城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一五年一一月二二日           関根弘興牧師
                 ルカ一五章一節~一〇節
 イエス様のたとえ話9
   「捜し出す主」

1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。 9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(新改訳聖書)


 ルカの福音書15章には、有名な三つのたとえ話が出てきます。「いなくなった一匹の羊のたとえ」と「なくした一枚の銀貨のたとえ」と「放蕩息子のたとえ」です。今週は、まず「羊」と「銀貨」のたとえを、そして、来週は「放蕩息子」のたとえを学んでいくことにしましょう。

1 このたとえの語られた経緯

 いつものように、まず最初に、このたとえ話が語られた経緯を見ていきましょう。
 今日の箇所の最初の1節-3節にこう書かれていますね。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。」
 イエス様のもとには、いろいろな人がやってきました。今日の箇所では、取税人、罪人たちがやって来たとありますね。彼らは、どんな人たちだったのでしょうか。
 まず、取税人ですが、当時のユダヤ地方は、ローマ帝国の属国でしたから、ローマ政府に税金を納めなくてはなりませんでした。その税金を人々から取り立てていたのが取税人です。ですから、ユダヤの社会の中では、取税人はローマ政府の手先、売国奴として軽蔑されていました。
 それから、「罪人」と呼ばれている人たちがいました。それは、「犯罪者」という意味ではありません。彼らは、職業上の理由や様々な事情で宗教的な戒めを守らない、また、守れない人たちで、当時の宗教家たちから「罪人」と呼ばれ、見下されていたのです。
 一方、そこには、パリサイ人や律法学者たちもいました。パリサイ人は、宗教的な戒めをきちんと守って生活することに熱心な人たちで、律法学者は、旧約聖書に書かれている神様の戒めをどのように解釈し実行すべきかということを教える人たちでしたから、自分たちが一番神様に忠実に生活しているという誇りを持っていました。彼らは、取税人や罪人と付き合うことは決してしませんでした。付き合うと、自分の身が汚れると思っていたからです。まして、一緒に食事を取るなどということは、彼らにとっては到底考えられないことでした。
 ですから、彼らにとって、イエス様の姿は驚きでした。彼らは、2節で「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」と言っていますね。ここで、イエス様は実際に食事をしているわけではありませんが、「食事をする」という表現には、「親しく交流している」という意味があるのですね。つまり、パリサイ人や律法学者たちは、「私たちは、取税人や罪人とは決して付き合わないが、イエスは、平気で付き合っている。しかも、食事をするほど親しくしている」と不平を言ったわけです。
 そんな彼らに対して、イエス様は、三つのたとえをお話しになりました。今日は、まず最初の二つのたとえを見ていきましょう。

2 たとえの内容

①失われた一匹の羊の話

 まず、最初のたとえですが、ある人の百匹の羊のうちの一匹が行方不明になってしまいました。その人は、その一匹を懸命に捜し、ついに見つけて帰ってきました。そして、みんなで大喜びしたという話ですね。
 羊は、弱く、自分の力では生きていけない家畜だと言われています。自分で草や水を捜し出すことができないし、すぐに迷子になってしまいます。外敵に襲われても自分の身を守る力がありません。ですから、羊は、羊飼いがいなければ、はるか昔に絶滅していただろうと言われています。そういう羊の群れを守らなければならないのですから、羊飼いは大変です。
 パレスチナ地方の狭い高地の両側には、岩のごつごつした荒れ地が続いています。羊がそこに迷い込んで行方不明になる危険が常にありました。もし一匹でも羊がいなくなったら、羊飼いは荒れ地を捜し回らなければなりませんでした。また、野生の動物や盗人や強盗が羊を狙っていましたから、そういう敵に備えて常に見張りをし、襲われたときには羊を守って戦わなければならないわけです。また、羊のために緑の牧草地を見つけるのも大変な仕事でした。羊飼いは、それぞれの羊に名前をつけて、見分けることができたそうです。
 さて、このたとえに登場する羊の持ち主は、羊を百匹持っていましたが、その中の一匹がいなくなってしまいました。すると、その人は、九十九匹を野原に残して、一匹を捜しに行くのです。「九十九匹を野原に残して」というのは、九十九匹を放って置いてという意味ではなくて、他の人に世話を頼んだのでしょう。そして、自分は、いなくなった羊を捜しに行ったのです。そして、羊を見つけると、その羊をかついで帰ってきました。羊は、さまよい歩いて疲れていたでしょう。怪我をしていたかもしれません。また、不安や恐怖で震えていたかもしれません。ですから、途中で暴れ出さないように両足を掴み、しっかり担いで帰ってきたのでしょう。そして、友だちや近所の人を呼び集めて、羊が見つかったことを喜んだというのですね。

②なくした銀貨の話

 二番目のたとえは、銀貨の話です。女の人が銀貨を十枚持っていて、その一枚をなくしてしまいました。一生懸命捜して、見つかると、友だちや近所の人を集めて大いに喜んだというのですね。
 この銀貨は、ドラクマという銀貨です。一日の労賃程度の価値のものです。それを一枚見つけたからといって、友だちや近所の人を集めて一緒に喜ぶというのは、大げさだと思いませんか。普通では考えられませんね。
 この女の人は、どうしてこんなに喜んだのでしょう。この人はとても貧しくて、十枚の銀貨が全財産なので、一枚なくしても大変な損失になるから、見つかって大喜びしたのではないか、と考える人もいますが、それにしても大げさな喜び方ですよね。
 実は、この地方では、既婚女性のしるしとして、銀の鎖に十個の銀貨をつけた髪飾りがあったそうです。今で言えば、結婚指輪と同じ意味を持っていたわけですね。そして、その銀貨の飾りは、どんな借金をしていたとしても、返済のためにそれを取り上げることはできなかったと言われるほど、大切な意味のあるものでした。今日のたとえ話に出てくる銀貨は、その髪飾りの銀貨のことではないかと考えられているのですね。もしそうだとすると、一枚でもなくなったら大変です。その一枚は、一日分の労賃には換算できない価値がある銀貨だったことになりますね。
 その銀貨の一枚が、何かの拍子にはずれて、家の中のどこかに落ちてしまいました。今のようにフローリングの床ではありません。多くの人が乾いた草を敷いた土間のような場所で生活していました。それに、小さい窓が壁に一つか二つあるだけですから、家の中は薄暗いのです。ですから、あかりをつければ、その光で銀貨がキラリと光って見つからないだろうか、思ったのかもしれません。大切な銀貨でしから、とにかく一生懸命捜したのです。そして、ついにその銀貨を見つると、友だちや近所の人を呼んで大喜びしたわけです。

3 たとえの中心

 さて、この二つのたとえは、何を意味しているのでしょうか。
 イエス様は、羊のたとえの締めくくりとして、7節でこう言われました。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
 また、銀貨のたとえの最後にも10節で同様のことを言っておられます。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
 つまり、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天に大きな喜びがわき起こる」というのですね。
 聖書のいう「罪人」とは、神様との正しい関係を持てないでいる人のことです。聖書は、人は皆、罪人で滅びに向かっていると教えます。「滅び」という言葉には、「行方不明になる。失う。迷子になる」という意味があります。つまり、神様から離れて、迷子になってさまよっている状態、本来あるべき場所から失われた状態、まさに、いなくなった羊やなくなった銀貨と同じような状態だというのですね。
 そして、「悔い改める」という言葉には、「帰る」という意味があります。
 つまり、神様から離れて失われた状態になっていた人がひとりでも神様のもとに帰るなら、天に大きな喜びがわき起こるというのですね。そのことを、この二つのたとえ話は表しているというのです。
でも、みなさん、「あれ?」と思いませんか。いなくなった羊は、自分から羊飼いのもとに帰ったわけではありませんし、なくなった銀貨も自分から元の場所に戻ったわけではありませんね。どちらも持ち主が懸命に捜して見つけ出したのです。
 実は、イエス様は、この二つのたとえを通して、神様がどのようなお方か、そして、私たち一人一人がどのような存在なのかをはっきりと教えておられるのです。

①捜し求める神様

羊も、銀貨も、持ち主が懸命に捜し出しました。神様も失われた一人一人を懸命に捜し出してくださる方だということをこの二つのたとえ話は教えています。
多くの人は、神様が人を捜し出してくださるなどとは考えていません。普通は、自分が努力して、修行して、やっとの思いで神様のもとにたどり着き、神様の前にひざまずいて憐れみを請い求めるとき、ようやく神様に憐れんでいただくことができると考えるのです。自分から何とかして神様に近づかなければ、と考えるわけですね。
 それは、当時の宗教指導者たちも同じでした。パリサイ人も律法学者たちも、一生懸命がんばって、戒めを守って、罪人たちとの交際を絶って、身をきよくして神様に近づこうと考えていたわけですね。
 ところが、イエス様が話されたたとえの中では、そうではありません。迷子になっている弱い羊を、なくなってしまった銀貨を、持ち主が懸命に捜し求めますね。その姿こそ、聖書の神様の姿を表しているのです。
 このルカ15章のたとえは、「福音の中の福音」と言われています。なぜなら、私たちを懸命に捜し求める神様の愛の姿が示されているからです。そして、実際に私たちを捜し出して救いを与えるために、神が人となって来てくださった方、それが、イエス・キリストです。
 ルカの19章に、イエス様がエリコの町に行かれた時のことが書かれています。イエス様は、町一番の嫌われ者であった取税人ザアカイの家に行って、こう言われました。「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)と。
 懸命に羊を捜す人、銀貨を捜す女性の姿は、私たち一人一人に対するイエス様の姿そのものです。私たちは、さまよい、失われた状態の中にいましたが、イエス様が捜し出してくださり、連れ戻してくださったからこそ、神様のもとに帰ることができたのです。それは、自分の努力や能力によるのではなく、ただ神様の恵みによるのです。

②一人一人の存在の価値

 もう一つ、この二つのたとえの中で驚くのは、羊や銀貨が見つかった時、持ち主が異常なまでに大喜びする姿です。
 もし、皆さんが百万円なくして見つかったら、大喜びするでしょう。見つけた喜びは、なくしたものの価値に比例しますね。 でも、羊一匹ですよ、銀貨一枚ですよ、それほど大喜びするほどの価値があるとは思えませんね。しかし、羊一匹、銀貨一枚が、持ち主にとって大喜びするほどの価値のあるものだというのです。
 羊や銀貨は、私たち一人一人のことを表していますね。そして、持ち主は、神様ご自身です。つまり、私たち一人一人は、神様にとって、大きな価値のあるものであり、もし失われたら懸命に捜し出し、見つかったら大きな喜びとなる存在なのだということなのです。
 羊の一匹くらいいなくてもかまわない、銀貨の一枚くらいなくなったからといってどうってことはない、とは決して言わないのが聖書の神様です。神様は、一人一人をかけがえのない、決して失われてはいけない大切な者として見ていてくださるのです。誰一人として、決して迷子のままで、行方不明のままであってはならない存在です。一人一人が捜し出され、神様のもとにちゃんと帰ることができることが天の喜びなのです。
 イザヤ43章4節で、神様はこう言っておられます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」こんなふうに自分自身を考えたことがありますか。自分なんかいてもいなくても変わらない、自分には大した価値はない、と思っていませんか。しかし、神様は、「あなたは高価で尊い」と言ってくださるのです。
 何かをなくした時、もしそれが自分にとって大切な価値あるものなら、懸命に捜しますね。不要なものなら、捜そうとしません。神様は、私たち一人一人を懸命に捜してくださいます。神様にとって価値ある存在だからです。あなたが失われることは神様にとっては大きな損失なんです。
 私たちは、羊のようにすぐに迷子になりやすい存在です。でも、もし迷っても、良き羊飼いであるイエス様が捜し出してくださいます。そして、いつも見守り、導いてくださいます。そのイエス様と共に歩んでいきましょう。
 お互いが神様の目に高価で尊い存在であることを認め合い、共に神様のもとにあって生かされていることが天の喜びであり、互いの喜びであることを覚えて、この新しい週も過ごしていきましょう。