城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇二三年三月一二日             関根弘興牧師
                第二サムエル一二章一節〜七節
               
 サムエル記連続説教15
   「あなたがその男です」
 
 1 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。」新改訳聖書第三版)
 
 まず、前回の内容を振り返ってみましょう。ダビデは全イスラエルの王となり、エルサレムに都を定め、神様の契約の箱をエルサレムに運んで来て天幕の中に安置しました。それまで戦いの連続でしたが、しばしの安息の時が与えられたのです。
 そこで、ダビデは、これまでの神様の恵み、助け、導きを振り返って、神様のために何かしたいと願うようになりました。そして、王付の預言者であるナタンに「神殿を建てたい」と相談したのです。しかし、神様はナタンを通して「ダビデよ、あなたは戦いで多くの血を流してきたので神殿を建てるのにふさわしくない」と言われました。それと同時に「あなたがわたしのために神殿を建てるのではなく、わたしがあなたのためにとこしえまでも続く家を建てよう」という素晴らしい約束を与えてくださったのです。この約束には二重の意味が込められています。一つは、実際のダビデ王朝が長く続くという意味です。もう一つは、たとえ目に見える王朝が途絶えても、ダビデの子孫の中から救い主が誕生し、永遠の神の国を建てるという意味です。神様の約束は決して無効になることはありません。これから何があろうとも、ダビデが失敗や間違いを犯したとしても、決して変わることがない永遠の約束を神様が与えてくださったのです。そこでダビデは、「私の家を祝福して、とこしえに続くようにしてください。あなたが約束してくださったので、私はこの祈りを祈る勇気を得たのです」と祈り、「神様が約束してくださったから、私の家はとこしえに祝福されます」と大胆に宣言しました。これは私たちも同じですね。私たちにも決して変わることのない神様の約束が与えられています。だから、勇気を持って「あなたの約束通りに行ってください」と願い求め、「主が必ず約束を実現してくださいます」と宣言することができるのです。
 
1 アモン人・アラム人との戦い 
 
 さて、その後、ダビデは、周辺の国々との戦いを続けながら勝利を重ね、次第に支配地域を拡大していきました。
 前回は、8章にいろいろな国との戦いの記録が書かれていることをお話ししましたが、10章では、アモン人とアラム人に対する戦いの記録が記されています。アモン人の領土は、ヨルダン川の東に当たる地域で今のヨルダンにあたります。ダビデがサウル王に命を狙われて逃亡生活をしていたとき、アモン人の王ナハシュに助けてもらったことがあったようです。そこで、ナハシュが亡くなり、息子のハヌンが代わりに王となったとき、ダビデは「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と考え、お悔やみの使者を派遣しました。しかし、アモン人のつかさたちはハヌンに言いました。「ダビデを信用してはいけません。あなたと親しくするように見せかけて使者を送り、この町を探らせて攻略しようとしているのですよ」と。すると、ハヌンはどうしたでしょうか。10章4節にこう書かれています。「そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、彼らのひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにし、彼らを送り返した。」ユダヤの社会では他人の髭に手を触れること自体が侮辱的な行為でした。ですから、ハヌンがしたことは、これ以上ないほどの敵意に満ちた侮辱行為だったのです。これは、ダビデに敵対する意志を明確に示すものでした。結果はどうなったでしょう。戦争が始まってしまいました。戦争というものがいかにくだらないことから始まるかの実例ですね。不信と猜疑心が戦争に発展してしまうのは、昔も今も変わりませんね。
 ハヌンは、ダビデと戦いうためにアラム人の傭兵を雇いました。アラム人は、ヨルダン川の北東部からユーフラテス川領域に住む民族で、まとまった統一国家をつくらず、いくつかの国に分かれていたようです。その中の近くの地域からハヌンは傭兵を雇ったのです。それを聞いたダビデは将軍ヨアブが率いる軍隊を送り出し、勝利を収めました。
 しかし、それで終わりではありませんでした。こんどは、アラム人たちが、ダビデに打ち負かされたままではいられないということで、戦いを挑んできたのです。ツォバの王ハダデエゼルが他の地域のアラム人たちも招集して攻めてきました。しかし、イスラエルに打ち負かされてしまったため、イスラエルと和を講じ、イスラエルのしもべになったと書かれています。
 翌年、ダビデは、再びヨアブと全軍を出陣させてアモン人を攻撃し、首都のラバ(今のヨルダンの首都アンマン)を包囲しました。この戦いが行われているときに、ダビデは人生最大の過ちを犯してしまうのです。
 
2 ダビデの過ち
 
 その頃は、ダビデが自ら戦場に赴くことは少なくなっていたようです。「王様が戦死してしまうとイスラエルの国が危うくなるから、王様は戦いに出ないでほしい」という家来たちの思いもあったようです。ですから、アモンの首都ラバを攻撃中もダビデは王宮に残っていたのですね。
 これまでダビデはいつも民の先頭に立って戦い、勝利を重ね、領土を拡大し、権力を手に入れ、王としての評価も右肩上がりになっていました。しかし、すべてが順調に見えるときほど、落とし穴があるものですね。
 11章2節ー4節にこう書かれています。「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人をやって、その女について調べたところ、『あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか』との報告を受けた。ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。」ウリヤは外国人の傭兵でしたが、優秀で忠実なダビデの勇士の一人として記録されている人物です。ダビデは、その忠実な部下であり共に戦っていた仲間であるウリヤの妻を寝取ってしまったのです。
 これまでのダビデの姿からは想像できないようなことですね。ダビデは、これくらいはどこの国の王も行っていると軽く考えていたのかもしれません。しかし、しばらくすると、バテ・シェバがダビデの子を身ごもったという知らせが届いたのです。神様を信頼し正義を重んじると公言していたダビデにとって絶対絶命のピンチです。ダビデはこれが公になることを恐れ、隠蔽工作を開始しました。
 
3 ダビデの隠蔽工作
 
(1)ウリヤを戦地から呼び戻す
 
 ダビデはウリヤを戦地から呼び戻し、労をねぎらい、贈り物を与え、家でゆっくり休むように勧めました。ウリヤが家に帰れば、生まれてくる子の父親はウリヤであると見せかけることができると考えたわけです。しかし、ウリヤは家に帰らず、家来仲間とともに王宮の門の辺りで夜を過ごしました。そして、ダビデがなぜ家に帰らなかったのかと尋ねると、「仲間が戦場で野営しているのに、私だけが家に帰ることなどできません」と言うのです。ダビデは「お前は遠征してきたのだから帰って休め、さあ酒を飲め」とあの手この手を尽くして家に帰そうとするのですが、ウリヤは決して家に帰ろうとはしませんでした。
 
(2)ウリヤを戦死させる
 
 そこで、ダビデはとんでもないことを考えました。ダビデは、ウリヤに将軍ヨアブ宛ての手紙を持たせて戦場に送り返しました。その手紙にはこう書かれていたのです。「ウリヤを激戦の真っ只中に送り出し、彼を残してあなた方は退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」ウリヤは自分の暗殺計画が記された手紙をもって将軍ヨアブのもとに向かったわけです。まさか自分が殺されるなどとは考えもしなかったでしょう。手紙を受け取ったヨアブは、ウリヤが何か罪を犯したのかと思ったのかもしれません。あるいは、ダビデに何かやましいことがあると感じていたのかもしれませんが、ダビデの命令通り、最も危険な場所にウリヤを配置し、ウリヤを戦死させてしまったのです。
 
(3)ヨアブの報告とダビデの反応
 
 ヨアブは、ダビデに使者を送って、ウリヤが戦死したことを伝えました。すると、ダビデはこう言ったのです。「このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。」(11章25節)
 私は、この言葉を読んで、怒りが湧いてきました。ダビデは自分で部下の命を奪ったくせに「戦争なのだから犠牲が出るのは仕方がない」とぬけぬけと言い放ったのです。ひどいですね。
 ウリヤの戦死の知らせは、妻バテ・シェバにも届きました。彼女は痛み悲しんだと書かれています。表面的には戦争未亡人になり、周囲の同情を集めたでしょうが、夫に対する後ろめたさもあり複雑な思いだったことでしょう。
 喪が明けると、ダビデはバテ・シェバを妻として迎えました。バテ・シェバは男の子を産みました。これも、表面的には、ダビデは未亡人を引き取って面倒を見るのだから懐の深い王様だというふうに見えたかもしれません。
 しかし、神様がこんなことをお赦しになるはずがありません。11章27節には「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」と書かれているのです。
 
4 ナタンの糾弾
 
 主は預言者ナタンをダビデのところに遣わしました。それが今日読んだ12章に書かれています。
 ナタンはまず短い例話を語りました。ある貧しい人が自分のたった一匹の羊を娘のように大切に育てていたのに、多くの羊や牛を持っている金持ちが、その貧しい人の羊を取り上げてしまったという話です。
 この話を聞いたダビデは激怒して、「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」と叫びました。すると、ナタンは、「あなたがその男です」と厳しく指摘したのです。
 ナタンは続けて、主の言葉をダビデに告げました。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」(12章7節ー12節)
 ナタンは、ダビデが隠蔽しようとした罪を明るみにさらけだしました。ダビデは今回のことは誰にも知られないと考えていたでしょう。しかし、今、主の前では何一つ隠せおおせるものはないということを改めて知ったのです。
 ヤコブ1章14節ー15節には「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」とあります。ダビデの心はまさにこの状態であったわけです。しかし、預言者ナタンが勇気を持って命がけでダビデの罪を指摘しました。それは、ダビデにとって大きな痛みであるとともに、新しい人生の始まりともなったのです。
 
5 ダビデの態度
 
 ダビデは、ナタンに罪を指摘されると、一切言い訳をせず、「私は主に対して罪を犯した」と認めました。
 ダビデが自分の罪を隠蔽していたときの心の状態はどうだったでしょうか。詩篇32篇の3節ー4節にこう書いています。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」しかし、5節ではこう書いています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」
 
6 主の赦しと罪の結果
 
 素直に罪を認めたダビデに対してナタンは言いました。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」(12章13節) ここで、ぜひ知っておいていただきたいことがあります。神様は自分の罪を認めて悔い改める者を必ず赦してくださいます。永遠の救いを与えてくださいます。しかし、赦されることと自分の行ったことの結果を受け取ることは区別して考えなくてはなりません。
 ダビデは赦されましたが、犯した罪の結果を背負うことになります。主は三つのことを宣告なさいました。「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない」、「あなたの家にわざわいを引き起こし、あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げてあなたの友に与える」、そして「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」という宣告です。この後、ダビデの家族の中に争いや殺し合いが起こります。また、ダビデが一時王座を追われて、妻たちを寝取られるという事件が起こるのです。また、バテ・シェバとの間に生まれた子供が病気で危篤になりました。ダビデは必死に祈り求めました。12章16節には「ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた」と書かれています。しかし、その子は死んでしまったのです。家来たちは、ダビデに子供の死を知らせるのを躊躇しました。ダビデが悲しみのあまり何をしでかすかわからないと思ったからです。しかし、ダビデは子供の死を知ると、着物を着替え、主の宮で礼拝をささげ、家に帰り食事を取ったのです。その振る舞いに驚いた家来たちに向かって、ダビデは言いました。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」(12章23節)
 ダビデの心の痛みはどれほど大きなものだったでしょう。しかし、ダビデは、この地上で子供と会えなくなった現実を受け入れ、主を礼拝し、再び歩み出したのです。
 ところで、この箇所を一般化して「子供が亡くなってしまうのは神様のさばきだ」などと考えるべきではありません。また、「親が罪を犯したのに、なぜ子供を死なせるのか。神様は酷い方だ」と思う方がいるかもしれませんが、そうではありません。この地上の寿命の長さは一人一人違います。けれども、神様はそれぞれにいのちを与え、愛を注いでくださっているのです。そして、私たちの存在は、この地上のいのちを終えたあとも永遠に尽きることがなく、神様の愛も永遠に尽きることがないのです。幼くして亡くなる子供たちもいれば、長生きをする人々もいます。私たちには理由はわかりません。でも悲しみの中で信じることが出来なくても、神様が一人一人を生かし、永遠の愛をもって愛してくださっているということは変わらないのです。今回の子供の死は、ダビデに対しては、神様のさばきを示すものとなりました。その裁きは、ダビデにとって、自分の愚かな行為がどれほど深刻な結果をもたらすかを深く知る機会となり、また、ここから改めて主を信頼して生きていこうとする再生の契機となったのです。
 
7 ソロモンの誕生
 
 そんなダビデに、主は大きな慰めを与えてくださいました。バテ・シェバがもう一人の男の子を生んだのです。ダビデはその子をソロモンと名付けました。「平和・平安」という意味です。ダビデは、今回の出来事を通して、人は平安なくして生きていくことができない存在だと言うことを嫌と言うほど味わったのではないでしょうか。だから、息子にソロモンと名付けたのではないかと思います。
 イザヤ38章17節にこう書かれています。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」きっとダビデもこんな思いを持つに至ったのでしょう。
 そして、12章24節ー25節には、ソロモンについてこう書かれています。「主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。」このエディディヤというのは「主に愛されている者」という意味です。
 ここにすばらしいメッセージが込められていると思いませんか。ダビデとバテ・シェバとの結び付きはダビデの愚かな行為によって始まったわけです。こんなどうしようもない結びつきは神様が祝福されるはずがないと考えても当然です。実際、神様は預言者ナタンを遣わして、厳しい糾弾の言葉を宣告なさいましたね。しかし、神様は、今度は同じ預言者ナタンを遣わして、ダビデとバテ・シェバの息子を「主に愛されている者」と名付けてくださったのです。ダビデは、神様の赦しと愛を深く感じることができたのではないでしょうか。
 私たちも今日の記事を読むと神様の赦しと愛の大きさを感じさせられますね。「こんなことをしたら絶対に赦されるはずがない」と思うようなときでも、悔い改めて立ち返るなら、神様は「あなたを赦す」と言ってくださるのです。そして、それだけでなく「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださるのですね。私たち一人一人が「主に愛されている者」と名付けられているのです。何と感謝なことではありませんか。