城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年四月一七日            関根弘興牧師
                ガラテヤ五章一六節~二六節
 ガラテヤ人への手紙連続説教13
   「聖霊によって歩もう」

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。(新改訳聖書)


先週は、5章6節の「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」という言葉について考えました。
 キリストによって与えられた自由の中で生きるということは、愛によって働く信仰につながっていきます。つまり、神様の真実の愛を知ることによって、神様への愛と信頼、また、お互い同士の愛と信頼へとつながっていくのです。そして、そのあゆみは、聖霊の助けによってもたらされるということでしたね。

 さて、パウロは、この手紙の中で、「神様に義と認められるのは、律法の行いによるのではない」ということを繰り返し語ってきました。そして、「私たちは、もはや律法の下にはいません」とまで言っているわけです。
 それを読むと、私たちは、「もう律法は要らなくなった」「律法よ、さようなら!」と律法をすべて切り捨ててしまったらすっきりするのではないかと思いますね。
 しかし、パウロは、律法を否定しているわけではありません。律法は神様から与えられた良いものだけれども、その律法を完全に守ることによって救いを得ようとするのは愚かなことだ、と言っているのです。なぜなら、律法を完全に守ることのできる人など誰もいないからです。
 神様が律法をお与えになったのは、私たちが自分の力で義と認められることは決してできないということを教えるためでした。そして、自分では救いを達成できない私たちのために、神様は、救い主イエスを与えてくださったのです。イエス・キリストを信じるとき、内側に聖霊が宿ってくださり、その聖霊によって私たちは神様の愛を知り、神様を信頼して生きる者となり、そして、律法の一番基本的で大切な命令である「神を愛し、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という生き方が出来る者へと変えられていくというのです。
 イエス・キリストを信じる信仰に生きることが、律法の一番最高の戒めである愛に生きることにつながっていく、というわけですね。
 では、イエス・キリストを信じた後、私たちには何の問題もなくなってしまうのでしょうか。そうではありませんね。
 信仰に生きようと思って頑張って生活しても途中で挫折したり、以前とあまり変わらない自分の姿にがっかりしたり、同じ失敗を繰り返したりということがありますね。「私は神様によって罪を赦され、神様に愛されている者として生かされているはずなのに、少しも変わったように思えないのは、信仰が足りないせいだろうか。どこか間違っているのではないだろうか」と悩む人が多いのですね。しかも、人からも「あなた、それでもクリスチャン?」なんて言われると落ち込んでしまいますよね。
 でも、覚えておいていただきたいのですが、私たちは、クリスチャンになったからと言って、すぐに完璧な人になるわけではありません。赤ちゃんが少しずつ成長して大人になっていくように、神様のいのちの力によって新しく生まれた私たちも、聖霊によって少しずつ少しずつ変えられていくのです。
 あの素晴らしい信仰者のパウロでさえ、ローマ7章でこう言っていますね。「私は善を行なおうとしても、かえって、したくない悪を行ってしまう。本当にみじめな人間だ」と。彼は、自分の中に、相反する力が働いていると書いているんです。
 それは、私たちも同じです。私たちの中にもパウロと同じような葛藤があるわけですね。二つの相反するものが、内側で対立しているような状態です。それは、信仰が弱いからとか、私たちがクリスチャンとして失格だから、ではありません。この世の中に生きている限り、誰の内側にも二つの相反する力が働いているのです。大切なのは、そのどちらを選び取って従って生きていくかということなのです。
 さて、今日の箇所でパウロは、その二つの相反する力を「肉」と「御霊」という表現で説明しています。詳しく見ていきましょう。

1 肉の行い

 聖書では「肉」という表現は、いくつかの意味で使われています。
 まず、「肉体」という意味で使われている場合があります。 それから、「人間の力」という意味で使われる場合もあります。例えば、ガラテヤ3章3節に「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」と書かれていましたが、これは、「信仰によって聖霊の力で救われたあなたがたが、いま自分の力で律法を守ることによって完成されようとしているのですか」という意味ですね。この場合、「肉」は、「人間の力」という意味で使われています。
 しかし、今日の箇所で使われている「肉」という言葉は、「肉体」とか「人間の力」という意味ではなくて、「私たちを神様から引き離そうとする力」のことを指しています。私たちの中に、神様に逆らう肉の思い、肉の欲望があるというのです。私たちは、罪を赦されていますが、相変わらず罪人としての性質を持っているのです。ですから、クリスチャンになってからも罪を犯してしまうことがあります。
 でもイエス様は、私たちの過去の罪も現在の罪も将来犯してしまう罪もすべてを赦すために十字架についてくださいました。だから、私たちは、いつも神様から罪の赦しを受け取りつつ歩んでいくことができるのです。第一ヨハネ1章8節ー9節にこう書いてある通りです。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
 大切なのは、自分のうちに「神様から引き離そうとする力」があるということを自覚して、常に自分の状態を点検していくことです。
 今日の箇所でパウロは、肉の行いのリストを紹介していますね。このリストは、四つのグループに分けることができます。

➀家庭と社会を破壊する罪
 まず最初は「不品行」「汚れ」「好色」という性に関することです。大学生のアルバイトの調査があって、その四番目に何と「愛人」というのがあったそうです。「性」は本来神様に与えられた素晴らしいものなのに、欲のおもむくまま、まるで商品であるかのように扱われ、結果的に、自分も相手も傷つけることになってしまのです。また、結婚関係の破壊も招きます。そういう現実を私たちは毎日のように見聞きしますね。

②神様との関係を破壊する罪
 次に、「偶像礼拝」や「魔術」は、神様との関係を破壊します。
 偶像礼拝とは、まことの神様を神とせず、まったく別のものを神のように崇めることです。木や石で人が作った偶像を拝むというだけでなく、金銭や物や人に執着したり支配されたりすることも含みます。コロサイ3章5節には「むさぼり」こそが偶像礼拝であると書いてあります。
 また、「魔術」とありますが、これは、「薬を使用すること」を意味する言葉で、ここでは「毒を盛る」という意味合いが強い言葉です。つまり、「魔術」とは、人を道徳的に麻痺させてしまう毒薬のようなものだというわけです。

③人間関係と教会の麗しい交わりを破壊する罪
 それから、「敵意」「争い」「そねみ」「憤り」「党派心」「分裂」「分派」「ねたみ」、これらは、互いの関係を破壊します。一人一人が神様に愛されている存在であることを忘れて、人と自分を比較してひがんだり、けなしたり、意見が違う人が許せなかったり、自分の思う通りに動かない人に腹を立てたりするのです。聖書は、互いに愛し合いなさい、互いに赦し合いなさい、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい、と教えているのに、それとは正反対の姿ですね。

④自分自身を破壊する罪
 そして、「遊興」「酩酊」は、自分自身を破壊していきます。
ギャンブルで人生を破壊する人は後を絶ちません。また、アルコール依存症になって家庭が崩壊したり、人生を台無しにしてしまう人が大勢いることも事実ですね。

 このような肉の行いは、昔も今も変わりませんね。技術は進歩しても、人の本質は変わらないのです。このままでは破滅に向かうとわかっていても、つい引きずり込まれてしまうような弱さが人にはあります。そして、このような行いに誘い込もうとする肉の力は、とても強く、クリスチャンになってからも襲ってきます。
 しかし、恐れる必要はありません。24節にこう書かれていますね。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」私たちがキリストにとどまっているなら、自分の肉は十字架に付けられた状態だというのです。つまり、肉は、叫び声をあげたり、もがいたりすることはできても、私たちにもはや何の害を及ぼすこともできなくなっているということです。ですから、肉の声を恐れたり、心配することはありません。
 また、第一ヨハネ5章18節には、こう書かれています。「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」
 この「だれも罪を犯さない」というのは「だれも神様から引き離されることはない」ということです。もし罪を犯してしまったとしても、神様の前に言い表すなら、罪赦され、きよめられ、義と認められ続けるのです。「神から生まれた方であるイエス・キリストが守っていてくださるのだから、悪い者は私に触れることができない」ということを確信し、肉の誘惑に振り回されることなく、キリストにとどまり、御霊によって歩んでいきましょう。

2 御霊による歩み

  では、「御霊によって歩む」とは、具体的にどのように歩むことでしょうか。
 18節に「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」と書かれています。つまり、「御霊によって歩む」というのは、自分の力で一生懸命努力して進んで行くという肉による生き方とはまったく違うものなのですね。
 では「御霊によって歩む」とは、どういことでしょう。聖書にはどのように書かれているでしょうか。

①キリストのことばを自分のうちに豊かに住まわせる

 まず、コロサイ3章16節にこう書かれています。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
私たちのうちにキリストのことばを住まわせる、それが大切です。御霊によって歩むとか、聖霊に満たされて歩むというのは、何か神秘的な体験をすることではありません。キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせるなら、聖霊がそのことばを働かせて私たちを導き、成長させていってくださるのです。

②聖霊の働きを信頼し委ねて生きる

 イエス様は、十字架に付けられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、多くの弟子たちに姿を現してから、天に昇っていかれました。そして、代わりにもう一人の助け主である聖霊を送ってくださったのです。聖霊は、いつも私たちと共にいてくださいます。ですから、私たちは、決して一人でクリスチャン生活を送っていかなければならないのではありません。聖霊の助けと導きの中で、聖書の約束を信頼し、すべてを委ねて生きていくのです。
 委ねるとは、信じて任せる、ということです。たとえば、宅急便で品物を送るとき、伝票を書いて荷物を業者に渡しますね。その品物を届けるのは、私の仕事ではなく宅配業者の仕事です。本当に届くかどうか心配する必要はありませんね。また、飛行機に乗ったら、機長に任せるしかありません。飛行機の操縦や進路について、私たちが心配しても仕方がありませんね。機長に任せるしかないのです。それと同じように、いろいろな重荷や心配や思い患いは、人生を支配し導いてくださっている聖霊にお委ねするのがいいのです。
 詩篇37篇5節には、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」とあります。神様は、私たちの人生に最善の計画を持っておられるのですから、すべてを益にしてくださることを期待しつつ信頼して生きていけばいいのです。私たちは、最初から最後まで自分の力でしようとすることが多いのですが、実際には弱く限界のある存在です。だから、「神様、あなたにお委ねします」と告白していきましょう。

③聖霊の助けを信じて生きる

 ローマ8章26節には、こう書かれています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」
「聖霊は弱い私たちを助けてくださいます」と書いてありますね。私たちの弱さをちゃんとご存じで、自分では祈ることすらできなくなってしまうような辛いときにも、聖霊が私たちのために神様に祈っていてくださるのです。そのことを覚えましょう。

④賛美と感謝をもって生きる

 エペソ5章18節-19節に「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」と書かれています。
 私たちは、礼拝でたくさん賛美をしますね。楽器を使って賛美をしますし、神様を心から讃えて賛美しますし、また、自分の心からの信仰の告白を歌うこともありますね。詩と賛美と霊の歌とをもって礼拝をささげているのです。そして、そうした賛美は、自分自身にも他の人にも語りかけられる大きなメッセージになるのです。私たちは、賛美を通して感動を覚えたり、神様の励ましや慰めを得ることがしばしばありますね。賛美の中で涙を流したり、イエス様に愛されている、決してひとりぼっちではないと確信することもよくあります。
毎週の礼拝の賛美は、「説教前の準備体操」でもなければ、「説教の添え物」でもありません。賛美は神様へ届けられ、お互いへのメッセージとなって届けられてくるのです。
 また、詩篇22篇3節には「神様は私たちの賛美を住まいとしておられる」ということが書かれています。私たちは神様を目で見ることは出来ません。しかし、私たちが賛美しているとき、神様がこの中にいてくださるということを味わうことができるのです。
 また、パウロは第一テサロニケ 5章16節ー17節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と記していますね。賛美と感謝は車の両輪のようなものです。

 キリストのことばを豊かに住まわせ、聖霊にお委ねし、いつも聖霊が助けてくださることを信頼し、賛美と感謝もって生きること、それが御霊によって歩むことなのです。

3 御霊の実を実らせて

 さて、そのように御霊によって歩んでいくときに、御霊の実が実っていきます。22節ー23節にどんな実がなるか書かれていますね。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。ここには、九種類の実が書かれています。こういう実が実っていったらうれしいですね。しかし、実は、一晩では実りません。雨の日も晴れの日も嵐の日もキリストのいのちの栄養をいただきながら、少しずつ実っていくのです。
 ところで、この箇所で「御霊の実」と訳される「実」という言葉は、複数ではなく単数形で書かれています。つまり、御霊の実は一つであることを意味しているのですね。
 実は、御霊の実とは、「愛」なのです。そして、それに続く八つの実は、愛の具体的な現れ方と考えたらいいでしょう。
 愛は喜びを生みます。また、愛に寄って心が平安になりますね。その他の実も、愛から出てくるのです。
 でも私たちが持っている愛など、たかがしれていますね。第一ヨハネ4章7節ー10節にこう書かれています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

愛は神様から出ていて、キリストの中にあふれんばかりに示されています。そして、その神様の愛の実を私たちのうちに結ばせてくださるのは聖霊です。
 神様に愛されている者として、キリストの愛にとどまりながら、御霊に委ね導かれつつ歩んで生きましょう。