城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年六月五日             関根弘興牧師
                  ルカ一八章九節~一四節
 クリスチャンライフの点検1
    「自己義認の誘惑」

9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(新改訳聖書)

 これから六月と七月にかけて、私たちのクリスチャンライフを聖書から点検していきたいと思います。
 今日は、その第一回目です。私たちは、気付かないうちに「自分は正しい」という態度を持ってしまいがちですね。その「自己義認」の態度について考えていきましょう。

 今日の聖書箇所には、イエス様のたとえ話が書かれています。二人の人物の祈りの姿が出てきますね。一人は、当時の宗教的なエリート集団のパリサイ人です。もう一人は、当時のユダヤ社会の中で人々から嫌われ、罪人呼ばわりされていた取税人です。この二人が祈るために宮に上ったのです。当時は、いつでも神殿の庭に入って祈ることができました。この二人は、どのような祈りをしたでしょうか。

1 パリサイ人の祈り

 まず、11節ー12節にパリサイ人の祈りが書かれていますね。
 「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」
 このパリサイ人というのは、新約聖書によく出てきますが、ユダヤ教の信徒集団パリサイ派に属する人のことです。「パリサイ」とは、「分離する」という言葉から生まれたと言われます。つまり、パリサイ派とは「分離派」とか「人と自分を分け隔てる者たち」という意味で、律法や先祖伝来の戒めを厳格に守ることに熱心で、自分たちは普通の人々とは違うという自負を持っている保守的でプライドの高い人々だったのです。
このパリサイ人は、この祈りを見る限り、悪い人ではなさそうですね。「私はゆする者ではないし、不正な者、姦淫する者でもありません。取税人のように不正な利得で私腹を肥やすこともしていません」、つまり、他の人々のような悪いことはいっさいしていません、他の人々より立派な正しい生き方をしています、と祈っているのです。
 また、続けてこう祈っています。「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」
 ここに「断食」と「十分の一をささげる」という言葉が出てきますね。
 まず、断食ですが、旧約聖書の律法の中で、毎年第七の月の十日は「贖罪の日」と定められており、その日には「身を戒めなければならない」と命じられていました。そこで、皆、年に一度、その日に断食をしたわけです。
 その後、歴史が進んでいくと、幾多の悲劇や困難を経験する度に、そのことを覚えるために断食が行われるようになりました。預言者ゼカリヤという人が活躍した時代には、年に四度断食するようになっていました。
 そして、イエス様がこのたとえ話をされた新約の時代には、特に、パリサイ派を中心に月曜日と木曜日の週二回断食するようになっていたのです。ですから、ここに出てくるパリサイ人は、「私は、決められたとおり週に二度断食するという宗教的な務めをきちんと果たしています」と祈っているわけですね。
 もう一つは、「十分の一をささげる」ということですが、旧約聖書の律法には、作物の収穫をしたり家畜が増えたときは、その十分の一を神様にささげるという決まりがありました。それは、神様が与えてくださった恵みに感謝を表すためでした。しかし、イエス様の時代になる頃には、パリサイ人たちは、厳格に律法を守ろうとするあまりエスカレートして、事細かにすべてのものを計算して一円の狂いもなく十分の一をささげていたのです。つまり、このパリサイ人は、「私は、神様が命じられた十分の一のささげものの決まりを細かいところまで寸分の狂いもなく、きちんと守っています」と祈っているわけです。
 彼は、「私は、正しい生活をし、神様の律法をきちんと守って生活している」という自信があるので、神様が自分を義と認めてくださるのは当然だと思って、神様の前に立って堂々と祈っているわけですね。これだけ自信を持って祈っているのですから、確かに熱心に努力していたのでしょうね。

2 取税人の祈り

 一方、取税人の祈りは、パリサイ人の祈りとはまったく違いますね。13節にこう書かれています。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」
 この取税人は、遠く離れて立っていました。そして、「目を天に向けようともせず」祈っていたとありますね。祈るときは、立って、手を上げ、天を見上げて祈るのが普通でした。しかし、この取税人は、天を見上げることができなかったのです。よく、「あの人には顔向けできない」という表現をすることがありますが、この取税人は「神様に顔向けできない」という思いを持っていたのです。
 また、彼は、「自分の胸をたたいて」祈っていたとありますが、「胸をたたく」というのは、非常に激しい悲しみや嘆きを表現する動作です。悲しみに打ちひしがれている姿ですね。
 そして、彼は、ただひと言、「神様、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈っているのです。
 彼は、ここで二つのことを言っていますね。「私は罪人です」ということと「神様、あわれんでください」ということです。
彼は取税人でした。当時の取税人は、人々から税金を取り立ててローマ政府に納める仕事をしていました。当時としては、教養もあり経済的に豊かな人たちです。しかし、ユダヤの社会では、取税人は、ローマ政府の手先であり、汚れた異邦人と関わっている汚れた罪人だと見なされていました。この取税人も常日頃からユダヤの人々に罪人呼ばわりされていたでしょう。
 しかし、彼がこの祈りの中で自分を罪人だと言っているのは、そういう意味ではありません。また、彼は、警察のお世話なるような悪いことをしていたわけでもなかったでしょう。しかし、自分の心の内を見て、自分は正しい神様を見上げることなどできないほどの罪人だということを自覚していたのです。彼は、ここで「私は、神様の前で罪人です。聖なる神様がご覧になったら、本当に罪のある存在です」という告白をしているのです。
 そして、彼は、「神様、私をあわれんでください」と祈り求めています。この「あわれんでください」という言葉を名詞の形にすると、「罪を償う供え物」という意味の言葉になります。新改訳聖書では「なだめの供え物」という訳されている言葉です。つまり、「罪人である私をあわれんでください」というのは、「罪の中にある私ですが、私に対する怒りを鎮め、私の罪を拭い去って、神様と正しく自由な関係を持つことができるようにしてください」と祈っているわけです。

3 義と認められた人

 さて、この二人、パリサイ人と取税人の対照的な祈りについて、イエス様は、何と言われたでしょうか。14節にこう書かれています。「あなたがたに言うが、この人(取税人)が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」
 取税人は義と認められたけれど、パリサイ人は義と認められなかったというのですね。
 この「義と認められる」というのは、法律用語です。「裁判で無罪宣告を受ける」という意味があります。神様の前で「罪がない」と認められるということですね。また、「義と認められる」というのは、義なる神様とまっすぐな正しい関わりの中で歩んでいけるようになることも意味しています。
 では、なぜパリサイ人は義と認められなかったのでしょうか。
 彼は、「自分は完璧に宗教的な戒めを守り実行している」と思っていました。他の人々が見ても、この人は大変立派で模範的な信徒に見えたことでしょう。
 しかし、よく考えてみると、このパリサイ人は、神様への祈りや断食やささげ物を利用して、自分を正当化し、自分を誇る道具にしてしまっているのです。
 たとえば、断食ですが、本来、断食は、自分を戒め、自分の罪を自覚し、神様に近づくための熱心な祈りと悔改めの行為でした。しかし、ここに出てくるパリサイ人は、「週に二度」きちんと断食をしていることが自分の誇りとなってしまっていたのです。
 そして、この人は、比較することが大好きなんですね。「私はこれだけやっています。しかし、あの人はまったくやっていないから駄目です」「私はきちんと守っています。しかし、あの人は守っていないから、私の方が立派です」「私は正しいけど、あの人は間違っています」という態度です。
 「自分は十分やってきました。悪いことなど何一つしていませんし、神様への奉仕も十分に果たしてきました。戒めも守ってきました。これだけやってきたのですから、私が神様の前に正しいと認められて当然ですよね」、そんな風に考えていたことでしょうね。
 この世の中では、このような考え方のほうが普通ですね。認められるためには、自分で努力して条件を満たすことが必要だという考え方です。
 この教会が宗教法人の認可を受けるまでには、たくさんの書類を提出し、審査を受け、不備を指摘され、すべての条件をクリアしなければなりませんでした。何もしなければ、いつまでも認められませんね。
 会社でも入社すると最初は試用期間というのがありますね。そして、ある程度の仕事を覚えると、「お前もようやく一人前になったな」と認められていきますね。
 私が神学校の学生であったとき、ある先生がこう言われました。「皆さんは、これから牧師として働くわけですが、だれでも五年もやれば牧師として認められるようになりますよ。まあ、それまでがんばってください。」 
 認められるためには、いつも自分が何らかの条件や基準を満たすことが必要なわけですね。
 ここに出てくるパリサイ人も同じように考えていました。神様に義と認められるためには、自分が神様の基準をきちんと満たすことが大切だと思って熱心に頑張っていたわけです。そして、そんな自分を神様が認めてくださるのは当然だと思っていたのですね。
 しかし、神様に義と認められたのは、このパリサイ人ではなく、取税人の方でした。
 では、なぜ取税人は義と認められたのでしょうか。
 皆さん、この取税人は、義と認められるためにいったい何をしましたか。立派な功績を立てて、償いをして、悔い改めの豊かな実を結んだので、その結果として義と認められたのでしょうか。違いますね。この人はただ、自分が神様の前で罪人であること認め、「罪を赦していただきたい。神様とまっすぐな関わりを持って歩んでいきたい」と願っただけです。
 そして、その祈りをしたとき、神様は、彼を義と認めてくださったのです。
 神様の前で義と認められるというのは、私たちの行いや功績によるのではありません。神様は私たちを愛してくださっていますから、私たちが神様の前でただ自分のありのままの姿を認め、祈り求めるとき、恵みとあわれみによって赦し、義と認めてくださるのです。
 イエス様は、今日の箇所の最後にこう言っておられますね。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 「自分を高くする者」とは、このパリサイ人のような者ということですね。その特徴は、自分自身で自分を評価して、「私はなかなかいい線いっているぞ。周りの人と比べても私のほうが立派だな」と思っているのです。そして、自分の努力や能力で神様に認められることができると勘違いしています。
 しかし、そういう人は、いつか低くされてしまう、というのですね。周りを比べて自分を誇っている人は、調子のいいときは、高みに上った気分になるでしょう。しかし、ちょっと不都合が起これば、今度は必要以上に自分を責めり、他人を責め、自分は駄目だと落ち込んでしまうようになるのです。自分の評価を基準にしている人、自分の力や功績を基準に自分を評価しようとする人は、不安定な崩れやすい土台の上に生きているのですね。
 一方、取税人は「自分を低くする者」ですね。彼は、正直に自分を見つめ、「神様の前に私は罪ある者だ。神様の目から見たら私は罪人にすぎない」という自覚を持っていました。「私は天に顔を向けることの出来ない者だ」と正直に告白していったのです。そして、そんな自分が義と認めていただくためには、ただ神様にあわれんでいただくしかないのだと知っていました。ですから、真剣に神様のあわれみを祈り求めたのです。そして、神様は、そういう祈りに必ず答えてくださるのです。
 人は、神様の目から見たら、誰も皆、同じように罪人であり、自分の力で神様の基準に達することなどとても出来ない弱く不完全な者です。そのことを認めずに、自分で頑張れば義と認められると思っていたら、神様のあわれみを求めようとはしないでしょう。しかし、自分のありのままを正直に認め、神様の助けなしには義と認められることはできないということを自覚するなら、心から神様のあわれみを願い求め、受け取ることができるのです。
 神様は、自分の力で義と認められることのできない私たちをあわれみ、私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。パウロはローマ3章24節にこう書いています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
 私たちは「価なしに」、つまり、自分の努力したり、功績をあげたり、犠牲を払うことなしに、ただイエス様の十字架による贖いによって義と認められるのです。
 また、パウロは、ローマ5章1節で、こう書いています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
 イエス様は、私たちの罪を背負い、十字架についてくださっただけでなく、復活して、いつも私たちと共にいて、私たちが神様の平和の中に憩うことができるようにしてくださるのです。
一人の死刑囚が獄中でクリスチャンになりました。昭和五十年六月二十五日に刑が執行されたそうですが、彼がクリスチャンになってから書いた詩があります。

僕が歩くと罪が生まれる。
その罪をひろい隣人にわびながら
昼も夜もついてきてくださる尊いお方のみ姿がある。
先にばかりおられると思ったのに
あなたは僕のあとからも、
あの日からついてきてくださったのですね

 イエス様は、神様の関係を回復してくださるだけでなく、いつも共にいて、私たちの前を歩むばかりか、私たちの後からもついてきてフォローしてくださるのですね。
 第一ヨハネ2章1節には、「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」と書かれています。キリストが私たちのためにいつも神様の御前で弁護してくださっているのですね。
 しかし、私たちは、クリスチャンとして歩んでいく中で、いつのまにかそのことを忘れて、自分の努力や功績で神様に認められようとしてしまっていることがありますね。そして、自分がこれだけやっているのだから、神様から認められて当然だと思ったり、人と比べて自分を誇ったり、人を下に見たり、また逆に自分は駄目だと落ち込んだりしてします。
 しかし、私たちは神様の目には皆同じです。皆、神様の恵みとあわれみによって救われ、守られ、支えられながら生きているのです。ですから、自分を誇ったり、自分の正しさを主張するのではなく、神様のあわれみによって赦された罪人として、謙遜に歩んでいく者となっていきましょう。