城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年二月二一日             関根弘興牧師
                ガラテヤ三章一五節~二九節
 ガラテヤ人への手紙連続説教8

  「取り消されない約束」

15 兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。20 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一者です。21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。23 信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。25 しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(新改訳聖書)


 これまでもお話ししてきましたように、ガラテヤ人への手紙のテーマは、「人は、律法の行いによってではなく、信仰によって義と認められる」ということです。「人は自分の力で神様の律法を守ることができない。しかし、私たちのために十字架にかかり復活なさったイエス・キリストを信じるなら、義と認められて、神様との関係が回復し、聖霊が与えられ、神様がいつも共にいてくださるようになり、神様に祝福された生活を送ることができるようになる」というのですね。
 ところが、ガラテヤ教会の中に「信仰だけでは足りない。神様から与えられた律法の戒めも守らなくてはならない」と教える人々が入り込んで来たので、パウロは「そうではない。ただ信仰によって義と認められるのだ」と繰り返し書き記しました。
 そして、そのことを説明するために、前回の箇所では、ユダヤ人の先祖であるアブラハムを例に出して説明しましたね。
 アブラハムは、何か立派なことをしたときにではなく、神様の約束を信じた時に義と認められました。パウロは、「あなたがたの尊敬するアブラハムも信仰によって義と認められ、祝福されたではないか。ユダヤ人か異邦人かに関係なく、アブラハムと同じように神様の約束を信じる人々は、だれでもアブラハムの子孫であり、アブラハムと同じように義と認められ、祝福されるのだ」と語ったのですね。
 今日の箇所はその続きです。
 今日の中心的なテーマは17節に書かれています。それは「先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがない」ということです。神様がアブラハムと結んでくださった契約と律法との関係が今日の箇所で説明されているのですね。詳しく学んでいきましょう。

1 神によって結ばれた契約

 前回もお話ししましたが、神様は、人を罪と死に支配された滅びの状態から救い出すために、救いの計画をお立てになりました。そして、まず、アブラハムを選び、アブラハムの人生を通して、「信仰によって義と認められる」ことを示されたのです。そして、神様は、アブラハムを祝福するという契約を結んでくださいました。それが、17節にある「神によって結ばれた契約」です。その契約はどのようなものでしょうか。

①一方的な恵みの契約

 普通、契約は対等の者同士が対等の条件で、相互に対等の義務を果たすギブ・アンド・テイクの関係を結ぶものですね。しかし、神様は、私たちに対して普通ではない契約を結んでくださいました。私たちがすべきことは、ただ神様のことばを信じることだけです。それ以外に何もする必要はありません。信じるだけで、神様が一方的に豊かな祝福を相続させてくださるというのです。

②永遠に変わることのない契約

 そして、神様は、正しく誠実な方ですから、その契約を破ったり廃棄したりなさることは決してありません。15節に「人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません」と書いてありますね。ここで人間の「契約」とありますが、これは「遺言」とも訳せる言葉です。つまり、人間の遺言でも、決して変えられないとするなら、それよりもはるかに優る神様の契約は、どんなことがあっても決して無効になったり変更されたりすることはないのですよ、とパウロは言うわけです。私たちがどんなに失敗しても、つまずいても、落ち込んでも、神様の約束は決して変わることがないのです。

③アブラハムとその子孫への契約

 創世記17章7節で、神様はアブラハムにこう言われました。「わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。」つまり、神様は、アブラハムだけでなく、その子孫とも契約を結んでくださったのです。
 そのことを指して、パウロは16節で、「約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」と書いているのです。神様が契約を結ばれたアブラハムの子孫とは、イエス・キリストのことだというのですね。なんだか、ちょっとむずかしいですね。
 実は、ユダヤ的な考え方の中に、「代表的人格」という考え方があります。たとえば、パウロは、ローマ人への手紙5章17節-18節にこう記しています。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」 つまり、初めの人アダムが全人類の罪の代表者として書かれ、また、イエス・キリストがいのちを得させる新しい人の代表者として書かれているのですね。
 今日の箇所もそれと同じような書き方がされていて、パウロは、「神様が約束を告げてくださったアブラハムの子孫というのは、私たち人間の代表者としてのキリストのことです。そして、キリストは私たちの代表者ですから、その神様の約束は、キリストを信じる私たち一人一人にも与えられているのですよ」という意味のことを伝えようとしているのですね。
 この神様の祝福の約束が、22節の後半にあるように「イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられる」のですが、ここで「イエス・キリストに対する信仰によって」と訳されている言葉は、「イエス・キリストの信仰によって」、あるいは「イエス・キリストの真実によって」と訳すこともできます。つまり、私たちが自分の力で信仰を持つというのではなく、イエス様が私たちのために信仰さえも備えてくださった、イエス様の私たちへの真実がいつも与えられているからこそ、この約束は無効にならない、という意味があると理解していただきたいのです。キリストが私たちに真実を尽くしてくださるからこそ、私たちは安心してキリストを信頼し、信仰に生きていくことができるということなのですね。

2 律法の役割

 さて、その神様の契約と対照的に書かれているのが律法です。 律法は、神様がアブラハムと結ばれた契約から四百三十年後にできた、と書かれていますね。
 アブラハムの死後、子孫がたくさん増えてイスラエル民族ができました。ある時期、彼らはエジプトで奴隷生活を送っていましたが、モーセによってエジプトから脱出します。その時、神様はシナイ山で律法をお与えになりました。律法の内容は、神様と人との関係、また、人間同士の関係が正しく保たれるために必要なものでした。そして、神様は「この律法を守れば、あなたがたは祝福される」と約束なさったのです。イスラエルの民は、「わかりました。あなたの律法を守って生活します」と約束しました。しかし、結局、律法に背くことを繰り返してしまうのです。その結果、わかったことは、神様の律法を完全に守れる人は誰一人いないということでした。
 では、誰も神様の祝福を受けることができずに滅んでいくしかないのでしょうか。いいえ、そうではありません。パウロは、「先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがない」とはっきり書いていますね。律法は神様ご自身がお与えになったものですが、その律法でさえも、神様がアブラハムと結んだ契約を取り消したり無効にすることはないのだというのです。
 では、なぜ、神様は、わざわざ律法をお与えになったのでしょうか。律法には、どんな意味があるのでしょうか。パウロは、今日の箇所で、律法の役割を説明していますね。

①違反を示すため

 まず、19節に「それは、約束をお受けになったこの子孫が来られるときまでで、違反を示すために付け加えられた」と書いてあります。また、22節には「律法は逆にすべての人を罪の下に閉じこめました。それは、約束がイエスに対する信仰によって信じる人々に与えられるためです」とあります。
 救い主キリストが来られる前に、まず人々にキリストを受け入れる準備をさせる必要がありました。そこで、「あなた方は違反している状態ですよ。罪の支配から抜け出せない状態ですよ」ということを人々に示すために律法が与えられたというのです。つまり、律法を通して人は自分が神様の要求を満たすことの出来ない弱い罪ある存在だということを悟ることができ、それによって、救い主が必要であることを知ってイエス・キリストを信じることができるようになるということなのです。
 皆さん、この世の法律のことを考えてみてください。何か悪いことをしても、それが法律の規定になければ違反とはなりません。しかし、法律に規定があれば、違反として罰せられます。法律があるから、何が違反で何が違反でないかがわかるわけですね。同じように、律法は、私たちが神様の基準に違反している状態であることを教えてくれるのです。
 また、病気になったとしましょう。もし、病気であるという自覚がなければ、そのまま何の治療も受けずに、悪化して死に至ることもあるでしょう。しかし、病気だとわかったら、治療を受けますね。それと同じように、律法は、私たちが本来あるべき状態からずれていることを自覚させ、解決する必要があることを教えてくれるのです。
 時々、こう言われる方がいます。「先生、聖書を読んだのですが、全然駄目です。自分にはとても実行することなどできません。」もしそう感じたら、たいへん健全な聖書の読み方をしているのです。聖書の基準を自分の力で満たそうとしてもできないのは、あたりまえだからです。ですから、聖書を読んで、大いに落ち込む人は幸いな人なのです。
 イエス様は、「心の貧しい者は幸いです」と言われましたね。「心が貧しい」とは、もう神様以外に頼ることができない状態という意味です。自分がそのような状態だと自覚した人こそ幸いだとイエス様は言われたのです。自分が駄目だ、罪人だと絶望したときから、人はその解決である救いの道を求めて始めるからです。「私は救われる必要がない」と思っている人は救いを求めません。イエス様が「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です。わたしは罪人を招くためにきたのです」と言われた通りです。

②キリストに導く養育係

 そして、24節には「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」と書かれています。律法は、私たちをキリストに導く働きをしている、つまり、「律法を守ろうとしても自分にはその力が無い。だから、義と認められるためには、キリストを信じるほか道はない」ということを悟ることができるように導いてくれるというのです。
 ですから、すでにキリストを信じることのできた人々には、律法は必要なくなりますね。ですから、パウロは25節で、「信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません」と言っているのです。また、パウロは、ローマ6章14節で「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」と書いています。「あなたがたは律法に養育される必要はなくなった。なぜなら、キリストを信じることによって神様の恵みを受け取ることのできる者になったのだから」というのです。
では、信じる私たちにとって、律法は、もはや必要なくなったのでしょうか。
 実は、これはこの手紙の後半のテーマとなるのですが、恵みの下に生きる私たちには、キリストの律法が与えられているというのです。それは、「互いに愛し合いなさい」という律法です。
 ただし、その愛の律法を守ることは、義務ではなく、救いの条件でもない、ということをパウロは繰り返し強調しています。キリストを信じ、聖霊が内に住んでくださることによって、私たちは、結果として互いに愛に生きる者へとされていくのです。救いを得るために愛し合わなければならない、というのではなく、信仰によって救われた結果として互いに愛し合うということが始まるのです。私たちは、このことをしっかりとわきまえた上で、この手紙を読んでいきたいですね。

3 信仰の結果

 さて、信じた私たちは、養育係である律法の下から、恵みの下に移されたわけですが、それはどのような状態になったということなのでしょうか。

➀神の子ども

まず、26節に「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」と書かれています。
すでに天に召されましたが、保田さんという方が二十年以上前に八十五歳で洗礼を受けられました。洗礼準備会をしている時に、「保田さん、イエス様を受け入れた人は、神の子としての特権を与えられたのですよ」と説明しますと、保田さんは、深々と頭を下げて、「それは、天皇家に生まれるより、どんな貴族の家に生まれるより、ありがたいことです」と言われたのです。信仰によって私たちは、神様に愛されている子どもとして、神様に親しく「お父さん」と呼びかけながら生きていくことができる者にされたのです。

②キリストを着た

それから、27節には「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」とあります。キリストが私たちを覆ってくださっているというのです。不思議なもので、何を着るかによって気分や行動は変わりますね。ブランド品を身につけることに喜びを感じる人はたくさんいます。しかし、私たちは、イエス・キリストという世界最高ブランドを生涯身につけているのです。キリストの愛に覆われているのですから、自信を持ってくださいね。

③キリストにあって一つ

 また、28節には、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」と書かれています。当時、ローマ帝国には大勢の奴隷がいました。奴隷は「話をすることができる道具」として扱われていました。女性も人数に数えられない時代でした。そんな時代において、「あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだ」とパウロは語りました。神の子どもとなった人々の間では、すべての壁は取り払われているのだというのです。
 ただし、この「一つ」というのは、みんな規格が統一された同じような人間になる、という意味ではありません。互いの個性や違いを持ちつつ、キリストによる調和の中に生きるということなのです。
 「キリストにあって一つ」という言葉は、「キリストにあってひとり」と訳すこともできます。パウロは、教会をキリストのからだとして表現することがたびたびありました。からだは一つですが、各器官はみな違います。それぞれ機能や役割の違う器官がきちんと組み合わされて、自分の働きを果たしながら互いに仕え合うことによって、からだの健康が保たれます。
 それと同じように私たちも、互いの役割は違いますが、不要な人など誰もいません。それぞれが個性を発揮しながら「キリストにあって一つ」とされているのです。
 キリスト抜きに一つになることはできません。性格や気分や趣味や嗜好が同じだから集まっているのではありませんから、当然、意見や考え方の違いもあるでしょう。しかし、そうした違いがあるからこそ、教会がからだとして健全さを保つことができるし、バラエティーに富んだ働きをすることができるのですね。ですから、人と比べて一喜一憂したり、違いがあるからといって裁き合うのではなく、互いの違いを認め合いながら、キリストにあって一つとされている仲間であることを感謝していきましょう。

④アブラハムの子孫、約束による相続人

 そして、29節では、私たちは、アブラハムの信仰を継承する子孫であり、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ相続人とされていると書かれていますね。神様の豊かな祝福が約束されていることを喜びつつ、今週も歩んでいきましょう。