城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年四月一〇日            関根弘興牧師
                 ガラテヤ五章一節~一五節
 ガラテヤ人への手紙連続説教12
   「愛によって働く信仰」

1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。8 そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。10 私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです。13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。(新改訳聖書)

 パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」と記しています。
 ローマやギリシャ社会では、「自由」という言葉は、一般に「奴隷ではない自由人」という意味で使われていたそうです。当時は、自由人より奴隷のほうが多いという典型的な奴隷制の社会でした。自由人たちは、多くの奴隷たちの犠牲の上に社会的な自由を享受していたのです。奴隷たち弱者が犠牲になり踏みつけられて、一部の強者が自由を得ていたわけですね。ですから、その場合の「自由」とは、いつも誰かが犠牲になっているという限界があったわけです。
 しかし、キリストが私たちを解放し、自由を得させてくださったというのは、キリストがそういう社会の奴隷制度を壊してくださったという意味ではありません。パウロがここで言っているのは、外的な社会的束縛からの自由のことではなく、内面的な自由のことです。キリストは、罪と死の力の下で奴隷状態になっていた私たちを解放してくださいました。自分で神様の基準に達しようとしても出来ずに葛藤している状態から私たちを解放してくださいました。そして、奴隷ではなく神の子として、神の愛の中で自由に生きることができるようにしてくださったのです。
 キリストが私たちの罪をすべて背負って十字架にかかってくださったので、私たちは罪赦され、義なる者として認められることが出来るようになりました。そして、私たちと神様の間を隔てていた罪が取り除かれたので、神様との何の隔たりもないまっすぐな関係が回復し、神様を親しく「天のお父さん」と呼び、神様の祝福を味わうことができるようになったのです。
 それが可能になったのは、私たちの力ではありません。ただ、キリストによります。キリストの十字架と復活の福音を信じる時に、私たちは、自由にされるのです。ですから、本当の自由は、キリストと切り離すことはできないのですね。前回お話ししましたように、私たちは、キリストのもとにとどまっているときにこそ、本当の自由を味わうことができるのです。
 ところが、そのキリストのもとから私たちを引き離そうとする教えが教会の中に入り込んで来ました。そこで、パウロは、「しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」と厳しく警告しているのです。そこには、キリストの恵みによって与えられた自由と愛を決して失うことのないように、というパウロの強い思いが込められているのです。
 
1 律法によって義と認められようとしている人々

 そして、2節で、パウロはガラテヤ教会の人々に対して強い口調でこう記しています。「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです」と。
 「割礼」というのは、男性の生殖器の包皮の一部を切り取る儀式です。
 旧約聖書の創世記に登場するユダヤ人の先祖アブラハムに対して、神様は「あなたの子孫を星のように増やす。そして、あなたとあなたの子孫を通してすべての人々を祝福する」と約束なさいました。そして、その契約のしるしとして、アブラハムとその一族のすべての男性が割礼を受けること、また、新たに生まれてくる男の子には生まれて八日目に割礼を施すことが命じられました。それ以来、割礼は神の選びの民であることのしるしとなり、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちこそが神の選びの民であると自負し、割礼を受けていることを誇りにしてきたのです。ユダヤ人にとって、「割礼のある者」とは神の民であるという意味であり、「無割礼の者」とは神に敵対する者たちという意味でした。ですから、ユダヤ人にとって、割礼の有る無しは、とても大切なことだったのです。
 そういうユダヤ人たちの中には、キリストを信じてクリスチャンになった後も、神の民として認められるためには割礼を受ける必要があるのではないかと考える人々がいました。そして、割礼を受けていない異邦人クリスチャンたちに対して、割礼を受けることが救いの条件だと教える人々が出てきたのです。
 その教えに影響されて割礼を受けようとする人々に対して、パウロは、4節で「律法によって義と認められようとしているあなたがた」と言っていますね。「割礼を受けなければならない」と教えたり考えたりすることは、「律法によって義と認められようとする」ことだというのです。「割礼」も律法の中に規定されているものだからです。
 しかし、「律法によって義と認められようとする」人は、3節にあるように「律法の全体を行う義務」があります。「割礼」の規定だけ守っても、律法の他の規定を守らなかったら、違反者と見なされ、義と認められないのです。
 しかし、いままでも何度もお話ししていますように、人は律法をすべて完全に守ることによって神様に義と認められることは決してできません。自分の力で、神様の律法を守り切ることなどできないのです。むしろ、律法を守ろうとすればするほど、できない自分に気付き、神様の基準から外れた自分の罪の状態に気付くのですね。
 そんな私たちのためにキリストが十字架についてくださり、キリストを信じる信仰によって義と認められる道を開いてくださったのです。
 それなのに、「割礼を受けなければ救いを達成できない」などというのは、自分の力で律法を守って義と認められようとすることであり、キリストのせっかくの救いの恵みを無駄にすることになります。それは、2節にあるように「キリストは、あなたがたにとって何の益もない」ということです。パウロがこの手紙の2章21節で「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」と書いていた通りです。また、4節にあるように、「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」ということになるのです。
 パウロは、人間の救いに、キリストを信じる信仰以外に付け加えることがあるなら、そのことがあなたをキリストから離し、恵みに生きることを止めさせてしまうことになるのだと、と語っているのです。
2 割礼を受ける受けないは大事なことではない

 しかし、人はどんなに頑張っても律法によって義と認められることは不可能ですから、割礼を受けるか受けないかは、もはや大事なことではない、とパウロははっきり言っています。
 パウロは、ローマ4章9節ー12節にこう書いています。「それでは、この幸い(信仰によって義と認められること)は、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」
 つまり、割礼を受ける受けないに関係なく、信仰を持って歩むすべての人がアブラハムと同じように義と認められるというのです。
 また、パウロは、ローマ2章29節でこう書いています。「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
 律法に従って体に割礼を受けることが大切なのではなく、心の割礼が大切なのだ、つまり、神様が遣わしてくださったキリストを信じて聖霊によって心に割礼を受けることが大切なのだ、というのです。表面的に律法に従っても、心が皮に覆われて神様の救いを受け入れようとしない頑なな状態なら、神様の祝福を受けることができないということですね。この「心の割礼を受けよ」というのは、旧約聖書の預言者たちも語っていたことでした。肉体だけの割礼は、救いにはまったく関係ないということなのですね。
 ですから、パウロは、どこにいっても「肉体に割礼を受けることは大切なことではない。救いはキリストの十字架によるのだ」と語っていきました。それで、割礼を重んじるユダヤ人たちから「律法に逆らって神を冒涜している者だ」と見なされて、数々の迫害を受けましたが、パウロは、それに屈せずに真理を語り続けてきたのです。それなのに、その苦労を台無しにするような教えが教会に入り込んで来たのですから、パウロは気が気でなかったでしょう。
  
3 パン種に注意を

 そこで、間違った教えを持ち込んだ人々について、パウロは、7節ー12節で厳しい口調で語っています。
 「彼らは、あなたがたを妨げて、真理に従わなくさせた」「彼らの勧めは、神様から出たものではない」「彼らは、あなたがたをかき乱す者だ」と言い、「あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです」とはっきり宣言しています。
 パウロは、福音の真理が歪められない限りにおいては、とてもおおからで寛容な人です。しかし、福音の真理を歪め、乱す者に対しては、非常に激しく憤るのです。
 その極め付けと思われる痛烈な皮肉が12節に書かれています。「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです」とありますね。割礼は男性の包皮の一部を切り取るものですが、パウロは、「割礼がそれほど大事だというなら、いっそのこと、包皮だけでなく全部を切り取ってしまうほうがよい」と言っているわけです。彼らの教えがどれほど深刻な悪影響を与えるものであるかということを、パウロは何とかして伝えようとしていたのでしょう。
 ところで、9節に「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」とありますね。ガラテヤ教会を混乱に陥れたのは、ごく少数の者たちであったようです。しかし、少数であっても、パン種のようにガラテヤの教会全体に悪い影響を及ぼすようになっていたのです。
 イエス様も、間違った教えを「パン種」にたとえておられました。たとえば、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と注意しておられます。パリサイ人たちの律法主義やサドカイ人たちの理性万能の考え方が、気付かないうちに入り込んで周りに悪い影響を与えるようになるということなのです。
 このようなパン種が入り込んでいないか、私たちも注意していかなければなりませんね。
 私たちは、時々、自分にふがいなさや弱さや無力さを感じたり、物事がなかなか進展しなかったりすると、「やっぱりキリストを信じるだけでは足りないのか」と思ってしまうことがあります。それで、イエス様を信じる以外に何かをプラスしていこうと考えるのですね。何かを無理に行ってみたり、修行のようなことを自分に科したりするのです。
 しかし、それは、自分の力で救いを達成しようとすることであり、その結果、疲れ切ったり、自分を裁いたり、人をねたんだり、結局、奴隷のような状態になって、喜びや平安がなくなってしまうのです。そして、15節にあるように、互いにかみ合ったり、食い合ったりするような、さばき合いが始まるのです。
ガラテヤ教会も、一方的な救いのみわざに律法の行いを付け加えようとした結果、本来なら恵みに憩うはずの教会が、ぎすぎすした状態になってしまっていたのです。

4 クリスチャンの生き方

 それでも、パウロは、ガラテヤ教会の人々を信じていました。10節に「私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています」と記していますね。今は迷っているけれど、必ず迷いから覚めて立ち直ってくれるという確信をもっていたのです。
 そして、パウロは、あらためてクリスチャンの生き方を語っています。

①信仰により、御霊によって、義をいただく望みを抱いて生きる

 まず、5節に「私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです」とありますね。ここを読んで「あれっ」と思う方がおられるかもしれませんね。「私たちは、まだ義をいただいていないということですか」と思ってしまうのです。
 これまで、パウロは、「私たちは信仰によって義とされた」と何度も語っていました。ですから、信じる私たちは、すでに義をいただいているのです。義とは、神様の前に罪なしと認められているということであり、また、神様とのまっすぐな関係を回復し、神様に「アバ、父よ」と親しく呼びかけることが出来る関係の中に生かされているということです。
 では、5節の「義をいただく望みを熱心に抱いている」とは、どういう意味でしょうか。新共同訳聖書では、「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」と訳されています。つまり、私たちは、義とされた者として、聖霊の助けを受け、信頼しながら、希望の実現を待ち望みつつ生きる者とされているということです。つまり、朝に夕に、自由に神様に祈り、求め、叫び、呼びかけ、いつも親しく、どんな時にも神様と共に歩むことができる、そして、最終的には永遠に神様とともに住むことができるというすばらしい希望に生かされているということなのです。

②愛によって働く信仰によって生きる

 それから、6節には「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」と書かれています。ここで「大事な」と訳される言葉は「役に立つ」という意味があります。つまり、「割礼を受けるとか受けないとかは信仰生活においては少しも役に立たず、役に立つのは愛によって働く信仰だけです」ということなのですね。
 この「愛によって働く信仰」とは、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰」と訳されています。それは、キリストにある自由の中に生かされていくときに生じてくるものです。ですから、パウロは13節で「 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」と記していますね。
先週お話ししましたように、自由とは、放縦ではありません。キリストが与えてくださる自由とは、神と人を愛することのできる自由、自発的な愛によって互いに仕えていくことのできる自由なのです。
宗教改革者マルティン・ルターが書いた「キリスト者の自由」という本があります。その第一項で、ルターは、キリスト者の自由について有名な二つの命題を掲げています。
 その第一は、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」というものです。これはキリスト者の自由の大事な一面です。誰によっても支配されない、ということです。しかし、第二は、「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」というものです。この第一と第二の命題が矛盾なく成り立つところに、キリスト者の自由は存在する、とルターは教えたのですね。頭のいい人は言うことが違いますね。そして、この二つの命題は、イエス様の中に、はっきりと示されているのです。
 イエス様は、だれにも服しない自由をお持ちの方です。天においても地においても一切の権威を持たれている方です。しかし、イエス様はすべての人に服して仕える僕となる道を歩まれました。マルコ10章45節で、イエス様は、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」と言われ、その通りに実践なさいました。
 もう一度、十字架につけられたイエス様を想像してみてください。すべての人の僕となって、罪を背負い、すべての人のためにご自身のいのちを与えてくださったイエス様の姿です。
 イエス・キリストは、主であると共に僕であり、僕であると共に主でもあられるのです。私たちは「イエスは主です」と告白します。そして、「イエス様は私に仕えてくださる僕です」ということもいつも心に留めておきましょう。私たちの主であるイエス様は、僕として私たちに仕え、十字架と復活を通して豊かな愛を注いでくださいました。ですから、このイエス様を信じて生きる一人一人は、イエス様と同じように愛によって働く信仰に生きるように召されているのです。神の前に義とされたことによって得られた自由は、愛によって働く信仰へとしっかりと連結していくのですね。
 ただし、しっかりと心に刻んでおいていただきたいことがあります。愛によって働く信仰に生きることができるのは、一人一人に与えられた聖霊の導きと助けがあるからです。
 ですから、次の16節でパウロは「御霊によって歩みなさい」と筆を進めていくのです。信仰生活は聖霊の働きに支えられて織りなされていくということを、次回、ご一緒に学んでいきましょう。