城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年二月七日              関根弘興牧師
                  ガラテヤ三章一節~五節
 ガラテヤ人への手紙連続説教6
   「律法か信仰か」

1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。(新改訳聖書)

私たちは、絶対的な基準によってではなく、相対的な基準で物事を計ってしまうことが多いように思います。
 たとえば、何か悪いことをしてしまったとき、「でも、あの人よりはましだよ」と言い訳をしたり、「あなたは罪人です」と言われても、「自分はそれほど悪い人間ではない。もっと悪い奴はたくさんいる」と反論したくなりますね。
ある世論調査で、「あなたは幸せですか」という問いに、八割近い人たちが「はい、幸せです」と答えたそうです。理由を尋ねると、「もっと貧しい家庭や問題のある家庭がありますからね。それに比べたら幸せだと思います」「あの国の悲惨な状態を見たら、私たちは幸せですから」というような答えが多かったのです。私たちは、周りを見て、自分の状態を判断することに慣れているわけです。
 しかし、そうした判断は、ともすると、周りの状況によって自分自身が振り回されてしまうことになってしまうこともあります。ですから、決して変わることのない基準をしっかりと持っていることはとても大切なのです。
 私たちは、生活の中で物差しを使うことがありますね。あなたが使っている物差しと私が使っている物差しが違っていたらどうでしょう。また、国によって物差しが違っていたら大変ですね。でも、今、世界中どこに行っても、誰が測っても、一メートルは同じ長さに決まっています。それは、雰囲気や気分によって変わることはありませんし、指導者が変わっても変わりません。基準が統一されているからこそ、それをもとにして、安心して様々な製品を作ったり売ったり使ったりすることができるわけですね。
では、私たちの人生はどうでしょうか。人生にも、基準となる物差しが必要ですね。
 聖書は、「正典」と呼ばれています。英語では「カノン」と言いますが、それは、ギリシャ語の「カノーン」という言葉から来ています。「カノーン」というのは、「物差し」「基準」「法則」という意味の言葉なんです。つまり、聖書は私たちの人生の物差しであり、基準となるものなのですね。私たちが本来のあるべき姿からずれてしまっている時には、聖書によってずれていることがわかり、聖書によって正しい状態に戻すことができるのです。ですから、礼拝では、必ず聖書が開かれ、聖書から聞き、聖書から教えられていくのです。

 さて、前回の箇所で、パウロは、ガラテヤの教会の人たちに対して、自分の確信を力強く述べていました。それは、2章20節の内容です。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 ガラテヤ教会には、本来の福音とは異なる教えが入り込んで来ていました。その教えとは、「イエス様を信じる信仰だけでは不十分ですよ。ユダヤ人の伝統に従い、律法の戒めをきちんと守らなければ完全に救いを得ることは出来ませんよ」というものでした。
 しかし、パウロは、「断じてそうではない。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは皆、救われ、義と認められ、生かされているのだ」と手紙に書きました。また、「律法を完全に守ることができる人は一人もいない。だから、律法の戒めを守って救いを得ようとすることは、やめなさい。私たちは、イエス様を信じた時に、キリスト共に十字架につけられて、律法に対しては死んだ者になったのだ。だから、律法は効力を失い、私たちは、律法から解放された。今、復活されたキリストが私たちのうちに生きておられるので、そのキリストが私たちを生かし、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せるようなものに変えていってくださる。私たちは、自分の力ではなく、キリストを信じる信仰によって、神の望まれる生き方をすることができる者にされているのだ」と熱く語っているのです。
 そして、今日の3章からは、その私たちを生かしている信仰とは何か、福音の本質とは何かということについて語っていくのです。

1 愚かな人

まず、3章1節で、パウロは少し感情的に「ああ愚かなガラテヤ人」と記していますね。
 この「愚かな」と訳される言葉は、3節の「道理がわからない」という言葉と同じです。別の訳だと「物わかりが悪い」とも訳されています。パウロは、ガラテヤの教会の人たちに対して、まるで父親のように厳しく「愚か者」と叱ったわけです。
 しかし、ガラテヤ教会の人々は、べつに不品行を行っていたわけでもなく、大酒を飲んだり、ギャンブルに狂ったりしているわけでもありませんでしたから、この手紙を読んだ人たちは、きっと「ムカッ」ときたのではないかと思いますね。「いったい私たちのどこが愚かなのだ」と思ったことでしょう。
 では、パウロは、どういう意味でガラテヤ教会の人たちを「愚か者」と言ったのでしょうか。
 聖書の中で、「愚か者」という言葉は、いくつかの意味に使われています。

①「神はいない」と言っている人

 詩篇14篇1節に「愚か者は、心の中で神はいないといっている」と記されています。神様の存在を認めない人は、どんな人であるかにかかわらず、「愚か者」だというのです。

②永遠の視野を持って人生を考えようとしない人

 また、イエス様はルカ福音書の中でこんなたとえ話をされました。
 ある金持ちの畑が大豊作になりました。彼は大きな倉を建て、穀物を全部そこにしまい込み、自分に言い聞かせました。「これから先何年分もいっぱい物が貯められた。安心して、食べて、飲んで楽しもう」。ところが、神様は、この人に言われました。「愚か者、お前の魂は今夜取り去られる。そうしたらお前の用意した物はいったい誰のものになるのか。」
 この金持ちは、この世においては成功者です。豊作にするためには、天候だけでなく、畑の管理や小作人の信頼も必要でしょう。また、この人は、大きな倉を建てて将来の生活に備える知恵も持っていました。しかし、「愚か者」と言われているのです。なぜでしょう。「お前の魂は今夜取り去られる。そうしたらお前の用意した物はいったい誰のものになるのか」と神様は言われました。つまり、「何年も先のことを考えられるあなたが、どうして永遠の視野を持って人生を考えようとしないのだ」というのです。この世の生活のことだけにとらわれて、永遠のいのちのことを考えない人は愚か者だというわけですね。

③自分の行いで救いを達成しようとする人

しかし、ガラテヤ教会の人たちは、「神はいない」と言っていたわけでもないし、永遠のことを考えずにこの世中心の自分勝手な生活をしていたわけでもありませんでした。むしろ、イエス様の十字架を信じて救われて喜んではいたのですが、彼らの問題は、「イエス様の十字架のあがないだけでは不十分だ。だから、自分の努力や頑張りで自分の救いを達成しなければならない」と考えていたことです。彼らのその姿は、一見、熱心に信仰生活に励んでいるように見えたことでしょう。教会の外の人たちの目には、教会の人は皆まじめで熱心だ、と見えていたかもしれません。
 しかし、パウロの目には、彼らの姿は「愚か」に見えているのです。どうしてでしょう。それは、彼らが神様の恵みを否定し、イエス様の十字架のみわざを無にしてしまうような歩みをしていたからでした。
 そこでパウロは、3節にあるように、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」、つまり、「神様の霊の働きによって始まったあなたがたが、自分の肉の行いによって完成されると考えているのですか」と言って、その愚かさを叱責したのです。

2 律法か信仰か

そして、パウロは、「あなた方が救われ、罪赦され、義と認められ、聖霊が与えられたのは、律法を行ったからなのか、それとも信仰を持って聞いたからなのか、よく思い出して見なさい」と2節と5節で繰り返し語っています。
 救いに至るための道は、二つあります。
 一つは、律法を行うことによって、救いを得るという道です。もし律法を完全に行うことができれば、神様に受け入れられるでしょう。律法は、行いを要求します。ですから、この道を進もうとする人は、熱心に律法を守ろうとします。そして、熱心になればなるほど、より厳格に戒めを守って生きていく方向へと向かいます。そして、律法を厳格に守れば守るほど、自分は神に熱心に仕えているのだという自負も生まれてきます。そういう人は、自分や人を相対的な見方で見ます。「あの人より私の方が熱心だ。あの人より私の方が立派に戒めをも守っている」「私は、あの人のようにきちんと律法に従えないから駄目だ」というように人と比較して判断してしまうのです。
 しかし、その道を進んで行って、本当に救いにたどり着くことはできるのでしょうか。できません。なぜなら、人が律法をすべて完全に守ることなど不可能だからです。いつも律法を守り切れない自分に出くわすわけですから、自分が救われたという本当の安息や満足を得ることは決してできないのです。むしろ、律法を守り切れない自分に罪責感を覚えたり、罰を受けるのではないかという恐れをいだきながら進んで行かなければなりません。この姿は、以前のパウロの姿でもありました。
 もう一つは、信仰をもって聞くことによって救いを得る道です。
 パウロは ローマ人への手紙10章17節で、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と記しています。「キリストについてのみことば」とは、「福音」そのものです。ですから、信仰は福音を聞くことから始まるのです。
 そして、福音の中心は、何でしょう。それは、十字架と復活です。
 十字架は、イエス様が私たちの罪を背負い、私たちの代わりに釘付けされた場所です。十字架は、律法に生きることの終焉の場所であり、律法を守れない者に下されるすべてののろいと罰がそこに釘付けされたのです。
 そして、イエス様は復活なさいました。もし復活がなければ、イエス様の十字架の死は、他の犯罪人たちと同じように、罪を背負った非業の死で終わってしまいます。何の希望もありません。しかし、イエス様は、復活されました。それは、イエス様がまことの救い主であり、イエス様が語られたことがすべては真実であり、イエス様が死を乗り越えるいのちを持っておられることを保証するものでした。
 ですから、パウロは、ガラテヤの諸教会を回ったときにも、このイエス・キリストの十字架と復活をはっきりと宣べ伝えたのです。「ガラテヤの人たちよ、イエス様が私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださった。そして、復活し、今も生きておられ、私たちと共にいて、生かし、導いてくださる。そのことを信じるあなたがたは、罪を赦され、義と認められ、神の祝福を受けることができたのだから、もはや、のろいや罰を恐れることはない。また、自分で努力して義と認められようとする必要もない。神の愛の中で律法から解放されて恵みに生きる者とされたのだ」と語っていきました。そして、ガラテヤの人々は、その福音を聞いて、イエス様を信じ、救われていったのです。
 皆さん、信仰は、福音を聞くことから始まります。そして、その福音を聞くことによって、イエス様を信頼し生きていこうという信仰が呼び起こされてくるのです。そして、呼び起こされた信仰を持って、さらに聞き続けていくとき、聞いた言葉によってさらに喜びが与えられ、愛され、赦されている幸いをさらに深く知っていくのです。福音を聞き続ける中で、教えられ、支えられ、強められ、励まされ、神様とのまっすぐな関わりに中で歩むものとされていることを知っていくのです。
ですから、クリスチャン生活とは、聞き続けることの連続です。聖書の言葉を聞き続けるのです。礼拝の説教を聞き、また、個人的にも聖書を読みながら、聞き続けることが信仰に生きることなのです。
 パウロは、ガラテヤ教会の人々に対して、「あなたがたが救われたのは、自分の力で律法を完全に行うことができたからではなく、ただ信仰をもって聞いたからでしょう。それなら、なぜ今さら律法を守らなければならないなどと言い出すのですか」と問いかけているわけですね。

3 御霊を受けた

 さて、今日の箇所で、パウロが繰り返し語っている言葉がありますね。それは、「御霊」という言葉です。2節には「あなたがたが御霊を受けた」、3節には「御霊で始まったあなたがた」、5節には「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方」と書かれていますね。私たちが信仰をもって聞いたときに、御霊が与えられたというのです。
 御霊は、聖霊とも呼ばれています。聖書は、「唯一の神がおられ、その神は、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三つの位格をもっておられる。父、子、聖霊は、同じ本質を持っておられ、完全に一体となって共同の働きをされている」と教えています。これを神学用語で「三位一体」と言います。私たちの神様は、父、子、聖霊の三つの位格を持つ唯一の神様なのです。「父」「子」「聖霊」は同じ本質を持った方ですから、聖霊が私たちに与えられ、私たちと共にいてくださるということは、「父なる神様」も「子なるイエス・キリスト」も共にいてくださるということでもあるのです。
 ですから、イエス様は十字架にかかる前に弟子たちに、「私はあなたを離れず、あなたを捨てない」「世の終わりまでいつもあなたと共にいる」と約束してくださったのです。そして、その約束は、私たちの立派な行いや努力によるのでなく、信仰を持って聞いたときに聖霊が与えられて実現した、とパウロは語っているのです。
ですから、福音に生きるとは、イエス様によって赦され、義と認められるだけでなく、さらに、御霊が与えられ、いつも主が共にいて私たちを守り、教え、導き、主と同じ姿に変えていってくださることなのです。つまり、クリスチャンになってからも私たちは、自分の努力や行いによってではなく、御霊に従い、御霊に信頼しながら歩んで行く者たちなのです。
 ところが、ガラテヤ教会の人たちは、その聖霊の働きにお任せすることができずに、自分の力で律法を守りながら信仰生活をすべきではないか、と言い始めました。そこで、パウロは、
「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」と非難しているのです。
 私たちの信仰生活にも、同じようなことが起こります。立派なクリスチャンになるために、信仰を強くするために、もっと神様の祝福を受けるために、自分で努力しなければならないと思ってしまうのです。そして、次第に肉によって、つまり、自分の力で信仰を完成させようとし始めるのですね。
 また、逆に、私の信仰は立派でもないし、弱いし、頼りないし、きちんとした信仰生活ができないから、このままではクリスチャン失格になってしまうのではないか、と不安を持ってしまうこともあります。
 信仰が熱心なのは、もちろん悪いことではありません。しかし、ともすると、自分の信仰の熱心さが信仰生活を測る物差しのようになってしまうことがあるのです。そして、いろいろな出来事が起こったとき、自分の信仰の度合いによって判断してしまうことがあるのです。物事がうまくいけば、自分に信仰があったからだと思い、物事がうまくいかないと自分の信仰が弱いからだとか不信仰だからだ、と落ち込んでしまうのです。自分の信仰の出来不出来が人生の完成に影響があるように錯覚してしまうのです。それでは、パウロに「御霊で始まったあなたがたは、肉によって完成していようとしていませんか」と言われてしまうでしょうね。
 パウロは、「あなたがたのクリスチャン生活は、御霊で始まった」と記していますね。それは、「あなたがは信仰もって聞いたとき御霊を受けましたね。その信仰さえも御霊があなたに備えてくださっているものなのですよ。あなたが福音を聞いたときに、あなたに光を照らしてくださったのは御霊なる神様の働きなんですよ。あなたの信仰生活の出発は、御霊の働きから始まっているのですよ」ということです。これは本当に大切な真理なのです。
 パウロは、「私はキリストに捕らえられた」という表現をよく使います。パウロは、自分が立派な信仰をもって熱心にキリストを信じたからクリスチャンになったのだとは決して言いません。それどころか、彼は、クリスチャンたちを迫害していたのです。自分がクリスチャンになりたいと願っていたわけではありませんでした。ですから、パウロは、「自分がクリスチャンになったのは、ダマスコの途上でキリストに捕らえられたからだ」としか言いようがなかったのです。自分の信仰ではなく、キリストが一方的な恵みによって捕らえてくださったから、今の自分があるのだということをよく知っていたのです。
 私たち一人一人も、自分で求めて信じたのだと思っているかも知れませんが、実は、聖霊が導いてくださり、キリストによって捕らえられたのです。
 ですから、信仰に生きるとは、自分がイエス様の手を握って離さないように一生懸命に頑張る生き方ではありません。キリストの方で、私の手をしっかりと握っていてくださるのです。私たちにどんなことがあっても、私たちがどんなに落ち込んでも、キリストは決して手を離すことはありません。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」というキリストの言葉を信頼していくのです。そのために、福音の真理を聖書から聞き続けていきましょう。
 そして、5節に、「あたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方」とありますね。神様は、一人一人に信仰を与え、御霊を与え、奇跡を行ってくださいます。信仰をもってみことばを聞き続けるとき、主の奇跡のみわざが現されることを期待して、今週も歩んで生きましょう。