城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年五月一日             関根弘興牧師
                ガラテヤ六章一一節~一八節
 ガラテヤ人への手紙連続説教15
    「新しい創造」

11 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(新改訳聖書)

 今日は、ガラテヤ人への手紙連続説教の最終回です。
 パウロはたくさんの手紙を書きましたが、そのほとんどは口述筆記でした。パウロ自身は簡単な挨拶の言葉や署名だけを書き加えるということが多かったのです。
 しかし、このガラテヤ人への手紙は違います。今日の箇所は、すべてパウロが自分自身で書いています。11節に「私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」とありますね。この時代は、羊皮紙やパピルス紙を使っていましたが、そういう紙はとても貴重なものでしたから、手紙を書くときに紙を無駄にしないように間違いのないように丁寧にきっちりと書くことができる筆記者がいたのですね。しかし、今日の箇所は、パウロが自らペンを取って書いたのです。
 「こんなに大きな字で」書いているとありますが、これは、パウロは字を書くのが苦手で、いわゆるマス目からはみ出してしまうほど下手だったのだと考える人もいます。また、パウロは目が悪かったので、大きな字しか書けなかったのだと考える人もいます。
 ただ、パウロがここでわざわざ「こんなに大きな字で、自分のこの手で書いている」と記しているのは、それよりももっと大切な理由があったのではないでしょうか。パウロは、この手紙の最後に、何としても自分の思いをはっきり伝えたいと思って、自分自身で大きな文字で目立つように書いたのだと考えるのが一番筋が通っているように思います。
 つまり、今日の箇所は、パウロが自分で大きな字で書き送るほど大切な内容が書かれていて、この手紙全体の要約でもあるということなのですね。
 では、詳しく見ていきましょう。

1 肉を誇るな

 まず、12節ー13節でパウロはこう書いています。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」
 何度もお話ししているように、ガラテヤ教会の中に「割礼を強制する人たち」がいたというのです。
 割礼というのは、男性の生殖器の皮を切り取る儀式で、ユダヤ人は皆、生まれて八日目に割礼を受けていました。ユダヤ人とって律法に従って割礼を受けることは、神に選ばれた民であることを示す大切な伝統的な儀式でした。ですから、イエス・キリストの弟子たちが「イエス・キリストを信じるだけで救われるから、割礼は必要ない」と教えているのに大きな反感を抱いていたのです。そのために教会はユダヤ人たちから迫害を受けていました。
 ところが、教会の中にも次第に「割礼を受けるべきだ」という教えが入り込んできました。ユダヤ人クリスチャンたちの中に、「イエス・キリストを信じるだけでは足りない。異邦人もユダヤ人と同じように割礼を受けなければならない」と言って、異邦人クリスチャンにも割礼を強制的に受けさせようとする人々が出てきたのです。そのため教会は混乱に陥ってしまったのですね。
 彼らは、異邦人クリスチャンに割礼を受けさせることは正しいことだと思い込んでいました。ですから、自分たちの活動を誇っていたに違いありません。また、彼らは、同胞のユダヤ人にイエス・キリストを信じてもらうためにも、割礼の大切さを強調すべきだと考えていたのかも知れません。ユダヤ人たちの反感を減らし、福音を伝えやすくするために割礼を推進する必要があると思って、自分たちの活動ぶりを誇っていたに違いありません。つまり、彼らは、異邦人に対しては「イエス様を信じれば救われますが、割礼を受けることによって救いは完成するのですよ」と教え、ユダヤ人に対しては、「私たちは、異邦人に割礼を勧めているのですから、あなたがたの伝統にそって活動している仲間なんですよ」というふうに説明していたわけです。
 しかし、パウロは、そういう彼らを「肉において外見をよくしたい人たちだ」「異邦人に割礼を受けさせることを自分の功績のように誇りたいだけだ」「キリストの十字架のために迫害をうけたくないだけだ」とはっきり大きな字で記したのです。
 パウロには、彼らは御都合主義に生きているように見えたのでしょう。ユダヤ社会から迫害されたり追い出されたりしないようにユダヤ人におもねって「割礼が必要だ」と言っているだけだというのです。どちらに転んでも大丈夫なように二股をかけて生きているような信仰だと言っているのですね。
 彼らは、自分が割礼を受けていることを誇り、また、異邦人に割礼を受けさせたことを自分の功績として誇ることに熱心な人々です。でも、実際には、パウロが13節で言っているように、割礼を受けたとしても、自分の力で律法をすべて完全に守ることなど誰もできないのですから、ただ割礼を受けたことだけを誇るのは愚かなことですね。
 彼らは、「割礼を受ける」「割礼を受けさせる」という自分の行いを誇るようになっていました。それは、彼らが、「神様の一方的な恵みによりイエス・キリストの十字架のみわざによって罪が赦され救われる」という福音の基本からずれてしまったからです。「ただ神様の恵みによりイエス・キリストを信じることによって救われる」ということを少しでも忘れたり疑うようになると、必ずと言っていいほど、「自分の努力によって何かの戒めを守らなければならない」「自分の行いによって救いを達成しなければならない」という方向にずれていってしまうのです。そして、その結果、「私はきちんと戒めを守っているから大丈夫」と自負して、自分が何か立派でもあるかのように勘違いする人も出てきますし、また、「自分は戒めをきちんとまもれないから駄目だ」と自己卑下して落ち込む人も出てくるのです。神様の愛と恵みの中で安息して生きるという姿がいつのまにか失われてしまうのですね。

2 イエス・キリストの十字架だけを誇りとする

 そのような傾向に傾きつつあるガラテヤ教会に対して、パウロは、「外見上のことや自分の表面的な行いを誇るのではなく、イエス・キリストの十字架に表された神様の恵みに生きる人生を選び取っていこう。キリストの十字架を誇る生き方こそ、本来のクリスチャンの生き方なのだ」と教えています。
 14節にこう書かれていますね。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
ここで「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して対して十字架につけられた」とありますが、これは、この世の社会生活をすべて放棄するという意味ではありません。社会から隔絶されて生きるということでもありません。私たちはこの地上にある限り、この社会と無関係に生きることなどできません。むしろ、社会の一員としての義務と責任を果たしていくことが大切です。
 パウロがここで言っているのは、「私はこの世の中に生きてはいるけれど、私はもはやこの世に属しているのではない」ということです。
 ピリピ人への手紙の中では、パウロは「私たちの国籍は天にあります」と記しています。これは、「死んだら天国に住むようになるのですよ」という意味だけの言葉ではありません。「今、この世に生活している間も、私たちはすでにキリストにあって天に属する者となったのだ。私たちの国籍はこの世ではなく天にあるのだ」ということです。
 ですから、私たちは、天に国籍を持つ者として、つまり、神の子どもとして生きているのです。しかし、それと同時に、私たちは、キリストにあってこの世に遣わされた者でもあります。パウロは「私は世に属するものではなく、天に属するものだ。しかし、この世に使命を持って遣わされているのだ」という世界観を持っていたのです。それは、私たちも同じで、私たちは、このことを意識して生きていくことが大切なのです。

3 新しい創造が大事

そして、パウロは、15節でこの手紙の中心的な主題を表す言葉を記しています。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
 この「新しい創造」とは何でしょうか。
 第二コリント5章17節には「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。この「すべてが新しくなりました」という言葉は、「そこには新しい創造があります」と訳すことができます。キリストを信じて生きる人は皆、新しく創造された者だというのですね。
 聖書は、「最初の創造」と「新しい創造」があることを教えています。
 最初の創造の記事は、聖書の一番最初の創世記に書かれています。神様が天地万物を創造されたこと、そして、造られたすべてのものがはなはだよかったということが書かれています。 人も神様のかたちに似せて造られました。最初に造られた人、アダムとエバは、エデンの園で神様の恵みの中で生活をしていました。ところが、神様に食べることを禁じられていた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまったのです。
 神様は、「その木から取って食べてはならない。食べると、必ず死ぬ」と警告なさっていました。なぜ、そう言われたのでしょうか。それは、善悪の基準は神様のものであり、人が勝手に自分で基準を設けて判断してはならないということを示しています。それは、とても大切なことでしたから、はっきりわかるように、その木は園の中央に植えられていました。
 しかし、誘惑者がやってきて「その木の実を食べれば、あなたは神様のようになれますよ」と人を誘惑しました。「自分の判断で生活できるようになるから、神様が必要なくなる。神様から離れて自立できるよ」という誘惑でした。なんと魅力的な誘惑でしょう。
しかし、「自立」とは、一体何でしょう。自立とは何でも自分一人でできるようになることだと思っている人が多いのですが、本来の自立とは、他者との関わりを健全に保ちながら生活していくことなのだそうです。神様との関係、隣人との関係を健全に保って生きていくときにこそ本当の自立が実現できるのです。天地を創造された神様から離れて、自分の判断で、自分の思いで、自分の基準で、一人で歩んでいけます、というのは、自立ではなく、あまりにも危険な独りよがりの生き方なんです。小さな人間が創造主なしで生きていけると考えること自体、高慢ですね。
 しかし、神様から離れて自分の判断で自分の力で生きていこう、自分で自分の人生を支配していこう、という誘惑は今でも続いています。アダムとエバは、その誘惑に見事にのせられてしまいました。そして、自ら神様から隠れ、背を向けていくようになったのです。その結果、人は何を得たのでしょう。神様との関係が破壊され、神様から離れ、神様のいのちを受け続けることができなくなってしまったのです。自分の存在意義がわからなくなり、本当の愛がどのようなものかわからなくなり、人間関係も破壊され、自然との関係も破壊され、罪から来る報酬は死であると書かれているように、最終的に死を待つだけのものとなってしまったのです。
 しかし、罪と死の支配の中にいる私たちに新しい生き方を与える道を神様御自身が備えてくださいました。
 私たちは、自分で自分を新しく造りかえることはできませんね。いくら戒めを守り立派な行いをすることによって新しくなろうとしても、かえって出来ない自分の弱さを思い知るだけなのですね。割礼を受けても新しく生まれる変わることなどできません。
 しかし、キリストが、私たちの罪をすべて背負って十字架について三日目によみがえられました。それによって、私たちの罪はゆるされ、神様との関係を回復し、神様のいのちを与えられ、新しく創造された者として生きることができるようになったのです。罪と死の支配の中にあった古い自分は、キリストとともに十字架につけられ、新しく創造された者として新しい人生を歩み始めることができるのです。
 このキリストによる新しい創造こそ大切なことなのだ、とパウロは大きな字で記しているのです。

4 この基準に従って歩む

そして、パウロは続けて16節でこう書いています。「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」
「この基準に従って進む人々」とは、イエス様を信じ受け入れて新しく創造された人々です。パウロは、そういう人たちこそ「神のイスラエル」、つまり「神の民」なのだと言います。私たちは、このことをしっかりと覚えておくことが大切です。私たちの基準はたった一つです。イエス様の十字架と復活によってもたらされた福音を信じるならば、赦しといのちが与えられ新しく造られた者とされ、神の子として生きていくことができるということです。誰もこの基準を外れて、「私たちは特別な民だ」とか「私たちは特別に選ばれた者たちだ」と言って自分たちが特別であるかのように振る舞うことはできません。救い主イエスを信じているかどうかだけが基準なのです。
 ユダヤ人は、まず最初に神様に選ばれて、神様から律法を与えられ、神様の様々な奇跡的なみわざも経験しましたから、そういう意味では、他の民族とは違っていました。しかし、まずユダヤ人が選ばれたのは、すべての民族に神様の祝福がもたらされるためだったのです。神様は、ユダヤ人だけでなくすべての人を救うためにイエス・キリストを与えてくださいました。ですから、ユダヤ人であろうとそうでなかろうと、ただイエス様によって救われ、新しく創造されるのです。ですから、すべての人がキリストにあって一つとされているのです。そこには、何の隔ての壁もありません。

5 イエスの焼き印

さて、パウロは17節でこう書いていますね。「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」
 「だれも私を煩わさないようにしてください」というのは、どういうことでしょうか。パウロを煩わすのは、どのようなことでしょうか。
 パウロは、ピリピ4章12節-13節ではこう書いています。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」パウロは、ここで、「私は、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と大胆に告白しています。「何ものにも煩わされることはない」と言っているように思えますね。
 しかし、そんなパウロが大変思い煩うことがありました。それは、キリストの福音が歪められ、イエス・キリストから人々を引き離そうとする教えが教会の中に入り込んできたことです。
 それは、パウロを最も煩わせるものでした。その理由をパウロは「この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」と書いています。焼き印とは奴隷の体に押されるものです。また、新兵が入隊したときに腕に焼き印を押されたそうです。つまり、パウロが「私はイエスの焼き印を帯びている」というのは、「私はイエス様のものであり、イエス様のしもべであり、イエス様の兵士とされている」ということです。そのイエス様のしもべであり兵士であるパウロが伝えている福音が歪められていったなら、その焼き印の傷がずきずきと痛むわけですね。
 ですから、「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください」という言葉には、「これからは、間違った教えに惑わされることなく、ただイエス・キリストを信じて生きていってほしい」というパウロの願いが込められているのですね。つまり、パウロは何としてもイエス様の福音がいつもどこにおいても正しく伝えられていくことを一番に考えていたのです。その思いを私たちはこのガラテヤ書からしっかりと引き継いでいきたいのですね。

6 イエス・キリストの恵みがあるように

 そして、パウロは、最後に祈りを書き記しています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。」
 ここで、「あなたがたの霊とともにありますように」というのは、「あなたがたの思索や心の中心にありますように」ということです。そこにキリストの恵みがいつもあるように、つまり、あなたの行動やあなたの考えやあなたの生き方の根底に、いつもキリストの恵みがあるようにと祈っているのです。
 パウロは、そうでない現実が教会の中にあるのをたびたび見てきました。だから、キリストを信じる人々がいつもキリストの恵みに根ざして生きていってほしいと祈っているのです。
 私たちは、この手紙を閉じるにあたり、パウロと同じ祈りをささげたいと思います。
 「主よ、私の思い、考え、行動、振る舞いの根底に、いつもキリストの恵みがありますように。キリストの恵みを覚え、恵みに憩い、恵みに生きる者として歩ませてください。」