城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年一月三一日             関根弘興牧師
               ガラテヤ二章一五節~二一節
 ガラテヤ人への手紙連続説教5
  「私のうちに生きるキリスト」

15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(新改訳聖書)

 前回は、アンテオケ教会で起きた出来事を通して、福音に生きることの大切さを学びましたね。どんな出来事だったでしょうか。
 アンテオケ教会は、バルナバやパウロの働きによってクリスチャンになる人が増えていきました。そして、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも共に礼拝をささげていました。イエス・キリストを信じる仲間として一つにされていたわけですね。ペテロがアンテオケ教会を訪問してきたときも、皆、一緒に食事をし、親しく交流していたのです。
 ところが、エルサレム教会からユダヤ人クリスチャンたちがやってくると、ペテロは、異邦人と一緒に食事をすることをやめてしまいました。しかも、ペテロだけでなく、他のユダヤ人たち、そして、バルナバまでもが同じ態度を取るようになってしまったのです。
 それに対して、パウロは、「あなたがたは福音の真理に歩んでいない。なぜ本心を偽った行動を取るのか」と抗議しました。信仰の大先輩であり、導き手でもあったペテロやバルナバにも遠慮することなく抗議したのです。パウロにとって、これは福音をゆがめてしまう大変な事件であったからです。
 「一緒に食事をする」というのは、親しい交わりのしるしでした。福音書の中で、イエス様が取税人や罪人たちと食事をした、という記事が出てきます。ユダヤ人は、取税人や罪人と交際すると自分の身が汚れると考え、決して一緒に食事をしようとはしませんでしたが、イエス様は、誰に対しても分け隔てなく接しておられたのです。また、黙示録3章20節で、イエス様は、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」と言われました。だれでもイエス様を信じ受け入れるなら、イエス様がその人と親しい関係を持ってくださるというのです。 福音は、隔ての壁を取り除くものです。イエス様御自身が、ユダヤ人も異邦人も関係なく、信じる一人一人と親しい交わりの中に歩んでくださり、互いに親しい兄弟姉妹としてくださったのです。ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも皆一つにされています。それなのに、どうして、異邦人クリスチャンと食事をすると身が汚れてしまうかのような振る舞いをするのだ、とパウロは抗議したわけですね。
 
1 律法と罪人

 さて、今日の箇所は、その続きです。まず15節に「えっ!」と思うようなことが書いてありますね。「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と。ここだけ読むと「パウロは、ユダヤ人は罪人でなくて、異邦人だけが罪人だと思っているのか」と思ってしまいますね。しかし、これは、そういう意味で言っているのではないのです。
 ユダヤ人は、自分たちは、神様から律法を与えられた特別な民だと考えていました。そして、「律法を知らず、律法を守ることをしない人」という意味で、異邦人を「罪人」と呼んでいました。
 たとえば、律法には、食物についての規定があります。レビ記11章に細かい規定が書かれていますが、食べてよい生き物とそうでない生き物が区別されています。ひずめが完全に分かれていて反芻するものは食べていいが、豚はだめ、とか、ひれをうろこを持つ魚は食べていいが、そうでないものは食べてはいけない、といった具合で、たくさんの規定がありました。ユダヤの社会では、この食物規定にそって食事をしていましたから、その習慣は一人一人に染みついていたわけですね。
 しかし、異邦人は豚肉でも何でも平気で食べるわけですね。ですから、ユダヤ人から見れば、異邦人は律法を守らない「罪人」なわけです。そして、そういう罪人と一緒に食事をしたら今まで大切に守ってきた規定を破ることになり、それは、自らを汚してしまうことだと考えてしまうわけですね。
 律法には、食べ物の規定のほかにも、安息日を守ること、割礼を受けることなど様々な規定があって、「異邦人はそれを守らないから皆、罪人だ」とユダヤ人たちは考えていたのです。
 ですから、パウロの15節の言葉は、「ユダヤ人は、生まれた時から律法を守るように教えられ生活してきましたね。しかし、異邦人は律法を知らず、律法を守ってこなかったので、私たちは彼らを『罪人』と呼んできましたよね」という意味で言っているわけです。

2 人は律法の行いによっては義と認められない

 しかし、パウロは続けて16節で、「しかし、人は律法の行いによっては義と認められない」と言っています。
神様は、律法をお与えになり、「これを守れば、あなたがたは神の民として幸いな人生を送ることができる」と言われました。しかし、その律法を守り行おうとするとき、何がわかるかと言えば、守れない自分が見えてくるのです。一生懸命に律法の行いを守って生きようとすればするほど、できない自分を見いだすわけです。旧約聖書を見ると、律法を守ろうとしても守れない人々の姿がくりかえし描かれています。そして、律法を守れない自分の姿を嘆く詩が詩篇には数多く記されています。
 もちろん中には、「私は律法をきちんと守っている」と自負している人々もいました。しかし、神様は、そういう人々に対して厳しく叱責なさっています。「あなたがたは表面ではわたしを敬っているように見せかけているが、心はわたしから遠く離れているではないか」と。
 律法には様々な規定がありますが、すべては二つの戒めに要約できます。申命記6章5節の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とレビ記19章18節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という戒めです。律法に書かれている様々な規定は、すべて、この二つの戒め、つまり、神への愛と人への愛を具体的に生活の中で示すために定められたものなのです。そして、律法の規定を表面的に一所懸命守っていても、神を愛し、人を愛するという一番大切なことが抜けているなら、皆、罪の状態にあるのだ、と神様は教えておられるのです。
 実は、神様が律法をお与えになったのは、律法を守ろうとしても守ることのできない自分の状態を一人一人に自覚させるためでした。人は、自分の力で神様の基準に達することはできないということを徹底的にわからせるためだったのです。
 ですから、実は、ユダヤ人も、律法を持ってはいても、それを完全に守ることができない罪人なのです。ですから、パウロは、「あなたがたは異邦人は罪人だと考えているが、私たちユダヤ人も、律法を守ることができないのだから、彼らと同じ罪人なのだ」と迫っているのです。異邦人は律法を持たない罪人であり、ユダヤ人は律法を持っている罪人だというわけですね。
 そして、パウロは、「律法の行いによって神の前に自分を義とすることなどできないのだ」と語っていくわけです。これは、熱心に律法を守って生きてきたパウロだからこそ、よくわかっていたことでした。

3 キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる

 そして、次に、この手紙の中心となるテーマが登場します。それは、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」ということです。「義と認められる」とは、どういうことでしょうか。
 「義」という言葉は、二つの意味で使われます。

①「完全に正しい」という意味
「義」とは、完全な正しさを表す言葉です。そして、神様こそ「義」なる方です。神様の中には偽りが一つもありません。神様の中には真実しかない、ということです。ですから、「義」とは、神様の属性を指す言葉でもあります。

②「神様とまっすぐな関係にある」という意味
「義」とは、また、まっすぐな関係を表す言葉でもあります。何一つ隔てるものがない関係です。神様とまっすぐな関係を持つことができれば、私たちは、自由に神様に「天のお父さん」と呼びかけることができ、何も隠し立てすることなく語り合うことができ、神様の愛と恵みと祝福を受け取っていくことができるのです。

ですから「義と認められる」ということは、罪人であるはずの私たちを、神様が罪なしと認め、神様と何の隔てもなく自由な関わりを持つことができるようにしてくださる、ということです。そして、それは、律法の行いによってではなく、キリスト・イエスを信じる信仰によって可能になるのだ、とパウロは語っているのです。
 では、なぜキリスト・イエスを信じれば義と認められるのでしょうか。神様は、初めから人が自分の力や行いで義と認められることは不可能だということをご存じでした。同時に、神様は人を愛しておられ、ご自分との関係を回復させたいと願っておられました。ただ、人が神様との関係を回復するためには、罪の問題を解決する必要がありました。神様は、完全に義なる方なので、罪ある人がそのままで神様と義の関係を持つことは不可能だからです。そこで、神様は、救い主イエスを遣わしてくださったのです。そして、イエス様が、私たちの身代わりに私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり、私たちが受けるべき罪の罰をご自分の身に受けて死んでくださいました。ですから、このキリストを信じる信仰によって私たちは義と認められるのです。神様は、「あなたは確かに罪人だけれど、あなたの罪はすべてイエスの十字架に釘付けにされた。だから、わたしは、あなたを赦し、罪のない者と認め、わたしの愛する子として祝福を相続させる。さあ、わたしとのまっすぐな関わりの中で生きていこう」とおっしゃるのです。
 これは、考えれば考えるほどすごいことですね。神様には、差別や偏見はまったくありません。ユダヤ人、異邦人に関係なく、どんな過去をもっているかに関係なく、すべての人を愛し、すべての人が救われる道を備えてくださったのです。私たち一人一人の罪を赦し、義と認めるために、神様は、ご自分の一人子を十字架にかけることまでしてくださったのです。ここに神様の圧倒的な真実の愛が示されています。その神様の愛に応えて、イエスを救い主と信じるなら、誰でも義と認められ、神様との新たな愛の関係の中で歩む者とされるのです。

4 クリスチャンと律法

では、信仰によって義と認められたクリスチャンと律法との関係は、どのようなものでしょうか。

①律法によって律法に死んだ

パウロは19節ー20節で「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」と記していますね。
 この言葉はユダヤの伝統や律法を強いていたユダヤ人クリスチャンたちにとって衝撃的な言葉となったはずです。
 律法は、それを守ることができない者に何を要求するでしょうか。罰です。ですから、律法に生きるなら、罰を恐れて生きることになりますね。たとえば、当時のユダヤ人クリスチャンは、「安息日を覚えよ」という戒めを大切にしていました。ですから、もしその戒めを無視して安息日に働いたら、何か罰が下るのではないかという恐れを感じたはずです。  
 私たちも、クリスチャンになってからも、それと似たような感覚を持ってしまうことがありますね。たとえば、礼拝をお休みした週に病気になったりすると、「礼拝を休んだから病気になったのではないか」と思ったり、ちょっと人生に落ち込むと、「自分の信仰が足りないからだ」という風に考えてしまうのです。いつのまにか、信仰という名のもとに新しい律法を作り出して、「こうしなければならない」という規定に縛られて、本来の信仰の姿から乖離してしまうことがあるのですね。
 しかし、パウロは「私は律法に死にました」と言いました。それは、「私は、律法に対して死んでしまった状態なので、もはや律法の効力は私には及ばない」ということなのです。「私は律法に死んだから、もはや律法に縛られることはない。まして、律法を守って自分の義を確立しようなどとは決して思わない。そして律法を犯してしまうことからくる罰を恐れることもない。私は、神との義の関係のうちに生きているのだから」と記しているのです。
 そして、パウロは、いつもキリストの十字架を思い起こすのです。「キリストが私の罪を全部背負って十字架についてくださった。だから、今、だれも私を罪に定める者はいない。律法の下にあった私は、キリストと共に十字架につけられて死んでいるのだ」と語っているのです。

②キリストの律法

続けて、パウロは不思議なことを書いています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と。
 キリストは、十字架にかかって死んで葬られましたが、三日目によみがえられました。そして、今も生きておられ、信じる一人一人の内に住んでくださるのです。そして、パウロは、ここで、その復活したキリストを信じ受け入れた時に、人生の主人公が交代した、と言っているのです。「私が、私が」という自分中心の人生からキリスト中心の人生に、自分で律法の行いを守って義を得ようとする生き方から一方的な十字架の恵みの中で生きる生き方に変わるという、人生の大変革が起こったのだという告白なのです。
道であり、真理であり、いのちであるイエス様が中心にいて、生かし導いてくださる、それがクリスチャンの人生です。それは、決して不自由な人生ではありません。航海をするのに大切なのは、船長です。誰が舵を握るかが大切です。いままで自分で握っていた人生の舵をキリストに握っていただくのです。
 もちろん、これは完璧な人になるという意味ではありません。失敗や苦難があっても、キリストがいつも共にいてくださり、生かし導いてくださることを味わい知りつつ歩んでいくのです。
 ところで、今日の説教を聞いて、誤解のないようにしておきたいのですが、神様が与えてくださった律法そのものが悪いわけではありません。パウロは、「キリストを信じれば、もう律法は私たちと全く無関係なのだ」と言っているわけではありません。
 先ほどご説明しましたように、律法の中心は、神を愛することと人を愛することです。しかし、私たちは、どんなに外側を取り繕ったとしても、自分の心の中を見ると、愛することのできない者ですね。イエス様は、そんな私たちの心の中心に来てくださり、私たちが、心から神と人を愛せる者に、つまり、律法を本来の意味で守ることができる者に変えてくださるのです。自分の力で出来ないことをイエス様にお任せしてやっていただくのですね。イエス様を通して、神様の愛を体験的に知ることにより、私たちは少しずつ愛せる者に変えられていくのです。ですから、イエス様は、「わたしは律法を廃棄するためにではなく、成就するために来た」と言われました。そして、私たちに、「神を愛し、互いに愛し合いなさい」という律法をお与えになっています。そのイエス・キリストの律法に生きていくこと、それがクリスチャンの生き方なのです。

5 神の御子を信じる信仰によって生きる

 さて、パウロは続けて、20節の後半で「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と書いています。 「肉にあって生きている」というのは、この肉体を持って毎日の生活を送っているということです。
 私たちが毎日生きていくには衣食住が必要ですね。しかし、本当に人として生きていくためには、それだけでは不十分です。パウロは、「この毎日の生活において私を生かしているものは、信仰だ」と書いています。つまり、信仰とは、決してアクセサリーのような飾り物ではなく、毎日の生活の中で私たちを生かしているものだということなのですね。
「信仰」とは、「信頼」と同じ言葉です。そして、「信頼」は、人が生きる上でもっとも大切なことです。
 もし疑いだけで人生を生きようと思うなら、出来るかどうか是非試してみてください。一時間と生きていけないことを悟るはずです。そして、あなたの顔から笑顔が消えていきます。終いには、生きていくことすら嫌になるでしょう。
 たとえば、教会に来るのも大変です。「この電車は本当に小田原行きだろうか」と疑って乗ろうとしなかったら、いつまでたっても教会に来られませんね。教会に着いても、牧師の説教が信用できない、皆の笑顔も信用できない、すべて疑っていたら何もできないし、人生が嫌になりますね。
 パウロは、「私は、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって生きている」と語りました。いのちを捨てるほどの愛をもって愛してくださったキリストに信頼して生きている、そして、このキリストによって私は本当に生きた者とされているのだ、と告白しているのです。

イエス様は、私たちにも、同じように大きな愛を示してくださいました。そして、いつも共に歩んでくださいます。このイエス様を信頼して歩むことが私たちの人生の基礎になるのです。
神様の恵みを無にする自分勝手に生きるのでなく、いろいろな律法に縛られ恐れをもって生きるのでもなく、神様の恵みによって生かされ、キリストの愛の律法に生きる者とされたことを喜びながら、主を賛美していきましょう。