城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年四月三日            関根弘興牧師
               ガラテヤ四章二一節~五章一節
 ガラテヤ人への手紙連続説教11
   「キリストにある自由」

21 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。24 このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。25 このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。26 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」28 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。29 しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。30 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
 1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(新改訳聖書)


 今日から、再びガラテヤ人への手紙を読んでいきましょう。
 これまでも何度もお話してきましたが、ガラテヤ人への手紙のテーマは、「人は、律法の行いによってではなく、信仰によって義と認められる」ということです。人は、自分の行いや努力によってではなく、キリストを信じる信仰によって救われるのだ、とパウロはこの手紙の中で繰り返し語っています。
 なぜなら、ガラテヤ教会の中に「信仰だけでは足りない。異邦人もユダヤ人と同じように神様から与えられた律法の戒めを守らなくてはならない」と教える人々が入り込んでいたからです。特別な宗教儀式や戒めを守ることによって信仰生活を全うしようとする姿です。パウロ流に言えば、それは、「肉の行いで完成しようとする信仰生活」です。それは一見熱心に見えるかもしれません。しかし、いつの間にか、主語が「神様」ではなく「自分」になってしまうのです。自分の信仰、自分の頑張り、自分の努力が前面に出てくるのです。
 しかし、もし、自分で救いを達成できるのなら、もはやイエス様は要らなくなってしまいますね。それに、そのような信仰生活を送っていると、調子が良いときは信仰があるように感じるでしょうが、様々な問題が起こるととたんに「自分の信仰が足りないからだ」と自分を責めたり、「自分が駄目だから神様に見離されたのではないか」と落ち込んだりして、結局、信仰生活が辛いものになってしまうのです。自分の行いや熱心さを基準にしているからです。しかし、それは聖書が教えている本来の信仰の姿ではありません。パウロは、このように自分の行いによって救いを完成しようとする人たちは「律法の下にいる人たち」また、「幼稚な教えの下に奴隷になっている人たち」だと言っています。ガラテヤ教会の人々は、せっかくキリストを信じて救われ自由になったのに、また元の奴隷状態に逆戻りしようとしていました。その姿にパウロは大きな心の痛みを覚えました。そして、20節でこう嘆いています。「それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。」
 そして、今日の箇所はその続きです。
まず、21節でパウロはこう言っていますね。「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。」
 この「あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか」の「律法」というのは「旧約聖書」のことです。つまり、パウロはこう言っているのです。「あなたがたは、旧約聖書に書かれている律法を守ることが大切だと言っているけれど、その旧約聖書自体がどんなことを教えているか、わかっていないのではないですか」と。そして、パウロは、旧約聖書に書かれているイスラエル民族の祖先アブラハムのふたりの子を対比して説明していきます。

1 アブラハムのふたりの子

アブラハムの生涯は、旧約聖書の創世記12章から記録されています。アブラハムが75歳の時、神様がこう言われました。「あなたは生まれ故郷から離れて、わたしが示す地に行きなさい。あなたを大いなる国民としよう。」
 そこで、アブラハムは妻のサラとともに神様に示された地に行って、そこで生活を始めました。ところが、いつまでたっても子供ができません。アブラハムも妻のサラもどんどん年を取っていって、もう子供を産むのは不可能に思えました。
 当時の社会では、自分たちに子がない場合は、家にいる奴隷に子を産ませて、それを自分の子として育てることが一般的に行われていました。ですから、サラも、自分はもう子供を産めないから自分に仕えている女奴隷のハガルに代理出産してもらおう、と夫のアブラハムに提案した。そして、この女奴隷のハガルによって、アブラハムにイシュマエルという子どもが生まれたのです。それは、アブラハムが八十六歳の時でした。
しかし、アブラハムが九十九歳になった時、神様は、こう言われました。「来年の今頃、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産む。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしはイサクと永遠の祝福の契約を立てる。」それは、人間的に考えたら不可能なことでした。しかし、神様の約束の通りにアブラハムが百歳、サラが九十歳のときにイサクが生まれたのです。
 その後の出来事が創世記21章8節ー12節にこう書かれています。
「その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。『このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。』このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。すると、神はアブラハムに仰せられた。『その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。』」
 神様は、女奴隷の子イシュマエルではなく、サラが産んだイサクの子孫がアブラハムの子孫と呼ばれ、神様の祝福の相続人となる、と言われたのです。
 これは、ユダヤの世界では、誰もが知っている有名な出来事なんですね。そして、パウロは、このふたりの子を対比させながら、「これは、神様のみこころを示す比喩的な出来事なんですよ」と説明しています。詳しく見ていきましょう。
 
①「肉によって生まれた子」と「約束によって生まれた子」

 まず、23節に「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」と書かれていますね。
 「肉によって生まれた」というのは、「人間の考えや努力によって生まれた」ということです。神様はアブラハムに「あなたの子孫を星のように増やす」と約束してくださっていましたから、神様がその約束を実現してくださるのを待っていればよかったのですが、高齢になったアブラハムとサラは、待ちきれなくなって、神様の約束を実現するためには自分たちが何とかしなくてはならないのではないかと考え、女奴隷に代理出産させることを思い付いたわけですね。自分たちの力でやろうとしてしまったのです。
 一方、それから十四年後、アブラハムが百歳、サラが九十歳でもう子供を産むのは絶対不可能だと思われるときに、神様の約束によってイサクが生まれました。これが「約束によって生まれた子」です。29節では「御霊によって生まれた子」とも書かれていますね。つまり、イサクは、人の計画や人の努力によってではなく、神様の計画により神様の御霊の力によって生まれたのです。そして、神様は、「肉によって生まれた」イシュマエルではなく、「約束によって生まれた」イサクが神の祝福を受け継ぐ者となるのだ、と言われたのです。

②「女奴隷」と「自由の女」
 
 それから、パウロはふたりの子の母親も対比して説明しています。24節でパウロは、「この女たちは二つの契約です」と書いていますね。
 まず、女奴隷ハガルは「シナイ山」のことで「今のエルサレム」に当たると書かれていますね。そして、母親が奴隷なら、生まれた子どもたちも奴隷になるというのです。
 シナイ山は、神様が律法をお与えになった場所ですね。そして、神様はそこでイスラエルの民と契約を結ばれました。それは、「この律法を守れば、あなたは幸せになる」という契約です。しかし、律法を守れなければ、罰を受けなければなりません。つまり、ハガルは、神様の律法の戒めの下で生きる奴隷状態を表しているのです。そして「今のエルサレム」とは、自分の力で律法を守ることによって救いを得ようとしている人々の姿を表しています。律法の下で奴隷状態になっている人々です。
 一方、サラは、「上にあるエルサレム」で自由なのだと書かれていますね。サラは、人間的には不可能であったにもかかわらず神様の約束によって子を産みました。このサラが表している契約とは何でしょうか。「神様の救いの約束を信じる者は、救われる」という契約です。つまり、神様がイエス・キリストによって成し遂げてくださった救いをただ受け取ることによって救われるということなのです。そして、その神様の約束を信頼して生きる人々が集まる場所が「上にあるエルサレム」なのです。
 27節で、パウロはイザヤ書54章1節を引用しています。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
 これは、「喜びとは無縁の者、人からは無用と思われていた者、望みのない者が喜び歌い出す」という意味です。長い間不妊の女と呼ばれていたサラは、神様によって子を産むことができましたね。しかし、サラだけでなく、これは、私たちにも与えられた約束なのです。私たちは様々な評価を受けます。利用価値があるときは、もてはやされるかもしれませんが、何も出来なくなったら、必要ないとか、価値がないとか、いてもいなくてもいいなどと言われることもありますね。しかし、聖書には大逆転が約束されているのです。聖書は、なんと大きな励ましに満ちていることでしょう。
 28節に「あなたがたはイサクのように約束の子どもです」と書かれていますね。私たちも、神様の約束により、イエス様の十字架と復活を通して上から与えられた救いの恵みによって新しく生まれ、高らかに喜び歌う者と変えられているのです。

2 自由の女の子どもとして
 
 次に、31節で、パウロは「私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです」と言っていますね。そして、続けて5章1節では、こう言っています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」
 ここで言われている自由とは、今までお話ししてきましたように、律法の下の奴隷状態からの解放です。無価値な幼稚な教えからの解放です。福音が語られていくとき、そこには、必ず自由が生まれます。福音と自由は、必ず結び合わさっているものなのです。クリスチャンになったら、何だか不自由になった、と感じるなら、それは福音を間違って受け取っている証拠なんです。よく点検してください。なぜならキリストは自由を得させるために私たちを解放してくださったのですから。そして、解放し続けてくださる方なのですから。
 もし、「キリストを信じるだけでは足りない。律法もきちんと守らなければ救いは達成できない」というなら、それは、奴隷の女の子どもに逆戻りすることになります。30節でパウロはこう書いていますね。「しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』」
つまり、奴隷状態に戻ったら、神様の祝福の相続人としてふさわしくなくなるというのです。それに、奴隷状態に戻ろうとすることは、せっかくのキリストの恵みのみわざを無にすることになりますね。
 ですから、パウロは、5章1節で「あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と忠告しているのです。
 みなさん、自由の反対は何ですか。束縛です。
 イエス様は、マタイ11章28節で「すべて疲れた者、重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。わたしはあなたがを休ませます」と言われました。この言葉が語られた背景には、数え切れないほどたくさんあった宗教的な戒めを守ろうとすればするほど疲れてしまい、歩くことができないほどになってしまっている人々の姿がありました。その人々をイエス様は「休ませる」と招かれたのです。
 「休ませる」という言葉には、二つの意味があります。一つは「満足を与える」という意味です。キリストは人生の充足感を与える方です。そして、もう一つが「解放する」という意味です。
 ある時、鳩が釣り糸にからまっているのを見つけました。近寄ろうとすると逃げてしまうのです。やっとの思いで捕まえ、糸をほどき、傷を消毒してあげました。そして、手を放すと飛んでいったのです。あの鳩は、もし私と出会わなければ、命がなかったでしょうね。釣り糸が足に絡まって自分の力では飛べないくらい衰弱していたからです。でも、絡んでいた糸を取り除いたら、自由に羽ばたいていったのです。
 皆さん、キリストは、私たちを自由にしてくださる解放者です。私たちを縛っている様々な束縛から解放してくださるのです。罪責という束縛を解き、赦しを与え、過去の様々な後悔や不安の中で生きるのではなく、神様に愛されている者として立ち上がり歩めるようにしてくださるのです。
 国立国会図書館の東京本館には、「真理がわれらを自由にする」というヨハネの福音書8章32節の言葉が刻まれています。この言葉が国会図書館の設立理念となったのです。国会図書館のホームページには、設立の趣旨がこのように書かれています。「従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のため任務を果たしていくためには調査機関を完備しなければならない」と。「真理に基づかない政治が悲惨な結果を生じさせた」というのです。それは、政治の世界のことだけではありませんね。真理に基づかない人生も、決して良い結果を生みません。真理に基づかない教会も、同様です。
 それでは「真理」とはなんでしょう。
 イエス様は、ヨハネの福音書14章6節で、驚くべきことを言っておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」イエス様は「わたし自身が真理そのものだ」と言われたのです。ですから、イエス様を知ることは、真理を知ることです。そして、真理なるイエス様を知ることによって、私たちは自由になるのです。パウロが「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」と語っている通りですね。
 そして、皆さんに是非知っておいていただきたいことがあります。「自由」とは、何をしてもかまわないとか、自分の好き勝手に生きていくということではありません。「自由」は「放縦」ではありません。放縦の生活は、かえって人を不自由にするのです。
 あの放蕩息子の話を思い出してください。息子は、父親から財産を譲り受け、遠い場所に行き、自由気ままな生活を送りました。その結果はどうだったでしょう。財産を使い果たし、人生に行き詰まり、生きる希望さえも失ったのです。その時、彼は父の所に戻ることを決意します。そして、彼が家に近づくと、息子の帰りを待ち望んでいた父親が走り寄ってきて、彼を抱き寄せ、喜び迎えたのです。この息子は、父の元に戻ったとき、つまり本来いるべき場所に戻ったとき、本当の自由を得ることができたのです。
 私たちが本当の自由を満喫するためには、自分のいるべき場所にいる必要があります。魚は、水の中にいるときは自由に生きることができます。もし「私は陸で生活したい」と思って陸に上がったら、すぐにひからびて死んでしまいますね。逆にもし私たちが魚のように水の中に住みたいと思っても、数分しかもちませんね。鳥のように自由に空を飛びたいと思って屋上から飛び降りたら、大けがをするか死んでしまうでしょう。
 私たちが与えられた自由を本当に謳歌し、自分らしく生きていくためには、それにふさわしい場所にとどまっていなければならないのです。では、そのとどまるべき場所とはどこでしょうか。
 ヨハネ15章4節ー5節で、キリストはこう言っておられます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
 私がキリストのうちにとどまるなら、キリストも私のうちにとどまっていてくださる、キリストと一つになっている関係ですね。キリストにとどまっていれば、キリストのいのちによって豊かな実を結ぶことができるのです。
 また、同じく15章7節では、イエス様はこう言っておられます。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」つまり、私たちがキリストにとどまり、キリストが私のうちにとどまってくださるというのは、キリストのことばが私のうちにとどまるということでもあるのですね。聖書を読んでキリストのことばを知っていくとき、そのことばが私たちのうちに働いて神様のみわざがなされていくのです。
 また、同じく15章9節では、イエス様はこうも言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」
 キリストにとどまるとは、キリストの愛の中にとどまることです。キリストが私を愛していてくださっている、それを信頼し味わいつつ生きていくのです。

 私たちがキリストにとどまっているなら、本当に自分らしく自由に生きることができるようになっていきます。そして、具体的な生活が変えられていくのです。では、どのように変えられていくのでしょうか。それについては、次回の説教で「愛によって働く信仰」というテーマでお話ししようと思います。
 イエス・キリストによって自由にされたこと、そして、イエス・キリストのうちにとどまりつづけるときに本当の自由を謳歌することができるということを覚えつつ、今週も歩んでいきましょう。