城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年一月三日              関根弘興牧師
                ガラテヤ一章一節~一〇節
 ガラテヤ人への手紙連続説教1
   「福音に生きる」

1 使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです── 2 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。3 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。5 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。
6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。(新改訳聖書)


新しい年を迎えました。今日から、パウロが記したガラテヤ人への手紙の連続説教を始めます。
 この手紙には、教会がどんなときにもしっかりと保っていなければならない大切なメッセージが記されています。あの宗教改革者のマルティン・ルターが「私はこの手紙と結婚した」と言うほど、福音の本質が明確に示されている手紙なのですね。
 ですから、これから、この手紙を通して、福音とは何かということ、また、誤った教えに惑わされることなく歩んでいくために大切なのは何かということについて、学んでいくことにしましょう。

ご承知のとおりこの手紙を書いたのはパウロです。ユダヤ名はサウロといいます。
 彼は、厳格なユダヤ教のパリサイ派に属し、律法を守ることに熱心でした。そして、イエスが救い主であることを認めず、クリスチャンたちを迫害していたのです。
 しかし、クリスチャンたちを迫害するためにダマスコに向かう途中、パウロは、突然、まばゆい光に照らされ、地に倒れてしまいました。そして、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞くのです。「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、すると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが返ってきました。パウロは、地面から立ち上がりましたが、目が見えなくなっていたので、人々に手を引かれてダマスコの町に入りました。彼は三日間、目も見えず、飲み食いもしませんでした。
 さて、ダマスコにアナニヤというクリスチャンがいました。神様がアナニヤにパウロのことを幻で示されたので、アナニヤは勇気を持ってサウロのもとに出かけていきました。そして、アナニヤがサウロの頭に手をおいて祝福を祈ると、サウロは目が見えるようになり、洗礼を受けたのです。
 このダマスコ途上の出来事は、パウロ人生に大変革をもたらしました。以前はクリスチャンを迫害していたパウロが、今度は、イエス・キリストの福音を伝える使徒として、アジア、ヨーロッパにまで出かけていき、その結果、各地にたくさんの教会が生まれていったのです。
 ガラテヤ地方にもパウロの働きによっていくつもの教会が誕生していきました。ところが、そのガラテヤの諸教会の中で、パウロが伝えた福音とは異なる教えがいつの間にか入ってきたというのです。そして、教会が福音の本質からずれた状態になってしまっている、というニュースをパウロは聞きました。
 パウロという人は、福音の本質に関わることでない場合は、非常に寛容です。しかし、福音の本質が歪められていくということに関しては、一歩も譲ろうとはしませんでした。ですから、ガラテヤ教会に対しても、間違いを正すために強い口調で手紙を書いたわけです。
 では、その内容を見ていきましょう。

1 差出人と宛先

 まず、1節を見ると、パウロは、まず、自分が「使徒」であることを強調しています。しかも、その使徒としての権威は、イエス・キリストと父なる神によって与えられたのだと主張しているのです。「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」と説明していますね。
 この「使徒」というのは、「使者、大使、特別な使命を帯びて派遣された者」という意味があります。通常、聖書で使徒と呼ばれているのは、イエス様と共に歩み、復活の目撃証人となった十二弟子たちです。その中のユダは、イエス様を裏切り自殺してしまいましたので、ユダに代わってマッテヤという人が選ばれました。
 その後、パウロがダマスコへの途上で復活したイエス様と出会い、異邦人に福音を伝える使徒として任命されました。そのパウロの使徒としての権威は、使徒たちの中でもリーダー的な役割を果たしていたペテロ、ヨハネ、ヤコブによっても認定されました。ですから、十二弟子とパウロの合わせて十三人が使徒として認められていたわけです。
 ところが、ガラテヤの諸教会の中に、パウロを使徒として認めようとしない人たちが出てきました。つまり、「パウロの語る福音はまがいものだ」「それは神様から託された福音ではない」という批判の声が起こってきたのです。
 そこで、パウロは、この手紙の最初に、「私は、イエス・キリストと父なる神によって、まことの福音を語る使徒の権威を与えられたのだ」と強調したわけです。
そして、次の2節に手紙の宛先が書かれていますが、「ガラテヤの諸教会へ」となっていますね。ガラテヤというのは、今のトルコの中央部に当たる地域です。そこには、パウロが福音を伝えることによって生み出されていった教会がいくつかあったので、この手紙は、各教会に順番に回し読みされていったのでしょう。
 この手紙は、パウロの数々の手紙の中で最も早い時期に書かれたもので、執筆の年は、この手紙の宛先が南のガラテヤ地域なのか北のガラテヤ地域なのかによって変わるのですが、紀元49年頃か、55年頃であると言われています。

2 パウロの祝福の祈り

次に、3節でパウロは、「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祝福を祈っていますね。
 福音を信じ、福音に生きる者に与えられるものは、「恵みと平安」です。「恵み」とは、愛に満ちた贈り物であり、一方的に注がれる神様の愛そのものです。それは、人々に暖かさと喜びを与えるものです。また、「平安」は、恵みが注がれた結果として与えられるものです。
 教会が健康かどうかを測る尺度の一つは、この「恵みと平安」です。礼拝に出席して「怒りと不安」が出てくるなら、それはどこかおかしいですね。「悲しみや心配」が出てくるのもおかしいですね。まことの福音が語られているところには、必ず、「恵みと平安」があるはずなのです。

3 パウロの確信

さて、では、パウロが宣べ伝えている福音とは、どのようなものでしょうか。それは、1節と4節を見るとわかります。まず、1節の最後に「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神」とありますね。そして、4節には、「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです」とあります。この二つの箇所の中に福音の内容が示されています。

①キリストは私たちの罪のためにご自身をお捨てになった

まず、4節に「キリストは、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」と書かれていますが、「私たちの罪のために」という言葉は、二つの意味に解釈できますね。
 一つは、「私が罪を犯してしまったために、私という存在が原因でキリストが十字架について死んでくださった」という意味です。この意味で考えると、「申し訳ないな。私がいなければ、イエス様は十字架につくことがなかったのに。本当にイエス様には悪いことをしたな」という感覚になりますね。
 しかし、パウロが語っているのは、そういう意味ではありません。「私たちの罪のために」とは「私たちの罪を赦すという目的のために十字架についてくださった」という意味なのです。
 この手紙には、「十字架につけられたキリスト」という言葉がたびたび登場します。それは、この手紙のキーワードの一つです。キリストが来られたのは、私たちの罪を赦すために十字架にかかるという明確な目的のためなのです。そこからは、何が生まれますか。ただただ感謝が湧いてくるのです。

②神はキリストを死者の中からよみがえらせた

 ところで、十字架にかかったのは、イエス様だけではありませんでした。当時の極悪人がたくさん十字架にかかって死んでいったのです。しかし、イエス様の十字架だけは、特別でした。十字架で死んだイエス様を神様がよみがえらせてくださったからです。それによって、イエス様がまことの神の子であり、罪と死の力を打ち破ったまことの救い主であることが証明されました。また、イエス様が今も生きておられ、私たちを生かし、いつも共にいてくださるという約束が実現したのです。

③今の悪の世界から私たちを救い出してくださった

それから、「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」と書かれていますね。キリストが私たちのために十字架にかかってくださることによって、私たちは、今の悪の世界から救い出されたというのです。
 この「世界」という言葉は、「秩序」とか「枠組み」とも訳せる言葉です。つまり、キリストが私たちのためにいのちをお捨てになったことによって罪赦された私たちは、神様から離れたずれた状態にある秩序から解放されて、新しい秩序、枠組みの世界に生きる者とされているのだ、ということなのです。古い過去に縛られて罪と死の束縛の中に生きるのではなく、新しい神様の秩序の中で赦され、愛され、恵みの中に生きる者とされたのです。それは、キリストの十字架と復活によって私たちの人生にもたらされた大変革なのです。

④私たちの神であり父である方のみこころによった

そして、それは、神様のみこころによってなされた、とパウロは書いています。第一テモテ2章4節に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」とある通りです。神様のみこころは、私たちが新しいいのちと恵みの秩序の中で生きていくことなのです。
 つまり、「神様ご自身が私たちを救い出すことを願われ、キリストを遣わしてくださった。そして、そのキリストの十字架と復活によって私たちの罪が赦され、新しく神様と共に生きる者とされた」というのです。それこそ、福音ですね。

4 他の福音?

 ところが、その福音をゆがめる教えが入り込んで来ました。パウロが去った後、このガラテヤの諸教会に、パウロが語ってきたのとは違うことを教える人たちが入り込んできたのです。そして、教会の人々がその教えになびいていってしまうという状況が生じてきました。
 6節でパウロは、「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています」と語っていますね。
 パウロは、ここで「ほかの福音」と言っていますが、もちろん本当の福音はただ一つですから、もう一つの別の福音があるわけではありません。しかし、ガラテヤ教会には「パウロ先生が伝えた福音とは違う、もう一つの福音を伝えましょう」と語る者が出てきたのです。
 この当時の教会のメンバーには、異邦人だけでなく、移住してきたユダヤ人もたくさんいました。
 ユダヤ人たちは、紀元前数世紀から世界各地に移住を始め、それぞれの地域にユダヤ教の会堂を造っていきました。ですから、ガラテヤ地域にも、移住してきたユダヤ人たちが大勢住んでいたのです。
 パウロたちは、異邦人に福音を伝えるために各地を回りましたが、それぞれの場所にあるユダヤ教の会堂に行ってユダヤ人にもイエス様を伝えていきました。旧約聖書の内容を知っている同胞であるユダヤ人たちにも、ぜひ福音を伝えたいと願っていたからです。その結果、多くのユダヤ人がイエス・キリストを信じ、教会のメンバーになっていきました。
 しかし、ユダヤ人たちは、自分たちが神から選ばれた選民であるという意識を持っていました。そして、ユダヤの伝統をしっかりと守って生活していたのです。
 旧約聖書には、神様がまずユダヤ人を選ばれて、導き、律法をお与えになったことが書かれています。しかし、それは、ユダヤ人がどの民族よりも優れていたからではありませんでした。むしろ、弱く小さい民族を選び、その民族の歴史を通して神様の偉大さをすべての人々に示そうとなさったのです。
 神様は、彼らに律法やたくさんの戒めをお与えになりました。なぜでしょうか。それは、人は自分の力では神様の律法や戒めを守ることができないということをわからせるためでした。神様の戒めを守ろうとしても守ることの出来ない自分自身の弱さを自覚し、自分の力では救われないこと、ただ神様の恵みによってしか救いはないということをわからせるためだったのです。 ですから、旧約聖書をよく読むと、「私たちは神の恵みによって救われる」ということが教えられていることがわかります。たとえば、ヨエル2章32節には、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」と約束されていますね。律法や戒めを守らなければならないなどという条件は付いていません。また、ハバクク2章4節には、「正しい人はその信仰によって生きる」とあります。つまり、神の前に正しいと認められるのは、信仰によるのだというのです。「救いは、行いによるのでなく信仰による」ということは、旧約聖書にもちゃんと記されているわけですね。ユダヤ人たちも当然そのことはよく知っていたはずです。
 ですから、もしガラテヤ教会に「ほかの福音」を宣べ伝えに来た者たちが、「人は、信仰によって救われるのではありません。旧約聖書の戒めを守り行うことによってのみ救われるのです」と言っていたなら、教会の人々はすぐに、これは違う、とわかったはずです。
 しかし、彼らが教えた「ほかの福音」とは、まことの福音の本質を微妙に変えたものでした。彼らは、「人が救われるのはイエス・キリストを信じる信仰による、それは、その通りですよ。しかし、信仰によって救われた生活をきちんと続けるためには、神の選民であるユダヤ人のように割礼を受け、安息日を守るようにしなければなりません」と教えたのです。「割礼」というのは、男性の生殖器の包皮を切り取る儀式です。神の民であることの証拠として、ユダヤ人の男性は、生まれて八日目に割礼を受けることになっていました。その割礼を受けることと安息日を守ることは、神様の律法を守ることを示す代表的な行為でした。それをクリスチャンになった人々もきちんと行わなければならない、と言うのです。つまり、「救いは神の恵みによって与えられるけれど、救われた状態を継続するためには行いが必要だ」というわけですね。
こう言われると、そうだな、と思ってしまう人もいるでしょうね。たとえば、あなたがこう言われたらどうでしょう。「イエス様を信じてクリスチャンになれてよかったですね。でもそれだけでは不十分ですよ。さて、これからは、救いを完成するために特別な弟子訓練が必要です。」そう言われると、「確かにそうだな。イエス様を信じるだけでは、クリスチャンとして足りないな」と考えてしまいやすいですね。また、こう言われたらどうでしょう。「いいですか。クリスチャンになったら、礼拝には必ず出席し、毎日聖書を読み、熱心に祈り、奉仕に励まないといけません。そうでないと救いから落ちてしまいますよ。落ちこぼれになってしまいますよ。」そんなことを言われたら、「そうか、頑張らなければならない」と思ってしまいますね。実は、このガラテヤ教会にもたらされた「ほかの福音」というのは、どの時代に関係なく、教会が常に直面してきた問題であり、今日も続いている問題なんです。
 しかし、 パウロが言うように、クリスチャンになった後の信仰生活においても、福音を信じること、つまり、イエス・キリストの十字架と復活によって救いと永遠のいのちを得ることができたということ以外に何も加える必要はありません。私たちは、ただ神様の恵みにより、イエス・キリストの贖いにより、聖霊の力によって、救われ、生かされ、変えられていくのです。その福音の信仰に徹することが、クリスチャンになるためにも、クリスチャンになってからも一番の唯一の重要なことなのです。その福音は完全で十分なものです。それを否定したり、割り引いたりすることは、決してあってはならないことなのです。パウロは、「その者はのろわれるべきです」と大変厳しい口調で書いていますが、神様の恵みの福音を変えようとするなら、神様の恵みから切り離されてしまうことになるのですから、みずからのろいを招いていることになりますね。
 神様の律法や戒めを守ることができず、自分で救いを得ることができない私たちを、神様は、イエス・キリストの十字架と復活によって救ってくださいました。この恵みだけで十分なのです。どうしてそれに何かを付け加える必要があるでしょうか。
 パウロはこの手紙の終わりのほうの6章15節で、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」と言っています。また、第二コリント 5章17節では、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と語っています。
 キリストの十字架と復活を通して示された福音は、私たちを新しく造り変えることができるのです。もちろん、いろいろな訓練を受けたり、聖書を学び、祈り、礼拝に出席することは大切です。しかし、それは、福音を信じるだけでは足りないからではありません。それらはすべて、福音によって新しく創造とされた者としての喜びと感謝の表れとして行うものなのです。「しなければならないから、する」のではなく、「したいから、する」のです。ですから、礼拝は、恵みに生かされ、恵みに憩う私たちが神様に感謝と賛美をささげる時なのです。
 今週も、一人一人の上に「恵みと平安」が豊かに注がれていきますように。