城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年二月一四日             関根弘興牧師
                 ガラテヤ三章六節~一四節
 ガラテヤ人への手紙連続説教7

   「信仰による人々」

6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。10 というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。12 しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(新改訳聖書)


ガラテヤ教会には、「キリストを信じるだけでは足りない。異邦人もユダヤ人と同じように旧約聖書の律法を守らなければならない」と教える人々が入り込んできました。そこで、パウロは、前回の箇所では少し感情的になって、「ああ愚かなガラテヤ人」と呼び、「あなたがたは、神様の御霊の働きによって、ただ福音を信じることによって救われたのに、なぜ今、律法を守らなければならないと言って、自分の肉の行いで救いを達成しようとしているのか。それは間違っているし、愚かなことだ」と厳しく指摘しました。
私たちは、自分の力で神様の律法を完璧に守って救いを得ることは決してできません。けれども、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださったことによって私たちの罪は赦され、義と認められるのです。「義と認められる」というのは、前にもご説明したように、「正しい者と認められ、神様とまっすぐな関係を持つことができるようになる」ということです。また、キリストは三日目に復活することによって、ご自分がまことの救い主であることを示してくださいました。そのキリストの十字架と復活の福音を聞いて信じる人々は、聖霊が与えられ、神様と共に生きる者に変えられるのです。
 そして、パウロは、ガラテヤ教会の人々にこう語っています。「あなたがは福音を聞いて信じましたね。信じることが出来たのは、御霊の助けがあったからなのですよ。そして、御霊は、信じたあなた方の内に宿ってくださって、救いのわざを成し遂げてくださるのです。つまり、あなたがたの信仰と救いは、自分の力や行いによってではなく、御霊によって始まり、御霊によって完成させられるものなのです。」
 パウロは、「人は、律法の行いによってではなく、信仰によって義と認められる」ということをガラテヤ教会の人々に何とか理解してほしいと願っていました。そして、今日の箇所では、「信仰によって義と認められる」ということが、旧約聖書にも教えられていることを示すために、ユダヤ人が最も尊敬しているアブラハムを例に出して説明しているのです。

1 アブラハムについて

 アブラハムは、旧約聖書の最初の創世記に登場する人物で、ユダヤ人の先祖です。紀元前千九百年頃の人で、ユダヤ人たちからは「国民の父」と呼ばれ、また、「神のしもべ」「神の友」とも言われた人物です。ユダヤ人にとって「私たちはアブラハムの子孫である」という名乗ることが大きな誇りでした。
 創世記には、まず、神が天地とすべてのものをお造りになったこと、その後、人が神様に背いて罪と死に支配された状態に陥ってしまったことが書かれています。しかし、神様は、人を愛しておられたので、救いの計画を開始されました。そして、まず、アブラハムという人物を選ばれたのです。
 神様は、アブラハムにこう言われました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」つまり、神様は、アブラハムに「もしあなたがわたしを信じて従えば、すべての人々に祝福をもたらす存在になることができる」と約束なさったのです。
 しかし、アブラハムにとって生まれ故郷を離れるのは大きな決断でした。現代の私たちには簡単なことに思われるでしょうが、アブラハムの時代は、まったく事情が違っていました。
 故郷を離れるということは、故郷で得た様々な地位や権利を放棄することを意味していました。今でいうなら市民権を放棄するようなものです。生活を保証してくれる基盤となるものを一切捨てて出て行くということです。それは、不安定な放浪生活の始めるということでした。
 また、それは、親族から離れる決断でもありました。当時は、警察などありませんでした。自分の命や財産を守ってくれのは親族でした。親族が力を合わせて互いに守り合っていたのです。その親族を離れるということは、今まで自分を保護してくれた人々から離れることを意味していました。
 そして、父の家から離れるというのは、父の家の宗教から離れるということでもありました。ユダヤの伝承では、アブラハムの父親は、月の神シンの偶像を彫って、それを売って生計を立てていたと言われています。アブラハムは、その先祖伝来の家の宗教から離れるという決断をしたわけです。
 アブラハムは、勇気をもって神様に言われた通り、生まれ故郷を出て行きました。しかし、そんな大胆な行動をとったその時に、神様が「アブラハムを義と認められた」とは、ひとことも書いていないのですね。
 さて、アブラハムが神様の示す地に到着したとき、そこにはバラ色の生活が待っていたでしょうか。いいえ、それどころか、大飢饉が起こったのです。私だったら、すぐ文句を言うと思います。「神様。冗談じゃないですよ。約束が違うじゃないですか。あなたの言うとおりに従ったのに、祝福どころか飢饉ですよ」と。
 アブラハムは、飢饉を逃れて、当時の大都会であるエジプトに下って行きました。その途中、彼は考えました。「妻のサラは美人だから、エジプトの男たちが私を殺してサラを奪おうとするかもしれない。そうだ。サラを妹だと言えば、大丈夫だろう。」彼はエジプトに着くと、サラを自分の妹だと紹介しました。彼女は非常に美人でしたので、宮廷に召し入れられてしまいました。エジプトの王様は大変喜び、彼女のためにアブラハムによくしてくれ、沢山の物を与えてくれたのです。アブラハムは財産家になりました。しかし、アブラハムはどんな思いだったでしょうか? 妻のことでジレンマに苦しんだはずです。 しかし、神様は、アブラハムの妻のことで、エジプト王の家にひどい災いを下されました。それで、彼女が本当はアブラハムの妻であることがエジプト王に知られ、サラはアブラハムの元に戻されました。神様がアブラハムを失敗から救い出してくださったのですね。
 アブラハムたちはエジプトを離れて、再び神様が示された地に戻ってきました。さあ、再出発です。今度こそ、すばらしいことが待っているに違い、と普通なら期待しますね。しかし、またしても期待はずれなことが起こりました。
 アブラハムは、甥のロトを連れていました。ロトは、自分の得になることを優先するタイプの人だったようです。アブラハムもロトも豊かになって多くの家畜を持っていましたが、そのためにアブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間で争いが起こったのです。貧しい時には助け合っていたのに、互いに豊かになってくると、かえって争いが起こるのですね。皮肉なものです。そこで、別々の場所に離れて暮らすことになり、ロトは、よく潤っているヨルダンの低地に移って行き、その後、ソドムの町に住むようになりました。
 ロトが去っていってから、神様は、アブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と約束なさいました。アブラハムは「これで一段落。落ち着いて生活ができるぞ」と思ったに違いありません。
 しかし、またもや問題が起こりました。その近辺の王たちが連合軍をつくり、ソドムやゴモラの町を略奪し、甥のロトも家族や財産もろとも連れ去られてしまったのです。その知らせがアブラハムのところに届きました。アブラハムは悩みました。相手は連合軍で、大軍勢です。しかし、アブラハムは、自分のしもべたち三百十八人を召集し、大軍勢に奇襲攻撃をかけました。そして、見事に、ロトたち家族とその財産を取り返したのです。大変な喜びでした。人間誰しもそうですが、すごい手柄を立てた後は興奮して気分がいいものですね。
 でも、その後すぐに、アブラハムは恐怖に襲われました。「あの連合軍が復讐しようと襲って来たらどうしよう」と恐れたのです。そうしたら、自分たちはひとたまりもない。そう考えると目の前が真っ暗になったことでしょう。そうなると否定的な考えばかりが浮かびます。「ああ、もう駄目だ。それに私は、もう九十歳だ。神様は私の子孫を地のちりのように増やすと言われたけれど、これから子どもが生まれるはずがない。結局、神様の約束は実現しないのではないか」と思ったのです。
 しかし、そんな恐れと不安でいっぱいな時に、神様は、アブラハムにこう言われました。「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。」つまり、神様は「わたしがあなたの盾になって、あなたを守るから心配するな」と言われたのです。 また、神様は、アブラハムを外に連れ出して言われました。「アブラハムよ。あの天にある無数の星を見なさい。あなたの子孫は、あの星のように数え切れないほどに増える」と。
 アブラハムは、神様の言葉に励まされ、満天の星を見上げているうちに神様に信頼する思いが与えられました。自分の状況を見たら、すべてが不可能のようにしか思えません。しかし、創世記15章6節に「 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。アブラハムは、神様の約束を信じたことによって、義と認められたというのです。
 パウロは、今日の6節でこの箇所を引用して、「あなた方が尊敬するアブラハムも、信仰によって義と認められたではありませんか」と言っているわけです。その時、アブラハムは落ち込んでいました。アブラハムは、品行方正で、すべて完璧に行っていたから義と認められたのではありません。特別な儀式や伝統を守ることによって義と認められたわけでもありません。なく、弱く、疲れ、恐れに満ちていたときに、ただ神様の言葉を信じて義と認められたのです。
 神様は、弱く迷い恐れる私たちに、ご自分のほうから「恐れるな。わたしがあなたの盾になって、あなたを守ってあげるから、わたしを信頼しなさい」と語りかけてくださる方です。その声に対して「信じます」と応答する信仰によって、私たちは、神様とのまっすぐな関わりの中に生きることができるのだと、パウロは語っているわけです。

2 アブラハムの子孫と祝福

 パウロは、続けて7節で「信仰による人々こそアブラハムの子孫なのだ」と言っています。また、9節では「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」と書いていますね。
 ユダヤ人は、アブラハムの肉の子孫である自分たちが神様の祝福を受けるのだと考えていました。だから、異邦人は自分たちと同じようにならなければ祝福を受けることはできないと考えていたわけです。しかし、パウロは、「そうではない。ユダヤ人か異邦人かに関係なく、神様の言葉を信じるすぺての人は、アブラハムの子孫であり、祝福を受けることができるのだ」と言っているのです。
 また、ユダヤ人は、「自分たちイスラエル民族は、神様の命令に従って割礼を受けている。それは、自分たちが神に選ばれた民であるという証拠だ」と誇りを持っていましたが、パウロは、この手紙の最後の方の6章15節ー16節で、こう書いています。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」つまり、「からだに割礼を受けているいないは大事ではない。イエス・キリストを信じて新しく造りかえられた人々こそ、本当の意味で神に選ばれた人々、神のイスラエルなのだ」というのです。
 ですから、ユダヤ人であるかどうかに関係なく、人種や民族に関係なく、信仰に生きる人々は皆、義と認められ、神のイスラエルとして、神様の祝福を受けることができるのです。そして、「そのことを示すために、神様はアブラハムに『あなたによってすべての国民が祝福される』という福音をあらかじめ告げておられたのだ」とパウロは8節で説明しています。
 ところで、「祝福」とは何でしょうか。
 私たちは言葉の意味を自分勝手に解釈してしまうことがよくありますね。「祝福」という言葉も、宝くじが当たるとか、すべてが順調に進むような意味だと考えるわけです。
 しかし、ヘブル語で「祝福」という言葉は、「ひざまずく」という言葉から派生した言葉です。つまり、人が神様の前にひざまずくこと、いつでもどこでも自由に礼拝をささげつつ生きることができること、それが祝福の姿だと聖書は教えているのですね。今日ここに集う私たち一人一人も、神様から祝福を受けています。それは、神のみ前に義とされ、神様とのまっすぐな関わりの中に生かされ、自由に神様を礼拝することが出来る者とされているということを意味しているのです。
 それが、信仰によってアブラハムの子孫、神のイスラエルとなった私たちに与えられた祝福なのです。

3 律法とのろい

 さて、今日の箇所では、「信仰による人々」に対して「律法の行いによる人々」、「祝福」に対して「のろい」という言葉が出てきますね。パウロは、9節で「信仰による人々は祝福を受ける」と書いていますが、次の10節では「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにある」と書いています。これは、どういう意味でしょうか。
 旧約聖書の申命記27章ー30章には、「律法を守り行うなら祝福されるが、律法に背くならのろわれる」ということが、繰り返し書き記されています。確かに律法は、守ることが出来れば、祝福へとつながります。
 前にもお話ししましたが、律法全体は二つの戒めに要約できます。一つは、申命記6章5節の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めで、もう一つは、レビ記19章18節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と戒めです。これを完全に守ることができれば、祝福されるのです。
 しかし、律法を完全に守ることの出来る人がいるでしょうか。一人もいません。パウロは、そのことをよく知っていました。彼は、厳格なユダヤ教のパリサイ派の一人として、「律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3・6)と自負するほど、誰よりも熱心に律法を守り行うことに励んだ人だったからです。彼は、どんなに熱心に行っても、律法を守り通す生活などできないことを痛感していました。
 ですから、パウロは、「律法の行いによって祝福を受けようとしても不可能だ。かえって、のろいを受けるだけだ。なぜなら、いくら頑張っても、人間は律法を守り通すことなどできないのだから」と言うのです。律法を守ろうとするとき、人は、かえって律法を守るできない自分の弱さを知り、自分がのろいのもとにあることを知るのです。
 だから、パウロは、何としてももう一度福音に立ち帰って欲しいと願っているわけです。そして、11節でハバクク書2章4節の言葉を引用して「義人は信仰によって生きる」、つまり、神様の前に義と認められ、祝福を受けるには、信仰によるしかないのだ、ということをあらためて強調しているのです。

4 キリストの贖い

 そして、13節ー14節でパウロは、こう書いています。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」
 キリストは十字架につけられました。このことをユダヤ人たちは、非常に汚れたことと見ていました。旧約聖書の申命記21章23節に「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。ですから、ユダヤ人たちは、十字架につけられて「のろわれたもの」となったイエスを救い主だと主張する者たちを許せないと考えたわけです。
 かつてのパウロもその一人でしたね。しかし、復活したイエス様と出会うことによって、パウロがそれまで考えていた十字架の意味は一変しました。イエス様が十字架につけられたのは、私たちが受けるべきすべての律法ののろいを身代わりに背負ってくださったということなのだ、とパウロは知ったのです。
 キリストが自分を律法ののろいから贖い出してくださったと知ったとき、パウロはどれほど大きな喜びを味わったことでしょう。彼は、一生懸命戒めを守り、自分を神の前に正しい者として生きようと考えてきました。しかし、結局、律法を守れないことからくる恐れとのろいから解放されることはなかったのです。しかし、イエス様が自分の受けるべき罪の罰ものろいもすべてを背負って十字架についてくださったと知って、そのことを単純に信じ受け入れたとき、パウロは、赦しの恵みに満たされていったのです。
 あの宗教改革者のマルティン・ルターは、以前はカトリックの修道僧として、誰よりも熱心に修行に励んでいました。彼は「もし修行によって義と認められるなら、私は第一番に義と認められる者だろう」と言った、と伝えられているほどです。そのルターが「どんな熱心な修行によっても人は神の前に義と認められない」と痛感するようになりました。そして、今日の聖書の箇所を読んで目が開かれ、「義と認められるのは、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのだ。ただ、キリストの恵みによって信仰により救われる以外に道はない」と悟ったのです。ルターは今日の箇所を通して福音を再発見させられたのですね。
皆さん、私たちは、神のみまえで罰を恐れ、のろいを恐れる人生を生きるのではありません。なぜなら、イエス様が、十字架によって、すべてののろいから私たちを解放してくださったからです。そして、イエス様は、復活を通して、死を打ち破るいのちがあることを示してくださいました。それだけでなく、信じる人々にそのいのちを与え、聖霊を与えてくださっているのです。14節に「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」とあるとおりです。

 私たちは、信仰によって神様の祝福を受けて生きています。神のイスラエルとされていることを喜び、律法や難行、苦行によって生きるのではなく、神様を心から賛美礼拝する祝福された民とされていることを覚えて歩んでいきましょう。