城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年三月六日              関根弘興牧師
                 ガラテヤ四章一節~一一節
 ガラテヤ人への手紙連続説教9
  「神の子として生きる」

1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、 2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。10 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。11 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。(新改訳聖書)

これまでも毎回お話してきましたが、ガラテヤ人への手紙のテーマは、「人は、律法の行いによってではなく、信仰によって義と認められる」ということです。しかし、ガラテヤ教会の中には「信仰だけでは足りない。異邦人もユダヤ人と同じように神様から与えられた律法の戒めを守らなくてはならない」と教える人々が入り込んで来たのです。
 そこで、パウロは「そうではない。ただ信仰によって義と認められるのだ」とこの手紙の中で繰り返し書き記しています。そして、その根拠として、ユダヤ人の先祖アブラハムを例に挙げて説明しています。
 アブラハムは創世記に登場する人物です。神様は、すべての人々に救いをもたらすために、まずアブラハムを選び、「あなたとあなたの子孫を祝福する。あなたの子孫は空の星のように増える」と約束なさいました。そして、アブラハムがその神様の約束を信じた時、「主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。パウロは、この箇所を引用して、「あなたがたが尊敬するアブラハムも、立派な行いをしたからではなく、ただ信仰によって義と認められ、神様の祝福を受ける者とされたではありませんか」と説明しました。
 また、それから四百三十年後に、アブラハムの子孫であるイスラエル民族に神様の律法が与えられましたが、前回お話ししましたように、その律法というのは、人が誰一人として律法を完全に守ることのできない罪人であることを気づかせるためのものだったのです。律法を守ろうとしても守れない自分に気づくことによって、自分が無力で、罪の中に捕らわれていること、神様に救っていただく必要があること、そして、救い主が必要であることがわかるようになるというのです。ですから、パウロは、3章24節で「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」と書いているのです。
 そして、パウロは、「律法を守れないからといって、アブラハムとその子孫に与えられた祝福の約束が、無効になったり取り消されることなど決してありません。アブラハムのように信じて義と認められる人々こそ、まことのアブラハムの子孫であり、神様の祝福の相続人なのです」と説明しました。
 今日の箇所は、その続きです。
 神様の祝福の約束は、神様の定めた日に、神の御子であるイエス・キリストが人となって来てくださった時に実現しました。そのキリストを信じることによって、私たちの状態は大きく変わったのです。パウロは今日の箇所で、キリストが来られる前の状態とキリストが来られてからの状態を対比させて書いています。詳しく見ていきましょう。
 
一 キリストが来られる前の状態

 まず、キリストが信じる前は、どのような状態だったのでしょうか。今日の箇所の1節ー3節で、パウロは、当時のガラテヤ地方周辺の習慣を引用して説明しています。こう書かれていますね。「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。」
 私たちは「この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていた」というのですが、それは、どういう意味でしょうか。
 「幼稚な教え」とは、「一列に並ぶ」という意味があり、「初歩的な教えや知識」を意味する言葉です。
キリストが来られるまで、律法を与えられていたユダヤ人は、「律法の下にある奴隷」でした。また、律法を知らない異邦人は、8節にあるように「本来は神でない神々の奴隷」でした。「律法を守らなければ救われない」という教えも、「この世界は様々な神々の力に支配されている」という教えも、まことの神様の真理とはかけ離れた「この世の幼稚な教え」だとパウロは言うのです。

1 律法の下にいる奴隷

 まず、「律法の下にいる奴隷」とは、どのような状態でしょうか。
 パウロは、ガラテヤ3章23節で「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした」と書いています。
 これは、パウロ自身が経験したことでした。彼は「律法による義を追い求めることに関しては、自分の右に出る者はいない」と自負するくらいに一生懸命律法を守ろうとして生きていました。しかし、その結果わかったのは、自分の力で律法を守って救いを得ることはできないということでした。そして、イエス様に出会って、信仰による救いの道があることを知ったのです。
 律法の行いでは救いはない、ただ、イエス・キリストを信ることによってしか本当の救いはない、ということを知った彼は、ガラテヤ教会の人々が「キリストを信じるだけでは足りない。律法の戒めも守らなくてはならない」という教えに惑わされている姿を見て、「あなたがたは、せっかく信じて自由になったのに、またこの世の幼稚な教えの奴隷に逆戻りするつもりですか」と警告しているのです。
それは、ガラテヤ教会だけでなく私たちに対する警告でもあります。
 私が聖書のお話をすると、ある方はこうおっしゃいます。「今日は、良い話を聞きました。でも、私なんかまだまだ未熟者ですからね、聖書の言葉のとおりに実践することなどできませんよ。」また、「私ももっと真面目にならなきゃね。でも、そんな立派に生きられませんけどね」という方もいます。私は、「もっと立派な行動をしなければいけないとか」「努力して良い生き方を実践しなければならない」などという話をしたつもりはないのですが、どうも、私たちは、「何かを一生懸命行うことが救いに繋がるのだ」という発想が自然に身に付いてしまっているんですね。ですから、クリスチャンになってからも、そのような考え方を引きずってしまっていることが時々あるのですね。調子がいい時は、自分の信仰が十分しっかりしているように感じるのですが、少し調子が悪くなると、イエス様が遠くに離れて行ってしまったかのように感じるのです。いつも自分が頑張って信仰を強くしなければならない、自分が頑張って神様に従わなければならないというように、自分の信仰、自分の行いが中心にあるのです。
 しかし、それは、パウロに言わせれば、「幼稚な教え」だということなんですね。
 また、10節ー11節には、「あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています」とパウロは記していますね。
 これは驚くべき言葉です。なぜなら、ユダヤの社会では、律法に基づいて、たくさんの儀式や祭りの日が定められていたからです。安息日も厳守されていました。
 ガラテヤ教会では、そのような律法に定められた日や祭日を守ることこそ神様に仕えることであり、それを守らなければクリスチャンとしては失格なのだ、という教えが入り込んでいたようです。パウロは、それに対してもはっきりと「否」を突きつけたのです。
 私たちは、日曜日に礼拝を捧げています。また、クリスマスやイースターをお祝いしますね。しかし、そういう各種の日を守ることは、救いの条件ではありません。義務でも強制でもありません。私たちは、毎日が主が造られた聖なる日であることを知っています。また、日曜日だけでなく、いつでもどこでも礼拝をささげていいのです。私たちが集まって礼拝をささげるのは、神様が礼拝を受けるにふさわしい方だからです。また、私たちが集まるとき神様が私たちのただ中にいてくださり、豊かな恵みを現してくださるからです。それは、義務や決まりではなく、喜びであり、私たちの神様への感謝の表れなのです。
 ただ、気を付けていただきたいのですが、パウロは、「各種の日と月と季節と年を守る」ことが悪いと言っているのではありません。それを救いの条件であるかのように強制したり、それを守らない人々は救われないとさばいたりすることが良くないと言っているのです。それは、律法の下で奴隷となっている状態なのだというのです。
 パウロは、ローマ人への手紙14章5節ー6節では、こう書いています。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」
 つまり、私たちは、「しなければならないからする」という奴隷状態から解放され、「主のためにしたいからする」という自由な判断をもって喜び感謝しつつ生きていくことができるようになったということなのです。ですから、「あの人は、これをするからだめだ」とか、「この人は、これをしないからだめだ」などと、互いに何かを強制したり、さばき合ったりしないようにしましょう。もう律法の奴隷ではないのですから。

2 本来は神でない神々の奴隷

 次に、「本来は神でない神々の奴隷」とは、どのような状態でしょうか。
 「幼稚な教え」の「幼稚」と訳される言葉には、「初歩」とか「基本」という意味の他に「天体」という意味もあります。
 当時、人がある星の下に生まれるとその運命からもはや逃れることは出来ないという信仰があったそうです。占星術、星占いに人の人生を左右させてしまう力があったのです。それは、今でも同じですね。 「私は不幸の星の下に生まれた」というような言い方がありますが、天体がその人を運命を握っていると考える人が昔も今もいるわけです。
 人間にとって最も大きな束縛は、宗教的な束縛だと言われます。「恐れ」という武器で人を束縛するのです。たとえば、不幸が続けば「あなたが神様の戒めを守らなかったからだ」と責め、「神様に従わなければ悪いことが起こるぞ」と脅します。とにかく「恐れ」を武器にして人を支配していくのです。私たちのこの社会の中でも、不幸な出来事が続くと「厄払いしたほうがいいのではないか」とか「先祖の供養が足りないのではないか」とか「先祖のたたりではないか」など恐れを感じさせて何かをさせようとすることがいろいろありますね。しかし、恐れを武器に人を束縛しようとする教えの百パーセントが聖書的でない、ということを覚えていてください。

二 キリストの到来後の状態

さて、私たちは、以前は、今お話ししたようなこの世の幼稚な教えの奴隷でした。しかし、4節ー5節にこう書かれていますね。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
 イエス様は、神の御子、つまり、神なるお方です。しかし、女から生まれた者、つまり、人となって来てくださいました。それは、神である方が私たちと同じ状態にまで降り来てくださったということです。
 ここに神様の大きな愛を見ることができますね。神様は、天の高い所から「お前たち、がんばれ」と声援を送るだけの方ではありません。溺れている人に、「今から泳ぎ方を教えるから、自分で泳いで戻ってきなさい」と言っても、その人は溺れ死んでしまうでしょう。自ら飛び込んで、溺れている人のところに行き、助ける必要がありますね。それが、イエス・キリストの姿です。助けてもらった人は、何と言うでしょう。「救ってくださって、ありがとうございました」のみですね。もし、助けられた人が「自分の力で助かったんだ。俺は力はすばらしい」と言ったらおかしいですね。
 イエス様は、自らが律法の下に来てくださり、私たち一人一人に代わって律法のすべてののろいを引き受けてくださいました。つまり、神様が定めた時にイエス様が来てくださり、十字架と復活によって、私たちを奴隷状態から解放し、新しい状態に移してくださったのです。
 5節の後半に、キリストが来てくださったのは、「私たちが子としての身分を受けるようになるためです」とありますね。また、ヨハネの福音書1章12節に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と書かれているように、イエス様を受け入れた人々は、神の子とされる特権が与えられたのです。もはや奴隷ではなく、自由な神の子とされるのですね。それでは、神の子としての人生とは、どのようなものでしょうか。

1 神様に「アバ、父よ」と親しく呼びかけることができる

 「アバ、父よ」というのは、子どもが父親に対して何のこだわりもなく無心に信頼して呼びかけるときに使われる言葉です。「子連れ狼」というドラマでは、息子が父親を「ちゃん」と呼んでいましたが、そういう感じですね。私たちは、いつでもどこでも遠慮なく、神様を「お父さん」と呼べるようになったのです。
 パウロは、ローマ 8章15節ー16節にこう記しています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
 聖書には、「神を恐れなさい」という言葉が繰り返し出てきますが、それは、神様に対して恐怖心を持ちなさいという意味ではなく、「神様をまことの神様として認め、崇め敬いなさい」という意味です。信仰生活の中で、神様を恐れ敬うことは大切です。しかし、神様は、私たちを恐怖に陥れるような方ではありません。もし私が説教で、「今、神様を信じないと、とんでもない不幸が襲ってきますよ」とか「礼拝を休んだから、神様の罰を受けますよ」というような説教をしたら、皆さんは、すぐに「それは違う」と思ってください。なぜなら、神様は「恐れ」を使って私たちを支配しようとしたり、人々を脅してご自分のもとに導こうとは決してなさらないからです。
 第一ヨハネ4章16節には「神は愛です」と書かれています。また、同じく4章18節には「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」と書かれています。私たちは、奴隷のように刑罰を恐れるのではなく、神様の愛の中で安心して神様に「お父さん」と呼びかけることのできる者とされたことをいつも覚えていましょう。

2 神に知られている

 それから、今日の箇所の9節に「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか」と書かれていますね。
 「キリストを信じた人々は、神を知っている、いや、むしろ神に知られている」というのですね。
 この「知る」という言葉は、単に「知識を持っている」というだけではなく、「体験的に知っている」という意味で使われています。私たちは、キリストを信じた時、聖霊が与えられました。それは、父、子、聖霊の三位一体の神様がいつも私たちの内にいてくださるということです。それによって、神様の愛や恵みに満ちた御性質を体験的に知ることができるようになったのですね。けれども、私たちが神様を知る以上に神様の方で私たちを知っていてくださるというのです。
 この「神に知られている」という言葉の中には、大切な三つの内容が含まれています。

①愛されている

「神に知られている」とは、「神様に愛されている」ということと同じ意味です。「神に知られているだって? やばい」という発想は捨ててください。知られている、ということは、神様が私のすべてをご存知の上で受け入れてくださっているということです。無条件に愛してくださっているのです。

②選ばれている

エペソ1章4節には、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストの内に選び、み前で清く、傷のないものにしてくださいました」とあります。世界の歴史の始まる前から、知られ、選ばれているというのです。そして、この選びは、どんなことがあっても揺らぐことがない永遠の選びという意味でもあります。皆さんは、こういう世界観をもって生きていますか。

③救われている

神に知られているということは、救いに入れられているということでもあります。愛される、選ばれる、救われる、とは、みな同じ内容を含んでいるのです。

 私たちが神様に知られているとはなんと幸いでしょう。私たちのすべてを知って愛してくださる方がいます。幼稚な教えから贖い出してくださるイエス様がいます。私たちは自由に「アバ父よ」と叫ぶことのできる神の子とされています。その保証として、聖霊が信じる一人一人に与えられているのです。
 ですから、無価値な幼稚な教えに逆戻りするような人生であってはなりません。逆戻りでなく、栄光の天を目指して前に向かって進む者とされていきましょう。