城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年一一月一五日           関根弘興牧師
                 ルカ一〇章二五節~三七節
 イエス様のたとえ話8
   「あなたはどう読むのか」

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(新改訳聖書)

 
 今日は、大変有名な「良きサマリヤ人」のたとえです。

1 このたとえの語られた経緯

 最初に、このたとえ話が語られた経緯を見ていきましょう。 25節で、「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った」と書かれていますね。「律法」とは、聖書に書かれている神様の戒めのことですから、「律法の専門家」とは、聖書のことを一番よく知っている人だということです。聖書の専門家です。そんな専門家がイエス様に、「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と質問したのです。
 しかし、この人は、真剣に永遠のいのちを求めて質問したわけではありませんでした。「イエスをためそうとして」、つまり、イエス様のあら探しをしよう、イエス様の言葉尻をとらえて批判しようという意図を持って質問したわけです。
 それに対して、イエス様は、逆に質問なさいました。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と。
 すると、彼は、すぐに答えました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」さすがに律法の専門家ですね。「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」、それこそ律法全体の基本的な精神です。ですから、この人は、完璧な模範解答をしたわけです。ですから、イエス様も「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われたのですね。
 さて、旧約聖書のレビ記18章5節には、「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる」と書かれています。つまり、「神を愛し、また、隣人を自分自身のように愛せよ」という神様の戒めを守り行えば、永遠のいのちを得ることができる、と書かれているのですね。
 この律法の専門家は、そのレビ記の言葉もよく知っていました。そして、自分は神様の戒めをきちんと守り実行しているから、きっと永遠のいのちを得ることができると自負していたのです。
 それでは、なぜ、イエス様に「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と質問したのでしょうか。「自分は永遠のいのちを受けることができる」という自信があったからです。
 イエス様は、そんな心を持っているこの律法の専門家に対して、「そのとおりです。その神様の戒めを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました。それは、「もしあなたが自分の行いによって永遠のいのちを得ることができると思っているなら、この神様の戒めを本当の意味で実行しようとしてみなさい」という意味です。裏を返せば、「あなたは、自分では神様の戒めを守っていると思っているが、実は、そうではない」、「あなたは、神を愛し、隣人を愛することが律法の精神だと知ってはいるけれど、実際には、それを実行できていない」ということを言われたわけですね。
 実は、聖書には、人は神様の戒めを守ろうとしても守ることのできない弱く罪ある存在だということが書かれています。神様の戒めを自分の力で完璧に守ることのできる人など一人もいない、どんなに努力しても自分で自分を救うことなどできないのだと教えているのです。そして、だからこそ、救い主が必要であり、救い主を信じ受け入れることによって罪赦され、神様の前で義と認められて、永遠のいのちを得ることができると教えているのです。
 ところが、この律法の専門家は、聖書をよく知っているはずなのに、「自分は自分の力で神様の戒めを守っている。だから、永遠のいのちを得ることができる」と思っていました。ですから、救い主が必要だとは思わず、イエス様がまことの救い主であることを認めようとしませんでした。この人は、聖書を読んではいましたが、本当の意味を理解せず、自分勝手な読み方をしていたわけです。
 そんな彼は、イエス様に「神様の戒めを実行しなさい」と言われて、むっとしたのではないでしょうか。イエス様に言われなくても自分はすでにきちんと実行していると思っていましたから、自分の正しさを何とかして示そうとしたのでしょう。こんどは、聖書のことばの解釈について、イエス様に質問しました。「私の隣人とは、だれのことですか」という質問です。つまり、「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という聖書の言葉を、あなたはどう解釈しているんですか」と質問したのですね。
 すると、イエス様は、サマリヤ人のたとえを話し始められたわけです。
 さて、この律法の専門家もイエス様も、「神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ」という戒めが律法の中心であることは認めていました。しかし、「隣人」とは誰かということについて、両者の解釈には大きな隔たりがあることがわかってきます。律法の専門家は、「隣人」とは、同胞のユダヤ人のことだと考えていました。「愛するのは神の民とされているユダヤ人だけでいいのだ。神様を知らない神に逆らう異邦人たちは愛する対象ではない」というのです。
 それに対してイエス様は、今日のたとえ話をお語りになりました。その内容を見ていきましょう。

2 たとえ話の内容

①祭司とレビ人

 ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われ、半殺しにされて倒れていました。エルサレムからエリコへの道は、当時、よく山賊や強盗が出没したそうです。
 もし、皆さんが、道ばたに血だらけで倒れている人を見つけたら、どうしますか。たぶん、すぐに警察に連絡したり救急車を呼ぶでしょうね。黙ってそのまま通り過ぎてしまうことはないでしょう。「助けなければ」と思うはずです。
 ところが、たとえ話の中の祭司とレビ人は、倒れている人を見ても、近寄ろうともせず、反対側を通り過ぎていってしまいました。
 祭司というのは、神殿の様々な儀式を執り行う人です。ユダヤの社会では地位の高い人でした。また、レビ人も神殿に仕える人です。どちらも神様の律法に従って生活し、神様にいちばん近いと思われていた人でした。ところが、苦しんでいる人に対して何もしようとしないどころか、見捨てて立ち去ってしまったのです。
 皆さんは、どう思いますか。祭司もレビ人もずいぶん冷たいと思うのではないでしょうか。瀕死の重体で倒れている人を見たら、助けたいと思うのが普通ですよね。
 もちろん、実際は、祭司もレビ人も助けたいという思いはあったはずです。しかし、あえて反対側を通って通り過ぎていってしまいました。それにはユダヤ社会特有の理由があったのです。
 旧約聖書の律法では、死体に触れると宗教的に汚れた者となるので、しばらくの間、神殿での奉仕はできないことになっていました。たとえ話に登場する祭司とレビ人は、瀕死の状態で倒れている人を見て、「もし助けようとしている最中にこの人が死んでしまったら、身が汚れて神殿の奉仕ができなくなってしまう」と思ったのでしょう。特に祭司は死体に触れないように教えられていましたから、あえて身を汚すようなことはできないと思って、通り過ぎていってしまったのでしょう。
 彼らは、神様に仕える仕事をすることに熱心でした。神殿でいけにえをささげ、祈り、聖書を教え、身を汚さないように細心の注意を払って生活していました。けれども、実際には、神様が一番願っておられること、隣人を愛することを実践することが抜けて落ちてしまっていたのです。
 このように表面的には律法の戒めをきちんと守っているけれど、本当に神様が望まれる愛を実践することのできない人々に対して、神様は、「わたしが、求めているのは、表面的にいけにえをささげたり礼拝することではない。あなた方が心から神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することを求めているのだ」と繰り返し語りかけておられます。
 イエス様も、マルコ12章33節で「神を愛し、人を愛することは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれている」と言っておられます。
 イエス様は、このたとえ話で祭司とレビ人の姿を語りながら、目の前にいる律法の専門家に対して、「あなたも律法をよく知っているが、その律法を与えた神様の本当の心を理解していない。あなたの聖書の読み方は、間違っている」と語りかけておられるのです。神様の心を忘れてただ律法の字面だけを守ろうとする生き方には救いは訪れない、ということを示しているのです。

②サマリヤ人

 さて、次にサマリヤ人が通りかかりました。彼は、倒れている人を見てかわいそうに思い、近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱しました。しかも、その人が回復するまでの宿賃も支払ってあげたのです。
 ここを読むと、私たちは、なんて立派なサマリヤ人だろうというくらいにしか思いませんね。しかし、イエス様がここでサマリヤ人を登場させたのには、特別な意味があります。
 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の中でした。その原因は、イスラエルの歴史の中にあります。イスラエルの国は、ダビデ王によって統一され、次のソロモン王の時代に大きく繁栄しました。しかし、ソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国は、アッシリヤ帝国に滅ぼされてしまいました。アッシリヤ帝国は、北イスラエル王国のあったサマリヤ地方に他の民族を移住させ、混血政策を行いました。その結果、サマリヤ地方にいたイスラエル人は民族としての純血性を失ってしまったのです。
 そのため、純血を守った南ユダ地方のユダヤ人たちは、サマリヤ人たちを正当なイスラエルの子孫と認めず、外国人と見なして軽蔑していました。それに対して、サマリヤ人も反発しました。互いに隣人になどなりえないと考えていたのです。
 しかし、イエス様は、今日のたとえ話の中で、サマリヤ人が敵対関係にあるユダヤ人を介抱するという話をなさいました。そして、「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」とおたずねになりました。すると、律法の専門家は、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。「サマリヤ人」という言葉を口にするのも嫌だったのでしょうね。
 一体、このサマリヤ人の姿は、何を表しているのでしょうか。 実は、このサマリヤ人は、イエス様ご自身を表しているのです。イエス様は、当時のユダヤ人たちから、軽蔑を込めて「サマリヤ人」と呼ばれていました。たとえば、ヨハネ8章48節では、ユダヤ人たちがイエス様に向かって、「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と言っています。
 しかし、サマリヤ人として軽蔑されていたイエス様こそ、「あなたの隣人を愛せよ」という神様の戒めを身をもって実践された方なのです。
 瀕死の重傷を負って道端に倒れている人は、私たち一人一人の姿を表しています。傷だらけで、自分では何もできず、苦しみの中で死を待つしかありませんでした。しかし、そのような私たちを見て、イエス様は、「かわいそうに思い」、ご自分のほうから近づいてきてくださいました。何とかして助けてあげたいという愛を示してくださったのです。
 救いとは、差し出された手です。溺れている人に、自分で自分の手を思い切り引っ張り上げなさいと言っても、沈んでしまいますね。誰かが上から手を差し伸ばして引き上げてくれなければ、助かりません。聖書が教える救いとは、そのようなものです。私たちが自分ではどうすることも出来ない罪と死の問題を救い主イエス様が解決してくださるのです。
 律法の専門家は、「私の隣人とは、だれのことですか」と質問しましたが、それに対して、イエス様は、このたとえ話の最後に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と言われました。「隣人とはだれのことか」と考えるのではなく、「隣人になる」ことが大切だということなのですね。
 私たちは誰とも関わらなければ、誰の隣人になることもありませんね。でも、イエス様の愛は、民族の垣根を越え、言葉の壁を越え、国の壁を越えて、あらゆる人々に向かって広がっていくものなのです。そして、その愛は、私たちのもとにも届いています。イエス様は私たちがまだ神様を知らず神様に敵対していた時にさえ、ご自分の方から近づいてきてくださり、豊かな愛を示してくださり、まことの隣人となってくださったお方なのです。
 
3 あなたはどう読むのか

 さて、イエス様は、律法の専門家に「あなたはどう読んでいますか」と質問なさいましたね。私たちには、聖書が与えられています。大切なのは、その聖書をどう読むのか、ということなのです。
 旧約聖書は、人は、自分の力で神様の律法の基準に到達することは決してできない、だから、皆、救い主を必要としていること、そして、神様がその救い主を与えてくださることを教えています。そして、新約聖書は、その救い主が私たちのもとに来て、私たちを愛し、いやし、救い、いのちを与えてくださったことを教えているのです。
 パウロは、ガラテヤ3章24節でこう書いています。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」つまり、旧約聖書の律法は、私たちをキリストへ導く養育係だというわけですね。ですから、私たちは、旧約聖書を読んでいくとき、キリストに導かれるような読み方をしていくことが大切なのです。
 イエス・キリスト抜きに、自分の力で律法を守ろう、自分の力で救いを得ようとする読み方では、律法の専門家と同様、神様の心を理解することができません。
 聖書は、私たちがイエス様を救い主として信じ受け入れるとき、聖霊が私たちの内に宿ってくださり、聖書が理解できるように助けてくださると約束しています。イエス様の光の中で聖書を読んでいきましょう。

4 あなたも行って同じようにしなさい

 それから、今日の箇所の最後に、イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。
 それは、たとえの中のサマリヤ人の姿を通して示されたイエス様の姿を模範として歩んで行きなさい、ということです。そのためには、まず、イエス様に愛されていることを十分に味わいましょう。
 ヨハネ13章15節でイエス様はこう言われました。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」また、第一ヨハネ4章11節で、ヨハネはこう書いています。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
 もちろん、すぐに私たちはイエス様のように愛せるようになるわけではありません。でも、私たちは、イエス様の愛の中で成長させられ、次第にイエス様に似た者に変えられていく、と聖書が約束しています。神様が成長させてくださり、少しずつ愛することができる者に変えていってくださることを信頼し、期待していきましょう。すべての人を愛そう、などと大げさに構える必要はありません。聖書の中に示されているイエス様の姿を模範として、イエス様から学び、イエス様がいつも私の傍らにいてくださることを覚え、愛に生きる者とされていきましょう。