、罪や汚れをキリストの愛と義によって覆っていただくということです。キリストという礼服を着ることによって、私たちは罪を覆われ、聖なる者と認められ、神様の前に自信をもって出ることができるようになったのです。
 本来は、招かれるはずのないような私たちが招かれ、外に追い出されても文句を言えないような私たちがキリストご自身を身につけて神様とともに生きる者とされるのです。
 神様は、一人一人のためにその衣を用意してくださっています。どうして、それを拒否する必要があるでしょう。用意された救いの衣を喜んで身につければいいではありませんか。それによって、私たちは、いつでもどこでも自由に神様の御前に出ることが出来るのですから。あなたはこの衣を身につけていますか?

3 「選ばれる者は少ない」とは

 さて、イエス様は今日のたとえ話の最後に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。
 このたとえ話の前半に登場する人たちは、招かれても誰も来なかったのですから、「選ばれる者は少ない」というのはわかりますね。しかし、後半に登場する人たちは、大勢招待された中でたった一人だけが礼服を着ていなかっただけですね。ですから、「選ばれる者は多い」と言ってもいいのではないかと思うのですが、イエス様は、「選ばれる者は少ない」と言われたのです。なぜでしょうか。
 一つには、「この礼服を着なかった人のようにならないように」という戒めの意味で言われたのかもしれません。
 しかし、私は、このイエス様の言葉に神様の心があるように思います。それは、約束された救いの衣を受け取らない人が一人でもいる限り、神様の目には「選ばれた者は少ない」と映っているということです。
 第一テモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書かれています。また、エゼキエル33章11節で、神様はこう言っておられます。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」悪者でさえ、失われることを願わない。と神様はお語りになるのです。
 神様は、一人でも失われることを望んでおられないのです。一人でも失われたら、それは、神様にとって大きな悲しみなのです。
 神様は、私たちが招きに応え、神様の御前で救いを喜び、神様の豊かな恵みの中に歩んでいくことを願っておられます。私たちは、その愛に満ちた神様に招かれ、キリストを着せていただいた者として、神様の祝福を味わっていきましょう。