城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年一一月一日             関根弘興牧師
                マタイ二五章一四節~三〇節
 イエス様のたとえ話7
   「タラントを生かそう」

14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(新改訳聖書)

 今日もイエス様がお話になったたとえ話を読んでいきましょう。
 今日のたとえ話は、イエス様が捕らえられて十字架につけられる二日前に話されたものですが、どのような経緯で話されたのでしょうか。この話の前にどんなことがあったのでしょうか。 まず、23章で、イエス様は、ユダヤの宗教指導者たちに対して、厳しい指摘をなさいました。23章13節でこう言っておられます。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」また、23章25節では、こう指摘されました。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。」「外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」こう言われた宗教指導者たちは怒り狂ったでしょうが、周りにいた人たちの中には「よく言ってくれた。スッキリした!」という人もいたでしょうね。
 それから、その次の24章では、イエス様は、弟子たちの質問に答える形で、この世界はいつか終わりが来ること、また、世の終わりにはどのような前兆があるのか、ということをお話になりました。そして、この世界の終わりに「わたしは再び来る」とお語りになったのです。どういうことでしょうか。
 これから、イエス様は、人々の身代わりに罪の罰を受けるために十字架につけられ、死んで葬られることになっていました。しかし、イエス様は、ご自分が死の力を打ち破って三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座に着き、ご自分の代わりに聖霊を送るということも予告なさいました。そして、実際にその通りのことが起こりました。今、私たちがイエス様を救い主として信じ受け入れる時に、聖霊が私たちの内に来て宿ってくださいます。ですから、今、私たちは、天の父なる神様、天におられるイエス様、そして、内に宿ってくださっている聖霊という三位一体の神様と共に歩むことができるのですね。
 しかし、今、私たちの生きているこの世界には終わりがあり、その終わりの時には、天におられるイエス様が再び来られるというのです。これを「再臨」と言います。その世の終わりと再臨に、私たちはどのような備えをすべきなのでしょうか。そのことを教えるために、イエス様は25章でいくつかのたとえ話をなさっています。今日のたとえ話もその一つです。
 私たちには、三つの終末があります。一つは、個人的な終末です。私たちは、それぞれに寿命があって、必ずいつかは人生の終わりを迎えますね。二つ目は、自分と関わりのある人たちの終末です。家族や友人やいろいろな関わりのある人たちも、いつかは人生の終りを迎えますね。そして、三つ目は、この世界の終末です。世界の終末のときには、生きている人も死んでいる人も皆、神様の前に立って最終的な判決を受けることになると書かれています。ですから、私たちは皆、三つの終末を経験することになるのです。そして、それぞれの終末がいつ来るのかを私たちは予測することができませんね。
 でも、恐れることはありません。イエス様は、24章35節でこう言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」天地が滅び去っても、決して滅びることがない神様のことばに信頼していれば大丈夫だというのです。つまり、聖書に書かれている神様のことばに信頼すること、それが終末の時代を生きていくための基本なのです。まず、そのことを覚えておいてくださいね。その上で、今日のたとえ話を学んでいきましょう。

1 預けられたタラント

 日本では、テレビやラジオに出ている人を「タレント」と呼びますね。この言葉は、今日の話に登場するお金の単位「タラント」から出てきた言葉です。「タラント」は、本来は貨幣の単位ですが、次第に「才能」とか「技量」を意味する言葉となってきました。ですから、才能や能力のある人を「すばらしいタレントを持った人」と言うこともありますね。
 さて、今日の話は、主人が、しもべたちにそれぞれの能力に応じて五タラント、二タラント、一タラントを預けて旅にでかけたという話です。かなり長い旅だったようですね。
 よほどたったとき主人が帰って来て、しもべたちと清算をしました。五タラントと二タラントを預かったしもべたちは、それで商売をして倍に増やしていました。すると、主人は、「良くやった。良い忠実なしもべだ」と言ってほめました。しかし、一タラント預かったしもべは、それを地面に埋めてそのままにしていました。すると、主人は「悪いなまけ者のしもべだ」と厳しく叱責し、その一タラントを取り上げて、五タラントを二倍に増やしたしもべに与えてしまったというのです。
 しかも、このたとえ話の最後には、イエス様ご自身の厳しい言葉が付け加えられていますね。「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
 このたとえ話に登場する「主人」とは、イエス様ご自身のことですね。そして、タラントを預けられたしもべたちとは、イエス様が天に昇られてから再臨なさるまでの今の時代を生きる私たちのことです。
 しかし、これを読むと、「イエス様は、こんなに厳しい主人なのか」と勘違いする方もいるでしょう。また、「商売で儲けないと叱責されるどころか外の暗やみに追い出されてしまうのか」と恐ろしく感じる人もいるでしょうね。でも、それは誤解です。このたとえは、「お金を倍に増やさない者は失格だ」という話ではありませんし、「商売の上手い下手で、主人からの評価が決まる」という話でもありません。
 では、このたとえ話は何を教えているのでしょうか。このたとえ話の中心は何でしょうか。それは、「私たちが終末に備えるためには、主人から預かっているものをどのように生かしていくかということが大切なのですよ」ということです。
私たちは、神様からたくさんのものを預かっています。一人一人がそれぞれ違う性格や能力を持っていますし、経験してきたことや境遇もみな違いますね。そうした神様から預かったいろいろなものを、このたとえでは、タラントという金額にたとえているのです。
 主人はしもべたちに最も少ない金額でも一タラントを預けたと書いてありますね。一タラントというのは、六千日分、つまり十六年分の給料に相当する金額です。大きな額です。つまり、神様が私たちに預けてくださるものは、どの人であっても決して少なすぎることはない、ということなんですね。
 私たちは、時々、自分一人ぐらいいなくても大したことではないとか、自分はあの人ように素晴らしいことができないから必要ないとか、私には能力も才能もないとか、すぐに自己卑下してしまう傾向がありますね。しかし、実は、そうではないのです。
 旧約聖書の出エジプト記を見ると、神様がモーセに「エジプトで奴隷生活に苦しんでいるイスラエルの民を脱出させなさい」とお命じになった時、八十才になっていたモーセは尻込みしました。すると、神様は「あなたの手にあるそれは何か」と言われました。モーセは「杖です」と答えました。その杖は、魔法の杖ではありません。羊飼いが使う値打ちなどほとんどない杖にすぎません。しかし、神様はその杖を用いて、モーセに神様の不思議なわざを行わせたのです。モーセは、また、「私は口下手ですから、無理です」と尻込みしましたが、神様は「あなたにその口を与えたのはわたしだ」と言われました。神様は、「あなたの手にある杖で十分だし、あなたの口で十分だ。それを用いなさい。わたしがあなたにそれらを託したのだから」と言われたのです。モーセには無価値なものに思えたかもしれませんが、神様の目には大きな価値のあるものだったのですね。
 私たちも、自分が何も持っていないように思えるかも知れませんが、実は、神様は、一人一人に人と比べることのできない大切なタラントを預けてくださっているのです。そのことを大前提として、このたとえは語られているのですね。

2 良い忠実なしもべ 

 さて、五タラントと二タラントを預けられたしもべたちは、それぞれ倍に増やしました。すると、主人はとても喜びました。しかし、それは、しもべたちが大金を儲けたからではありません。儲けた額の大きさに比例してほめめているわけでもありません。片方は五タラント儲け、片方は二タラント儲けましたが、どちらにも全く同じ言葉をかけています。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と。この主人は、しもべの功績を喜んだのではなく、しもべの忠実さをほめているのです。「忠実さ」とは、主人から預かったものを主人の喜びのために用いようとする態度です。主人の喜びを自分の喜びとする心です。
 ですから、もし彼らが商売に失敗したとしても、この主人は責めたりしなかったでしょう。「私のためによくやってくれた。辛い思いをして、大変だったな」と慰めてくれる主人なのです。この主人は、しもべの心を見ているからです。ここが、この地上の経営者と天の御国の主人の違うところです。そして、ここがこのたとえの強調点なのです。
 天の神様の関心事は、私たちがどれだけ成果を上げたかとか、何ができたか、ということではありません。私たち一人一人が神様を愛し、神様から預けられたものを生かしながら生きていくことが、神様の喜びなのです。
 使徒の働き9章にドルカスという婦人の話が出ています。彼女は特別な能力があるわけではなく、華々しい活躍をしたわけでもありませんが、皆に愛されていました。彼女が亡くなった時、多くのやもめたちが泣きながら彼女が作ってくれた下着や上着の数々を持ってきて見せたと書かれています。ドルカスは裁縫が得意だったのでしょうね。ごく地味な婦人だったのでしょうが、神様に預けられた能力を使って、神様の愛を実践していました。その忠実な姿が聖書に記されているのです。
 繰り返しますが、「忠実さ」とは、仕事量ではなく、その人がどう生きていくかというあり方の問題なのです。
 以前にもご紹介しましたが、栃木県今市市(現在は日光市)の奥深い村に高村みつさんという方がいました。高村さんは、筋肉が骨のように固くなって体が動かなくなってしまう難病にかかっていました。私が高村さんに初めてお目にかかったのは、小学校4年生の頃です。病床にある高村さんの姿にショックを受けてしまいました。高村さんは十歳の時に発病してから五十二歳までの四十二年間寝たきりの生活を送っていたのです。
 すべての希望を失ったまま多感な少女時代を過ごしていた高村さんのもとに、親戚の同じ年の子が友人を連れて来ました。その人がクリスチャンだったので、高村さんをなぐさめてくれるだろうと思ったのです。その友人は、イエス様がいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださったことを一所懸命語ったそうです。そして、ついに高村さんはイエス様を救い主として受け入れ、クリスチャンになりました。
 しかし、寝たきりで、教会に通うことができないので、高村さんの自宅で家庭集会が始まりました。高村さんは、一度も教会に来たことがありませんが、教会の多くの人を励ます存在となっていきました。私たちが家庭集会に行くと、枕元に聖歌と聖書を用意して待っていてくれました。そして、帰る時には、高村さんが自分で縫った数枚のぞうきんをいつも私に持たせてくれました。高村さんの手はほとんど動きませんでしたから、一枚縫うのにどれだけ時間がかかったかわかりません。しかし、イエス様のお役に立ちたいと言って、一生懸命縫ってくれたのです。私の母がそのぞうきんを見て「もったいなくて使えない」と言っていたのを今でもよく覚えています。
 高村さんは、五十二歳で天に召されました。その村で初めてのキリスト教の葬儀が行われました。村の人たちは、「みつさんは、あんなにひどい病なのに、どうしていつも笑顔でいられるのだろう」と不思議に思っていたそうです。本人は、どれほどの涙を流したかわかりません。大変な苦労もされたと思います。しかし、神様の恵みを賛美する証人として地上の生涯を生き抜いたのですね。主の前に忠実に生きた方だと思います。何かが出来る出来ないではなく、存在そのものにどれほど大きな価値があるかを身をもって教えてくれた人でした。
私たちの存在そのものが神様に与えられたタラントです。そのタラントを忠実に生かしていけばいいのです。立派なことをする必要はありません。失敗したり失望したり涙を流すこともあるかも知れませんが、与えられた人生を主を愛する心を持って生きていくときに、神様は「良い忠実なしもべだ」と喜んでくださるのです。
  
3 叱責されたしもべ

 では、叱責されたしもべは、どうだったでしょう。彼は、なぜ叱責されたのでしょうか。彼は、一タラントを預かったのに、それを生かそうとも用いようともしませんでした。地の中に埋めて隠しておいたのです。そして、こう言いました。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」
このしもべは、主人が横暴でひどい人だと分かっていたと言っていますね。「もし失敗して少しでもお金を減らしたら、どんなむごい仕打ちをうけるかわからない」と恐れていたというのです。そのため、せっかくのタラントを地の中に隠しておくだけでした。つまり、このしもべは、主人の性質を全く誤解していたのです。他の二人と違って、主人を喜ばせたいという気持ちもまったくありませんでした。どうせ儲けても俺のものになるわけじゃないし、しかも、俺には一タラントしか預けないなんて、俺をないがしろにしているのか、というような心を持っていたのではないでしょうか。
 実は、この姿は、暗に当時のユダヤの宗教指導者たちの姿を示しているのです。彼らは、「神様は厳しく恐い方で、戒めを守れなければ神様の怒りにあうぞ」と教えていました。しかも、表面では神様を敬っているように見せかけていましたが、心から神様を愛し信頼して生きようとはしていませんでした。そして、せっかく神様から預けられたものを神様の喜びのために使おうとせず、ただ自分が神様の罰を受けないように、律法を一つでも破ることがないように、ということばかりに気を取られて、自分のためにだけに生きていたのです。その姿をイエス様はこのたとえ話を通して戒めておられるのですね。
でも、皆さん、この姿は、私たちの姿と重なることはありませんか。神様に文句ばかりで、「神様はひどい方だ」「ちっとも私に良いことをしてくれない」「蒔かないところから刈り取れと言わんばかりの酷い要求をする神様だ」「神様は、これっぽっちしか預けてくれなかった。これではどうしようもない」、こんな風に言っているような姿があるように思いますね。
 でも、神様は本当に蒔かないところから刈り取るようなひどい方でしょうか。違いますよ。
ヨハネ3章16節には、こう書かれています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」また、ローマ8章32節には、こうあります。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
 神様は、ご自分のひとり子なるイエス様さえ、私たちのために惜しまずに与えてくださる方です。愛と恵みとあわれみに満ちた方、私たちの必要をすべて豊かに満たそうとしてくださる方です。
 イエス様は、十字架につけられる二日前に今日のたとえをお話しになりました。「あなたは、神様が蒔かない所から刈り取りを命じるようなひどい方だと本気で思っているのか。わたしは、あなたのためにいのちを捨てるために来たのだ」というイエス様の強いメッセージがここに込められているように思います。このたとえを通して、イエス様は、「わたしの父は、少しも計算高くもないし、少しも酷でもない。惜しみなく与える愛を注ぐ方なのだ。こんな方が他にいるか。その父の心を知ったなら、あなたは、父を喜ばせるために、わずかなものであっても忠実に生きるに違いない」と語っておられるようです。
皆さん一人一人に神様からタラントが預けられています。そのことをぜひ知ってください。存在そのものが主から預けられたタラントです。また、健康状態も年齢も性別も趣味も特技もそれぞれにふさわしいものが与えられています。そのタラントを用いて神様の栄光のために生きることができることを感謝し、賛美しつつこの生涯を歩んでいきましょう。
 最後に第一ペテロ4章7節の言葉をご一緒に読んで、お祈りいたします。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」