城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年四月二四日            関根弘興牧師
                 ガラテヤ六章一節~一〇節
 ガラテヤ人への手紙連続説教14
   「自分を調べよう」

1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。4 おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(新改訳聖書)

 ガラテヤ人への手紙の連続説教は、いよいよ終りに近づきました。
 この手紙を通して、パウロは大切なことを伝えようとしてきました。それは、「私たちは皆、行いによってではなく、信仰によって義と認められる」ということです。そして、信仰によって義とされた私たちは、神様の律法の最も大切な戒めである「神を愛し、自分を愛するように他の人を愛する」という愛のうちに生きる者に変えられていくというのです。そのように変えられていくのも、自分の行いによるのではなく、聖霊の働きによります。ですから、聖霊によって歩んでいこう、と前回の箇所でパウロは勧めていましたね。
 聖霊によって歩むとは、具体的には、キリストのことば、つまり、聖書のことばを自分の内に豊かに住まわせること、また、すべてを聖霊の働きにお任せして、聖霊が助けてくださることを信頼じて生きるということです。自分で祈ることができないような時にも、聖霊が私たちのために祈ってくださっているのですね。ですから、いつも賛美と感謝をもって歩んでいくのです。

 さて、今日は、その続きですが、ここには、さらに私たちが注意しなければならないことが書かれています。
 そして、今日の箇所全体を理解するための鍵となることばが3節に書かれています。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」とありますね。新共同訳聖書では「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」と訳されています。直訳すれば、「だれでも、自分を何者であるかのように思うなら」となる文章です。日本語でも「おまえ、何様のつもりだよ」というような言い方がありますね。つまり、パウロは、「自分のことをよく考えてみなさい。何様のつもりでいるのですか。そんな姿は自分を欺いているだけです」と言っているわけです。
 思い出してください。ガラテヤ教会に間違った教えが蔓延し始めていましたね。「救いを達成するためには、イエス・キリストを信じるだけでは足りない。異邦人もユダヤ人のように律法に従って割礼を受けなければならない」という教えです。信仰だけでなく、行いも必要だということですね。
 その教えに従う人たちは、どうなるでしょうか。「私はきちんと律法の戒めを守っている」という自負と優越感が生まれてきますね。そして、「割礼を受けている私たちこそ神様の選びの民だ。私たちこそ神様に愛されている」という勘違いをしてしまうのです。その結果、割礼を受けていない人々を見下し、自分たちより劣った人々であるかのように蔑んだり、さばいたりするようになってしまうのです。
 しかし、実際にはどうでしょうか。私たちは、一方的な神様の恵みにより、救い主イエスを信じることによってのみ罪赦され、義と認められ、聖霊によって歩むことのできる者とされたのです。それには、私たちの行いはまったく関係ありません。むしろ、私たちには誇ることのできる行いなど一つもないのです。
 ですから、パウロは、自分が立派な行いをしているかのように誇っている人々に対して、「あなたたちは、何様のつもりですか。自分が立派だと思うのは、まったくの勘違いです」と言っているわけです。また、4節では、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と書いていますね。もし自分が偉い人になったかのような振る舞いをしているなら、それは、自分を欺く生き方なのです。
 パウロは、そのような生き方にならないように、今日の箇所でいくつかのことを勧めています。それは、私たち一人一人が毎日の生活の中で心がけていかなければならないことなのです。

1 あやまちや誘惑に陥らないように

 まず、1節でパウロは、こう書いていますね。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」
 この「誘惑」というのは、先ほどからお話ししているように、「自分を何か立派であるかのように振る舞う生き方」のことです。そのような生き方をしないように互いに気を付けなさいということですね。
 ただし、そう聞くと、今度は逆に極端に自己卑下して、「私は駄目な人間だ。無価値な者だ」というふうに思いながら生きるのがいいのか、と勘違いする人が出てきますが、パウロが言っているのは、そういうことではありません。自分を特別に立派であるかのように思う必要はありませんが、特別に駄目な人間だと自己卑下して生きる生き方も聖書では勧めていません。 健全な自尊心を持つことはとても大切です。健全な自尊心がないために、愛されているという確信が持てず、健全な人間関係を築くことが困難になっている人がたくさんいますね。
 私たちは、まず、神様が私たちをどう見ておられるのか、ということを基準にして自分自身を見ることが大切です。神様は、私たちをどう見ておられるでしょうか。
 イザヤ43章4節で神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言っておられます。また、申命記32章10節では、イスラエルの民が荒野で旅をしている間、神様がどのように守ってくださったかが書かれています。「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」と。神様は、私たちの人生の旅においても、私たちを「ご自分のひとみのように」大切に守ってくださいます。私たちは神様がご自分のひとり子を与えても惜しくないほどに愛してくださっているのです。私たちは、神様によって造られた素晴らしい作品なのです。神様に造られ、愛されている者としての健全な自尊心をもって生きることが大切です。
しかし、その一方で、ロマ3章23節-24節には、こう書かれています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
 私たちは、皆、罪の奴隷状態でした。その状態から解放されたのは、自分の力ではなく、ただ神様の恵みにより、イエスが成し遂げてくださった贖いのみわざによるのです。ですから、誰も誇ることなどできません。ただ、そんな私たちを愛し、受け入れ、赦し、いのちを与えてくださる主と共に生きていることを、私たちは大いに喜び誇る者とされているのです。
 パウロは「私は罪人のかしらです」と謙虚に告白しました。その一方で、誰に対しても「私のようになってください」と大胆に言うことができました。パウロは、自分の弱さを認めつつ、神様に愛され、赦され、生かされている者としての誇りをもって生きていたのです。それは、私たち一人一人の生き方でもあります。
 しかし、残念ながら、自分に関する評価の度が過ぎてしまい、何様になったつもりなのかというような人たちがガラテヤ教会に出てきたのです。
 そこで、パウロは、そうならないように気をつけなさいと警告しているのです。
 人間は勘違いしやすい生き物ですね。自分を実際の自分以上に高くすることが多いのです。私も注意しなければならないと思っています。ライフ・ラインや世の光の番組の集いのために全国の各地に行くと、皆さんがほめてくれるわけですね。そして、いつの間にか自分も錯覚して、自分は優れた牧師の一人かもしれないと、いつのまにか「何様」にでもなったかのような思いが出て来るのです。
 そういう人間のおごりや高ぶりには、いつも注意しなければなりません。そのような誘惑は誰にも襲ってくるのです。そのとき大切なのは、1節にあるように「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」ということです。
教会がいつも健全な状態に保たれていくためには、おごりや高ぶりに気付いたとき、それを互いに率直に正し合い、受け入れ合う空気を保っていくことが大切です。牧師であっても信徒であっても、聖書を基準にして正され教えられていく必要があるのです。聖書から離れていく姿やおごりや高ぶりが教会を覆っていくなら、イエス様を閉め出してしまうことになるからです。
 7節で「神は侮られるような方ではありません」とパウロは記していますね。おごり高ぶった独善的に生き方は、神様を侮る生き方だ、とパウロは教えているのです。そして、「人が種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」と書かれていますが、神様を侮る高慢な生き方は、キリストのからだである麗しい教会の姿を破壊していくことになるのです。

2 互いの重荷を負い合い、キリストの律法を全うする

 次に2節に「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と書かれていますね。
 まず、「重荷」について考えてみましょう。
 5節には、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」とありますね。その「負うべき自分自身の重荷」とは何でしょうか。
 私たちは、自分と人を比べることが多いですね。自分に重荷を感じているときは、他の人が何も重荷をもっていないかのように見えるときもあります。でも、みんなそれぞれが負うべき重荷があるのですね。私たちは、同じ主にあって生きているという意味では同じですが、与えられている環境や状況や問題はみな違います。そして、それは、決して比べられるものではないのですね。
 この「重荷」ということばを聞くと、なんだか重い荷物を背負わされるようで嫌な感じがするかもしれません。「重荷を負っていかなければならない」と思うと苦しくて困難な信仰生活というイメージが湧いてくるかもしれません。
 しかし、第一コリント10章13節に「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。神様は、それぞれが耐えられるだけの試練や重荷しかお与えにならないのですね。そして、試練や重荷は、神様が私たちを訓練し、精錬し、私たちに神様の恵みの素晴らしさを味わわせるために与えられるのだと聖書は教えています。だから、ヤコブ1章2節には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」と書かれているのですね。
 それに、イエス様は、マタイ11章28節でこう約束してくださっています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」重荷を負って疲れた時、いつでもイエス様のもとで休むことができるのですね。
 また、イエス様は、それに続けて「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と言われました。ここでイエス様が「わたしのくびき」と言っておられるのは、今日の箇所の「互いの重荷を負い、キリストの律法を全うしなさい」ということばの中の「キリストの律法」と同じ意味と考えていいでしょう。
 では、「イエス様のくびき」「キリストの律法」とは、何でしょうか。ヨハネ15章12節でイエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」と言っておられます。つまり、「イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うこと」、それが「キリストの律法」なのです。
 ここで、決して忘れてはならないことがあります。それは、まず、「わたしがあなた方を愛したように」と言われていることです。まず、イエス様が私たちを愛し、私たちの重荷を負い、仕えてくださっている、という現実があるということです。このすばらしい現実の中で私たちは日々生かされているのです。もし、このことを私たちが忘れてしまって、自分の力で一生懸命に人を愛さなければ、人の重荷を負わなければ、仕えなければと頑張っても、すぐに疲れてしまうでしょう。それは、決して聖書が教える姿ではないからです。
 皆さん、イエス様は、私たち一人一人といつも共にいてくださり、支え、助け、仕えてくださっているのです。そのキリストの愛と助けがあってこそ、私たちは互いに愛し合い、重荷を負い合うことができるのです。私たちは、聖霊によってキリストに似た姿に変えられていきます。ですから、キリストのように互いに愛し合い、重荷を負い合っていこうと、パウロは勧めているのです。
 そのためには、先ほどお話ししましたように、自分を立派であるかのように思い上がって生きる誘惑に陥らないように注意しなさいと、パウロは警告しているわけです。互いに重荷を負い合いなさい、というのは、お互いが自分の力ではなく、ただイエス・キリストによって赦され救われた者であるということを確認し合い、そのことを共に喜び誇っていくということも意味しているのです。 

3 善を行う

 それから、パウロは、9節ー10節でこう書いていますね。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」
 ここでパウロが言っている「善」とは何でしょう。「善」とは、「良きこと」なわけですから、いろいろな内容が含まれているでしょうが、私たちにとって最も善なることとは、何でしょうか。もちろん、イエス様が私たちのためになしてくださったことです。マルコ7章37節に「この方のなさったことは、みなすばらしい。」とあるように、イエス様のなさることは、私たちにとってみなすばらしいのです。
では、私たちが行う善とは何でしょうか。
 イエス様は、マルコ10章43節ー44節で「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と言われましたね。皆さん、イエス様は神の国で一番偉い方です。最も偉大な方です。そのイエス様がしもべとして来てくださったのです。私たちのためにいのちをかけてまで仕えるために来てくださったのです。そのキリストのように「みなのしもべとして仕えて生きること」、それが善なることの中心なのですね。
 思い出してくください。今日の箇所の鍵となるのは、3節の「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」ということばです。自分をりっぱであるかのように誇るのではなく、キリストのようにしもべとして仕えることが大切なのだ、というのですね。 そして、パウロは、「特に信仰の家族の人たちに」と書いていますが、これは、教会外の人たちよりも教会内の人たちに善を行うことのほうが大切だ、ということではありません。
 ご承知の通り、ガラテヤの諸教会には、パウロにとって心痛む問題がありましたね。パウロにとって、その問題の解決が優先課題でした。なぜなら、その問題の解決することによって、ガラテヤ教会の人たちの生き方がキリストに似た姿に変えられていくことになるからです。ですから、パウロは、まず、ガラテヤ教会の信徒である人たちの間でキリストのように仕え合うことを実践していきなさい、とわざわざ書いているのです。教会の中で実践できれば、教会の外部の人たちに対しても実践していくことができるようになるからです。すべての人に善を行うために、まず教会の中から始める必要があるということなのですね。

 私たちは、いつも自分を吟味しながら、おごりや高ぶりの誘惑に陥らないようにいつも自分を吟味し、互いに点検し合い、互いにキリストに愛されている大切な存在であることを覚えつつ、しもべの心を大切にしながら歩んでいきましょう。