城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年六月一二日            関根弘興牧師
                  ルカ一一章五節~一三節
 クリスチャンライフの点検2
    「求め、捜し、たたけ」

 5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。 13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(新改訳聖書)

 クリスチャン生活の点検の第二回目として、今日は「祈り」ということについて考えていきましょう。
 今日の聖書の箇所も、前回と同じくイエス様のたとえ話から始まっています。
 イエス様は、このたとえ話の登場人物になったつもりで考えてみなさい、と言って話し始められました。
 或る日の真夜中、旅の途中の友人が突然やってきました。しかし、出してやるものがありません。そこで、別の友だちの所に行って「パンを三つ貸してくれ」と頼みましたが、断られてしまった、という話ですね。
 ここに出てくる人物は皆、友だちです。でも、友だちもいろいろですね。真夜中に立ち寄るずうずうしい友だちもいれば、もてなしのために奔走する友だちもいる、また、友だちだからといって、真夜中に起きて何かやるなんでとんでもない、と冷たく断る友だちもいるわけですね。しかし、ここで問われているのは、どのような友となるべきかというような友人関係のことではありません。
 イエス様がこのたとえ話を使って教えようとしておられたことは、8節に書かれています。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」
 友だちのよしみで頼んでも貸してもらえなかったけれど、そこであきらめずに、あくまで頼み続けるなら、最後には貸してくれるだろうというのですね。この「あくまでも頼み続けるなら」という言葉は、新共同訳聖書では「執拗に頼むなら」と訳されています。つまり、「一度だけであきらめないで、頼み続けることが大切だ」というのですね。
 イエス様は、これと同じようなたとえ話をルカ18章2節ー5節でもなさっています。一人のやもめが裁判官に裁判をしてくれるよう執拗に訴え続ける、というたとえ話です。裁判官は傲慢で冷たい人物でしたから、しばらくはやもめの訴えを無視していましたが、やもめがひっきりなしにやって来てはうるさく訴え続けるので、ついに重い腰を上げて裁判をしてやったという話です。
 イエス様は、このたとえ話の後にこう言われました。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」つまり、「意地悪な裁判官でさえ、しつこく繰り返されるやもめの訴えに応じたとするならば、まして、愛とあわれみに満ちた神様が私たちの訴えを放っておかれるはずがないではありませんか」と言われたわけです。
 また、イエス様がこのやもめと裁判官のたとえを話された目的が18章1節に書かれています。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された」と書かれているのですね。
 つまり、祈ることをやめてはいけない、失望しないで祈り続けることが大切なのだ、ということをイエス様は教えておられるのです。
 そして、失望しないで祈り続けるために、知っておくべき大切なことがあります。それは何でしょうか。

1 祈りを聞いてくださる神がおられる

 まず、「祈り」について考えるときに、大前提があります。それは、祈りを聞いてくださる神様がおられるということです。
 聞いてくれる相手がいなければ、祈っても虚しいですね。この世では、いろいろな所でいろいろな対象に対して祈りますが、詩篇115篇4節-8節にこう書かれています。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」銀や金や石や木で造ったものに対して祈っても、聞くこともできず、答えることもできませんね。
 しかし、私たちの祈りを聞いて答えてくださる生ける神様がおられるのです。詩篇65章2節に「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります」とあります。祈りを聞いてくださる方がおられるからこそ、私たちは、いつでもどこでも何についても執拗に祈り求めることができるのです。生ける神様が私たちの祈りを聞いてくださっている、そのことを覚えつつ祈りましょう。
 ところで、今日の箇所に「あくまで頼み続けるなら」と訳されていますが、原文を見ると、「頼む」という言葉はどこにも出てきません。そして、「あくまで」とか「執拗に」と訳される言葉は「恥」と言う言葉を打ち消す言葉なんです。つまり、時には「恥を知らず」と訳されたり、「恥をかかない」と訳されたりする言葉なのですね。
 ですから、「あくまで頼み続けるなら、必要な物が与えられる」というのは、「彼の恥知らずと思えるような行動の故に必要な物が与えられる」とも訳せるし、「頼まれた側が恥をかかないために必要な物が与えられる」とも訳せるのです。
 旧約聖書の箴言3章28節は、新共同訳聖書ではこう訳されています。「出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな。あなたが今持っているなら。」これは、「友だちに頼まれたものが手元にあるなら、その場ですぐに与えるべきだ」ということですね。
 この箴言の言葉は、ユダヤの社会に生きている人なら皆、よく聞かされていたはずです。ですから、今日のイエス様のたとえ話を聞いていた人たちは、「友だちがパンを貸してくれと頼みに来たら、すぐに貸してやるのがあたりまえだ」と思っていたでしょう。いくら真夜中に起こされて迷惑だったとしても、貸さなければ、後で「友だちに頼まれたのに断った男」として恥をかくことになるかもしれませんから、自分の面子にかけて貸してやるだろうと考えたでしょう。箴言の言葉の通りに行うことが、恥をかかず面子を保つことになるわけです。ですから、この箇所は、「頼まれた友人は、自分が恥をかかないために必要なパンを貸すだろう」というような意味に取ることもできるというわけです。
 だとするなら、まして、私たちの神様は、ご自分の面子にかけて、ご自分の名にかけて、私たちの祈りを放っておかれるはずがない、聞かずにはおられない方だということですね。そう理解すると、私たちは、祈ることに対して勇気が出てきますね。

2 求め、捜し、たたき続けることが大切

 そして、イエス様は、9節ー10節で大変有名な言葉をお語りになりました。
 「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
 この「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」という言葉は、「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」という継続を示す言葉です。一度であきらめずに、継続的に執拗に祈り続けることが大切だというのです。
 しかし、私たちは、祈り続けることを止めてしまうことがありますね。それには、次のような理由があるのではないでしょうか。

➀神様は現実の生活に関わりのない方だと思ってしまっている

 神様が実際の生活と関わりがないと考えたら、いろいろなことを神様に祈り求めようとはしませんね。神様に祈るのは礼拝の時だけで、あとの生活には関係ありません、となってしまいます。神様にお祈りするのは、信仰的な高尚なことだけで、日常生活の些細なことまで祈るものではないと思っている人もいるかもしれません。「こんなことを神様にお祈りするのは失礼だ」とか「神様はこんなことに関心は持っておられないだろう」と思う人もいるかもしれません。
 しかし、神様は、私たちの衣食住から生活のすべてに関心を持っておられ、私たちの必要をすべて満たそうとしてくださる方です。だから、どんな些細なことでも祈り求めていけばいいのです。その中で、神様が実際に私たちの生活の至る所でみわざを成してくださる方であることを知っていくことができるのです。

②神様の力を過小評価している

 「あなたの神は小さすぎる」という本があります。私たちは、時々、神様を自分の小さな理性という箱に押し込めてしまうことがあるのです。そして、「神様だって無理ですよ」「神様だってこの問題は解決できないでしょう」と勝手に決めつけてしまうのです。
 この会堂が出来る以前、こう思っていた方が多いのではないでしょうか。「新しい教会を建てるだって?それも城山に建てるなんて無理だよ。土地もないし。高すぎてとても買えないし。」私自身もそう言っていました。現状を見ると、そんなことは無理だと、すぐにあきらめてしまうのですね。
 しかし、神様は、なんと憐れみ深い方でしょう。周りの状況を働かせて、私たち一人一人に求める心を起こさせてくださったではありませんか。そして、ちょうどいいタイミングで、素晴らしい場所と必要な資金と、必要な人々を供えてくださったのです。
 二十年間借りていたOCCの場所を離れるとき、神様は、黙示録3章8節の言葉を与えてくださいました。「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた」と。
 私たちは求め、捜し、たたくのですが、神様はすでにすべてを準備し整えていてくださるのです。

③待つことができない

 私たちは、祈っても何も結果が見えないと、すぐに失望し、あきらめてしまいがちですね。
 でも、時には、時間がかかることがあるのです。また、祈り続けるうちに私たちの側の態度や思いが変化してきて、本当に必要なものを祈ることができるようになっていくこともあります。祈り続けるうちに、神様のみこころが次第にはっきりわかってくることもあります。また、自分の姿がはっきりわかってくることもあります。そういうことは、祈り続けないとわからないのですね。すぐに祈りを止めてしまうと、わからないことがたくさんあるのです。祈りは神様とのコミュニケーションです。祈りの中で神様との関係が深まっていくのです。だから、祈りの継続は大切なのです。
 また、あきらめずに祈り続けることは、神様への信頼を告白し続けることでもあります。神様に期待して、求め、捜し、たたき続けていきましょう。

3 聖霊を下さる神

 しかし、私たちは、自分がすぐに失望してしまう弱い者であり、信じることの足りない者であり、祈り続けることがなかなかできない者であることを感じることがよくありますね。
 そんな私たちにイエス様は、11節ー13節で、こう言ってくださっています。
 「あなたがたの中で、子どもが魚をくださいと言うときに、
魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵をくださいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
 ここで、「魚の代わりに蛇」「卵の代わりにさそり」が出てきますね。マタイの福音書では、もう一つ「パンの代わりに石」を与えることがあるだろうか、とも記されています。
 このリストは何だと思いますか。これは、「似て非なるもののリスト」なんです。魚と蛇はどう見ても似ていないと思いますよね。でも、ひょろ長い蛇に似ている魚がいるのです。また、卵とさそりは、似ても似つかないように思いますが、石がごろごろしている場所でさそりが丸まっていると、卵のように見えるので、子どもが間違って触って刺されてしまうことがあるそうです。また、石は遠くから見たらパンのように見えますね。 つまり、イエス様がここで言われているのは、「あなたがたの求めに対して、似てはいるけれどあなたがたに害を加えるような偽物を与えるようなことは、天の父なる神様は、ご自分の名にかけて、面子にかけて、絶対になさらないのですよ。神様は、良い物だけを与えてくださるのです」ということなんです。
 そして、神様が与えてくださる良いものとは、「聖霊」だというのですね。
 イエス様は、ヨハネ14章16節でこう約束しておられます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
 イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活し、天に昇られた後、こんどは、イエス様の代わりに「もうひとりの助け主」である聖霊が私たちのもとに来てくださいました。聖霊は、いつでもどこでも私たち一人一人と共にいて、私たちを守り助け導き支えてくださいます。
 ローマ8章15節-16節には、こう書かれています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
 聖霊によって、私たちは神様を「天のお父さん」と呼んで、子どものように何でも祈り求めることができるのです。
 また、ローマ8章26節-27節には、こう書かれています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
 私たちは、時には失望し、祈ることすら出来ないこともあります。しかし、そんな時にも、聖霊が私たちのためにとりなしをし、祈ってくださっているのです。
 イエス様は、私たちに「求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい」とお命じになりましたが、私たちがその命令に従うためには、聖霊の助けが必要であることをよくご存じでした。ですから、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」と約束してくださったのです。
 そして、聖霊は、求める私たちのもとに必ず来てくださり、いつも共にいて祈り続けることができるように助けてくださるのです。

最後に、ルカ11章9節-10節の言葉をご一緒に読んでお祈りいたしましょう。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」