城山キリスト教会礼拝説教 二〇一六年三月一三日            関根弘興牧師
                ガラテヤ四章一二節~二〇節
 ガラテヤ人への手紙連続説教10
   「キリストが形造られるまで」

12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。(新改訳聖書)


ガラテヤ書を学んでいくと、二つの信仰生活のスタイルが見えてきます。
 一つは、儀式や伝統や戒めを守るなど、自分の行いによって信仰生活を全うしようとする姿です。パウロ流に言えば、「肉の行いで完成しようとする信仰生活」です。それは、一見熱心に見えるかもしれません。しかし、いつの間にか、主語が「神様」ではなく「自分」になってしまいます。自分の信仰、自分の頑張り、自分の努力が前面に出てくるのです。
 しかし、自分で救いを達成できるのなら、もはやイエス様は要らなくなってしまいますね。それに、そのような信仰生活を送っていると、調子が良いときは信仰があるように感じるでしょうが、様々な問題が起こると、とたんに「自分の信仰が足りないからだ」と自分を責めたり、「自分が駄目だから神様に見離されたのではないか」と落ち込んだりして、結局、信仰生活が辛いものになってしまうのです。自分の行いや熱心さを基準にしているからです。しかし、それは聖書が教えている本来の信仰の姿ではありません。
 もう一方の聖書が教えている信仰生活の姿は、主語が「自分」ではなく「神様」です。「神様が私を愛してくださる」とか「神様が私を信頼していてくださる」とか「神様が最善を成し遂げてくださる」というように、人生の主語が神様なんです。 詩篇の23篇には、「主は私の羊飼い」とありますね。主こそ私の人生を守り導いてくださる羊飼いですと告白しているのです。人生には、苦しいことや理不尽なこともたびたび襲ってきます。しかし、どんな状況にあっても、神様は私たちを愛してくださり、助けてくださり、私たちが神様を知っている以上に、神様の方で私たちを知っていてくださると告白しながら歩むのです。
先週学びましたが、4章9節に「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに」とありましたね。私たち一人一人は、神様に知られている、つまり、愛され、選ばれ、救われているのですから、安心して信仰生活を送ることができるのです。

1 私のようになってください

さて、ガラテヤ教会の人々は、最初は神様に救われ、神様に愛されている、と喜んで生活していたのに、いつのまにか人生の主語が「神様」から「自分」に変わってしまっていました。「あれをしなければいけない」「これを守らなければならない」と、肉の行いで信仰を完成しようとし始めていたのです。 そこで、パウロは、今日の箇所の最初に「お願いです。兄弟たち。私のようになってください」と呼びかけました。
 この「私のようになってください」というのは、「私と同じように、イエス・キリストによる救いを感謝し、人生の主である神様におゆだねして信仰の歩みをしていってください」という願いの言葉です。
 そういう意味で、パウロは、すべての人々に「私のようになってほしい」と願っていました。たとえば、「使徒の働き」を読むと、パウロは、捕らえられ鎖に縛られてアグリッパという王様の前に引き出されたとき、こう言いました。「王よ、そしてここにいる人たちよ。この鎖は別として、どうぞ私のようになってください」と。囚人のパウロが王様に対して「私のようになってください」というのがですから、傑作ですね。
 しかし、その一方、パウロは、自分自身について、ある時は「私は罪人のかしらです」と言いました。「私は最も小さい者です」とも言いました。以前、教会を迫害し神様に敵対していた自分の弱さや罪深さをはっきり自覚していたのです。
 また、今日の箇所に「私の肉体が弱かった」と書かれているように、何かの病を背負ってもいたようです。特に、最初にガラテヤに行ったときには、パウロは大変な病気にかかっていたようです。ある説によると、マラリヤ熱に冒されていたのではないかといいます。そればかりか、彼は生涯にわたって肉体的な弱さを持っていました。目が不自由だったとも、酷い頭痛持ちだったのではないかとも言われています。パウロは、決して自分の健康を誇れるような者ではありませんでした。
 しかし、パウロは、当時、ローマ帝国が支配する各地に積極的に出かけていって精力的に福音を宣べ伝えました。12節に「私もあなたがたのようになったのですから」と書いていますが、パウロは、福音を伝える時に、どのようにすれば相手に福音を理解してもらえるかということを常に考えていました。行く所どこにおいても、相手の立場に立って相手を理解しつつ、福音を語っていったのです。彼は、第一コリント9章20節ー22節でこう言っています。「律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては・・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」
 そのパウロがガラテヤ地方に伝道にいったとき、ガラテヤの人たちは、肉体の弱さを抱えていたパウロを、まるで神の御使いのように、それどころか、イエス御自身であるかのように、暖かく迎えてくれました。そして、イエス・キリストの福音を知った喜びを共に味わったのです。彼らは、自分の目をえぐり出してパウロに与えたいと思うほどの愛情を示してくれたというのですね。
 ところが、今はどうでしょう。15節でパウロは、「それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか」と嘆いていますね。いつの間にか教会にあったはずの喜びが失われ、イエス様の十字架と復活の感動が奪われ、赦されていることの感謝が消え、信仰生活がとても重く暗いものとなってしまっていたのです。
黙示録の2章には、エペソ教会に宛てたイエス・キリストの言葉が出てきます。「あなたは初めの愛から離れてしまった」という言葉です。エペソ教会は、迫害に耐えて信仰を守っていました。ところが、最も大切な愛の喜びが失われてしまっていたのです。ガラテヤ教会も同じですね。最初はキリストの愛を知って神への愛と互いの愛の中で喜び生きていたのに、いつの間にかその愛の状態から離れてしまっていたのです。ですから、パウロは声を大にして「私のようになってください。イエス様の福音を初めて聞いたときの喜びの状態にもう一度立ち返ってください」と訴えているのです。
 皆さんは、「私のようになってください」と言えますか。「そんなこと、とても言えません」という方が多いのではないでしょうか。「私のようになってはいけませんよ」とか、「私ではなく、あの人のようになってくださいね」と言ってしまいますよね。
 ですが、どんなに弱く欠点があっても、イエス・キリストに愛されていることを信頼して歩んでいるなら、その一点だけは自信を持って「私のようになってください」と語ることができる者にされているのです。

2 間違った熱心

 パウロは、以前、ガラテヤの人々に熱心に福音を伝え、その結果、ガラテヤ教会が誕生しました。そして、ガラテヤ教会の人々は、パウロを熱心に慕っていました。
 ところが今、ガラテヤ教会の中に間違った熱心さが入り込んで来たのです。パウロが17節に「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません」と書いていますが、ある人々が熱心に間違った教えを広め始めました。「イエス様を信じるだけでは駄目ですよ。割礼を受け、律法の戒めの通りに各種の日や月や季節をきちんと守らることが、最終的な救いにつながるのです」と熱心に教えたのです。そして、その教えに翻弄された人々は、いろいろなことを守り行うことによって自分の信仰を維持しようと熱心に行い始めました。
 しかし、それは、今日、最初にお話ししましたように、「肉の行いで完成しようとする信仰生活」であって、一見熱心で素晴らしいものに見えるかもしれませんが、主語が「神様」ではなく「自分」になってしまっているのです。ガラテヤ教会の人々は、自分の力で救いは得られないということがわかったからこそ、ただ神様の恵みによって与えられた救い主イエスを信じて救われたにもかかわらず、また、自分の力で救いを得ようとし始めたわけですね。それは、福音の本質を揺るがす間違った熱心さなのです。
 皆さん、間違った熱心さは、たいへん危険なものであることを聖書は教えています。「熱心」という言葉は、ギリシャ語では、「沸騰する」という言葉から派生したそうです。水が熱せられると、ぼこぼこと沸騰しますね。ガラテヤ教会は、その沸騰したお湯で、つまり間違った熱心さによって大やけどする危険があることをパウロは知っていました。ですから、パウロは「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません」と強く語っているのですね。そして、その間違った熱心さの特徴を二つ挙げています。

①自分たちに熱心にならせようとする

一つは、「彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとしている」ということです。
 教える側は、「私たちこそ正しく、他は間違っている。だから、私たちの言うとおりにすれば間違いありません」と熱心に教え、それを聞いた人たちの側には「そうか。この人たちの言うとおりにすれば間違いない。頑張ろう」という盲目的な熱心さが生まれてくるのです。そうすると、教える側がすべてをコントロールできる状態になっていきます。
 たとえば、私が間違ったことを教えて、皆さんがそのことを熱狂的に信じて、それを指導する私に対する熱い熱心さを持ったとしましょう。そうすると私はその人を自由に動かすことが出来ますね。すべてが私の思い通りになるのです。
 せっかくイエス・キリストの救いによって自由になったのに、こんどは間違った教えの下で奴隷状態になってしまうのです。 もし、ある人が特別視され、皆がその人に熱心に服従していくような状態になっていたら、それは間違った熱心さであって、
神様が望んでおられる姿からかけ離れたものだということを覚えていてください。

②福音の恵みから締め出そうとする

それから、パウロは、この間違った熱心は「あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしている」と記していますね。
 原文では、「彼らはあなたがたを引き離したいのだ」とだけ書かれているのですが、どこから引き離したいのかというと、パウロがずっと語ってきた「福音の恵み」からなわけですね。ですから、新改訳聖書では、「あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしている」と説明的に訳しているのです。間違った熱心は、人を「福音の恵み」から引き離そうとするものだというのですね。
 では、聖書が教える本来の熱心の姿とは、どのようなものでしょうか。
 最も熱心な姿は、神様の中に見ることができます。
 イザヤ9章6節-7節に、こう書かれています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」つまり、神様の熱心とは、私たちのために救い主を遣わす熱心、私たちを何としても救いに導き出そうとする熱心です。
 また、ヨハネ3章16節には、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますね。私たちのを愛し、私たちのために、ひとり子イエスをお与えになり、十字架に付けてくださるほどの愛の熱心を示してくださったのです。
 神様の熱心は、私たちを福音の恵みから引き離す熱心ではなく、福音の恵みの中に導き入れ、そこにいつまでも留まらせようとする熱心です。大きな神様の愛の中で安息して生きることを求める熱心です。
 そして、その神様の熱心に、心から感謝と賛美を持って礼拝していく姿こそ、私たちのあるべき熱心な姿です。私たちが心から礼拝をささげる熱心を主は喜んでくださるのです。ですから、本来、熱心さは、キリストを信じて生きる私たちの生活の中に表れる自然な姿の一つであるわけです。
 聖書の中にもクリスチャンのあるべき姿として「熱心」という言葉がよく出てきます。使徒の働き12章には、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」とあります。第一ペテロ4章8節には「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」とあります。黙示録3章19節には「熱心になって、悔い改めなさい」ともあります。また、第一テモテ6章11節「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」と書かれています。第一コリント1章7節には、「あなたがたは・・・熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています」とあります。
 つまり、神様の熱心な愛に応答し、キリストによって自由にされた喜びを謳歌しながら熱心に生きていくのが、本来のクリスチャンの姿なのです。その熱心は、強制されるものではなく、内側からわき起こってくる愛による熱心さです。
 ところが、気を付けないと、その本来の自発的な熱心さが、間違った熱心さに変わってしまうことがあります。熱心であることが強制されたり、熱心さが信仰を測る基準のようになってしまっていることがあるのです。
 たとえば、教会の中でいろいろな奉仕をたくさん行っている人が熱心な人のように見なされることがあります。指導者が語ることに何の疑問も持たずに忠実に従う人が熱心だと思われることもあります。逆に、あまり活動をしない人や違う意見を述べる人、周りと同じように動かない人を「あの人は熱心でない」と裁いてしまうこともありますね。また、熱心に何かをしなければ救いを達成できないかのように勘違いしている人もいれば、「自分は熱心でないからクリスチャン失格だ」と思ってしまう人もいます。
 しかし、それは皆、間違った熱心であって、私たちを福音の恵みから締め出すものになっているのです。
 パウロは、ユダヤ人たちが熱心に律法や戒めを守って救いを達成しようとする姿について、ローマ10章2節でこう書いています。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」 神に対して熱心だと自負していても、もしその熱心が正しい知識に基づいていない間違った熱心だったら、それは私たちを神様の恵みから遠ざけるだけです。
 では、どのような知識が必要なのでしょうか。それは、イエス様によって成就した恵みの福音の知識です。神様の愛の熱心によって与えられた罪の赦しと永遠のいのちの知識です。その知識をしっかり理解していないと間違った熱心に陥ってしまうのです。
 パウロは、18節で「良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです」と書いています。人が人を慕うことは決して悪いことではありません。互いに尊敬し合うことは大切ですね。しかし、もしイエス様の恵みから引き離してしまうような熱心なら、それは教会には一切不要な熱心なのです。

3 あなたがたのうちにキリストが形造られるまで

次に、パウロは19節でこう書いていますね。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
 パウロは、ガラテヤ教会の生みの親のような存在です。彼の願いは、一人一人のうちに「キリストが形造られる」ことなんです。「キリストが形造られる」、これは教会のゴールであり、お互いの人生のゴールでもありますね。
 先日、インターネットを見ていたら、「チェーン・ソー・アート大会」という記事が載っていました。大きな丸太をチェーン・ソーで少しずつ削り、いろいろな作品を作っていくのです。材料の丸太を見ても、どんな作品ができるかまったく想像できないのですが、実に見事な作品に仕上がっていくのです。
 皆さん、私たちは、丸太のような者かもしれません。でも、私たちのうちにキリストが形造られていくのです。そして、それは、私たち自身の熱心さや行いによるのではないのです。
 第二コリント3章17節-18節にこう書かれています。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちは皆、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 私たちは「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」が、それは、イエス様を信じる私たち一人一人に与えられている聖霊の働きによるというのです。聖霊が私たちのうちにキリストを形造ってくださるのですから、素晴らしい作品になるでしょうね。ただし、今はまだ完成品ではなく、作成途中ですから、時には不格好に見えるかもしれません。しかし、大丈夫です。主の約束は決して変わることがなく、聖霊のみわざは完璧ですから。
 ですから、自分でキリストのようになろうとするのではなく、聖霊にお任せして、今日よりは明日、一歩ずつキリストの姿に造り変えられていることを楽しみにしていきましょう。悩むときもあるし哀しみに沈むときもあります。しかし、私たちはイエス様の恵みの下に生きていくのです。たくさんの欠けや弱さが私たちのうちにはあります。しかし、そんなひとりひとりが、、キリストが形造られていく生涯とされているのです。何と幸いなことでしょう。
 今週も重荷を主に委ね、神様に愛され、選ばれ、救われた者として歩んでいきましょう。