城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年六月二六日            関根弘興牧師
                マルコ一〇章四六節~五二節
 クリスチャンライフの点検3
    「あなたの信仰」

46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(新改訳聖書)

 エリコは、古い歴史のある町です。新約聖書の中で有名な取税人のザアカイが住んでいた町でもあります。イエス様一行がそのエリコの町を出られたとき、道ばたに目の見えない乞食が座っていました。バルテマイという人です。今日はこのバルテマイの人生に起こった出来事を通して、私たちのクリスチャンライフを点検していくことにいたしましょう。
 ところで、私たちの人生が豊かになるために必要なものは、衣食住の他に少なくとも三つあると言われます。
 一つは、「愛情」です。人は、誰からも愛されていないと感じたら、生きることが辛くなってしまいます。逆に、「私は愛されている」と感じることができたら、自信と勇気が湧いてきます。しかし、愛されているだけではまだ不十分です。自分も誰かを愛することが出来たとき、人は本当の充足を得ることができるのです。ある人が言ったように「人は、愛されることによって安心し、愛することによって満足する」のです。
二つ目に必要なのは、「所属」です。自分がどこに属しているのかという所属意識です。もっとくだいて言うと、「自分の居場所があるか」ということです。人は、自分の存在を認めてもらえないと、やはり生きることが辛くなってしまいます。いつも厄介払いされていたら、笑顔も消えますね。自分の存在が認められず無視され続けたら、生きることに失望してしまうのです。ですから、人を気落ちさせる最も簡単な方法は、その人の所属意識を無くすこと、つまり、「お前はもう必要ない」といって無視すればいいのです。人は誰でも「自分の居場所」を求めているからです。
 三つ目に必要なのは、「自己尊敬」ということです。自分がしたことで相手が喜んでいる姿を見ると、うれしいですね。助けてもらうより、助けてあげるほうが何となく気分がいいものですね。これは、子供でも同じです。人の心の中には、誰かの役に立ちたいという思いがあります。私の存在や働きによって喜んでいる人がいると思うと、生きることに前向きになります。つまり、人は、自分の存在が何かの役に立っているという自己尊敬を持って生きたいという願いがあるのです。
 さて、今日登場したバルテマイという人はどうでしょう。彼は、自分が愛されている、居場所がある、人の役に立っていると感じることができていたでしょうか。たぶん、感じることが出来なかったのではないでしょうか。
 当時、体が不自由なのは、本人か先祖が罪を犯したからに違いないという因果応報的な考え方がありました。ですから、盲人のバルテマイは、自分は愛されるどころか、罰せられていると感じていたのではないかと思います。また、エリコの町の中ではなく、道ばたで物乞いをしていました。きっと邪魔者扱いされ、疎外感を味わっていたことでしょう。そして、自分はただ人々のお情けにすがって生きているだけの何の役にも立たない存在だと感じていたことでしょう。
 
1 バルテマイの叫び

 そんなバルテマイが、ある日、興奮して話している人々の言葉を耳にしました。イエス様がこちらに向かって来られるというのです。彼は、それを人生最大の機会ととらえました。この機会を絶対逃してはならないと思ったのです。そこで、なりふり構わず大声で叫び始めました。まわりの人々の静止を振り切って、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び続けたのです。
 ところで、この「ダビデの子」というのは、「救い主」を表す言葉です。それは、旧約聖書の中で、神様がダビデ王に「あなたの子孫がとこしえの王座に着く」、つまり、「あなたの子孫から救い主が出る」という約束をなさったからです。それ以来、「ダビデの子」という言葉が「救い主」を意味するようになりました。そして、イエス様が登場し、素晴らしい教えやみわざを行なっておられるのを見て、人々は、イエス様こそ約束された救い主だと考え、「ダビデの子」と呼んだのです。
 ですから、バルテマイが「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫んだのも、「救い主イエス様、私をあわれんでください」という意味なのです。イエス様が私を救ってくださると期待して叫んだわけですね。
 それから、「あわれんでください」という言葉ですが、これはどういう意味でしょうか。
 前々回、パリサイ人と取税人が神殿の庭で祈った話を読みましたね。その時、取税人は、目を天に向けることもせず、胸をたたいて、「私は罪人です。神様、私をあわれんでください」と祈りました。「神様に顔向けできない罪人の私ですが、どうかあわれんでください」と祈ったのです。
 この箇所の「あわれんでください」という言葉は、名詞の形にすると「罪を償う供え物」、新改訳聖書では「なだめの供え物」と訳されている言葉です。つまり、この取税人は、「罪の中にある私ですが、私に対する怒りを鎮め、私の罪を拭い去って、神様と正しく自由な関係を持つことができるようにしてください」と祈ったわけですね。そして、イエス様は、「この取税人が神様のみ前に義と認められて帰っていった」と言われました。
 さて、今日の箇所で、バルテマイも「私をあわれんでください」と祈っていますが、原語を見ると、この「あわれんでください」は、取税人が祈った「あわれんでください」とは違う言葉が使われています。ここで使われているのは、ただ「同情する、憐憫の情を持つ」というだけでなく、「実際に行動を起こす」という意味が含まれている言葉なのです。
 たとえば、詩篇6篇2節に 「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています」とありますが、この「私をあわれんでください」は、「私をいやしてください」と同じ意味で使われています。つまり、「あわれんでください」とは、単に「同情してください」ということではなくて、「具体的に私の中にいやしをもたらしてください」という祈りなのです。
 バルテマイの「私をあわれんでください」という叫びも、「具体的な行動を起こして、私をいやして救ってください」という叫びだったわけです。
 そして、バルテマイは、この言葉がイエス様の耳に届くまで、叫び続けました。
聖書には、叫び求める祈りが実にたくさん出てきます。詩篇だけでも数え切れないほどの叫びが書かれています。
 「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(5篇2節)「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」(18篇6節)「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」(22篇24節)「私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。」(30篇2節)「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。」(88篇1節)「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。」(107篇28節)
バルテマイも、「今日こそ、救いの日、恵みの時となる」と期待して叫び続けたのです。

2 キリストの問いかけ

 バルテマイの叫びは、ついにイエス様のもとに届きました。イエス様は、バルテマイをみもとに招かれました。そして、まず、こう聞かれたのです。「わたしに何をしてほしいのか」と。
 盲人に対して「何をしてほしいのか」と聞けば、「目を見えるようにしてください」と答えるのは当たり前ではないかと思いますね。しかし、実は、当たり前ではないのです。
 私たちが誰かに何かを頼むときに、頼む相手がとてもできそうもないことは頼みませんね。相手ができそうなことしか頼みません。
 バルテマイも今までは、人から「何をしてほしいのか」と問われたら、「私を人通りの多い道端まで連れて行ってください」とか、「もう少しお金をめぐんでください」とか、「食べ物をください」というふうに答えていたでしょう。「目を見えるようにしてください」とは決して頼みませんね。無理だとわかっているからです。
 しかし、イエス様は「わたしに」何をしてほしいのか、と問われました。それは、「わたしが何ができると思っているのか」という問いかけと同じですね。
 イエス様は、私たちにも同じような問いかけをなさいます。「あなたは、わたしに何をしてほしいのか」と。
 私たちは、時には、「こんなことを頼んでも無理だろう」と思って、本当に必要な大切なものを求めないことがあります。目先の必要や表面的なことを求めるだけで済ませてしまっていることがあるのではないでしょうか。しかし、イエス様は、いつも「あなたが本当に必要としているものは何か。わたしがそれを与えることができないとでも思っているのか。もっとわたしを信頼して願い求めなさい」と語りかけてくださるのです。

3 「あなたの信仰があなたを救った」とは

 バルテマイは、目が見えるようにと願いました。するとイエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すると、すぐさま彼は見えるようになったのです。そして、イエス様の行かれる所について行きました。バルテマイの喜びは、どれほどだったことでしょうね。
 ただ、こういう箇所をを読むと、誤解される方がいます。イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われましたね。それで、「私の信仰次第で救われるかどうかがきまるのだ」とか、「私は信仰が弱いから救われないのではないか」と思ってしまう方がいるのです。自分の信仰の強さとか信仰深さによって救われるかどうか、癒されるかどうかが決まると誤解するのですね。そして、問題が解決しなかったり、病がいやされなかったりすると、「私の信仰が弱いからだ」と落ち込んだり、「あなたの信仰が足りないからだ」と人を責めたり、「もっと強い信仰を持たなくてはならない」と思って頑張って自分に鞭打つような生活をする方がいるのです。
 しかし、イエス様が「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのは、そういう意味ではありません。
 私たちが救われ、いやされ、問題を解決していただくのは、私たちの信仰の強さや深さや手柄や功績によるのではなく、ただ主の愛とあわれみによるのです。そのことは、聖書の中に繰り返し書かれています。バルテマイを救ったのも、バルテマイの信仰の強さではなく、イエス様御自身なのです。
 では、イエス様が「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのは、どういう意味なのでしょうか。
 エペソ2章8節ー9節にもこう書いてありますね。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
 ここでも「信仰によって救われた」と書いてありますね。自分の努力でなく、信仰によって救われたというのです。
 けれども、ここで問題なのは、「信仰」とは何かということです。
 私たちは「信仰」という言葉を聞くと、「熱心に祈ったり、聖書を読んだり、いつも神様のことだけ考え、世の中とあまり交際しないで真面目に聖く正しく生活する」というようなイメージが湧いてくることが多いのではないでしょうか。そして、そういう生活が出来る人が信仰深い人で、神様に認められ、いろいろな問題を解決していただけるけど、そう出来ない人は信仰が足りないので、神様から認められず、問題もなかなか解決しない、と思ってしまうのです。しかし、それでは、自分の行いによって救いを得ることと同じになってしまいますね。
 一方、それとはまったく逆の極端に走る人もいます。「自分の行いによってではなく信仰によって救われるのだから、自分は何もしなくていいのだな。神様は私が求める前から私の必要をご存じで、すべて与えてくださるのだから、祈り求める必要はないのだ」と考えて、何もしないで好き勝手に生活する人も出てくるのです。そういう人は、バルテマイのように叫び求めることは決してしないですね。
 では、聖書が「信仰によって救われる」と教えているその「信仰」とは、どういうことなのでしょうか。今日は、二つの点だけ考えていきたいと思います。
 
➀心の状態(モード)の切り替え

 私は仕事でパソコンを使っているのですが、印刷の種類によってプリンターのモードを切り替えます。「細かくきれい」にというモードを選べばそのようになりますし、「早く普通に」というモードに切り替えればそのようになるわけですね。また、先日、パソコンを使っていたら、「セーフモードで立ち上げてください」というエラーメッセージが出てきたんです。同じパソコンの中にいろいろなモードがあるわけですね。セーフモードに変えて再起動したら、エラーを修復してくれました。
 実は、信仰とは、心、あるいは、思いのモードを切り替えるようなものだと考えることが出来きます。
 ローマ12章2節にこう書かれています。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ここで使われている「心」という言葉は、英語では「mind」と訳されていて、「思い」とも訳せる言葉です。感情よりも思考や意志に関係ある言葉です。つまり、「心の一新によって自分を変えなさい」というのは、「あなたの思いのモードを切り替えなさい」ということですね。そして、モードを切り替えることによって、私たちのエラーが修復され、主の恵みが流れやすくなるということなのですね。それは、努力や頑張りや強い意志とは全く別の物なんです。
 バルテマイは、イエス様に向かって「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びましたが、それは、彼が思いのモードを切り替えて、イエス様を救い主と認め、また、イエス様が自分を救うことが出来る方であると信頼したからです。
 おそらく、彼は以前からイエス様のうわさを聞いていたでしょう。そして、罪人と呼ばれる人々にも豊かなあわれみを持って接し、いやし、慰めてくださる方であることを知り、その情報に従って自分の思いのモードを切り替えたのです。
 私たちも、こうして礼拝に集い、聖書を開きながら、神様の愛やイエス様の豊かなめぐみを知るでしょう。そして、聖書の約束を信頼して生きる信頼モードに切り替えて生きていく、それが信仰の姿なのですね。

②主と人格的につながる

 信仰のもう一つのポイントは、イエス・キリストとの人格的なつながりを持つということです。
 「信仰」とは「信頼」とも訳せる言葉です。イエス様は、私たちのために十字架にかかって死んで葬られましたが、三日目によみがえって今も生きておられます。その生けるイエス様との人格的なつながりを持ちながら生きるのが信仰の姿です。ただイエス様についての知識があるとか、イエス様についての情報を認めるというだけでなく、「イエス様、どうぞ私の内にお入りください。そして、いつも私と共にいてください」と祈ることから、始めるのです。その祈りに答えて内に住んでくださるイエス様と日ごとに親しく関わりながら生きていくのです。そして、そのイエス様が私を愛してくださっている、私を必要としてくださっている、イエス様のそばに私の居場所がある、ということを信頼しつつ歩んでいくのです。
 讃美歌の中に、「主が私の手を取ってくださいます。どうして怖がったり逃げたりするでしょう」という歌詞がありますね。これからの生涯、いつも主が私の手をしっかりと握りしめて導いてくださるということですね。私が手を離しそうになっても、主がしっかり握っていてくださるのです。そして、イエス様は、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださいました。そのイエス様としっかりとつながり、生涯切り離されることのない結びつきに生きていることを覚えつつ歩むこと、それが信仰に生きることなんです。
 バルテマイは、イエス様に愛と力に信頼し、叫び求めいやされました。そして、「イエスの行かれる所について行った」とありますね。彼もイエス様と人格的につながる者とされたのですね。彼は、「こんな私も受け入られ、いやされ、イエス様のそばに居場所を見いだすことができた」と感謝をささげたに違いありません。

 さて、バルテマイは、最初は、道ばたで物乞いをしていました。しかし、イエス様との出会いによって、肉体の目も心の目も開かれて、はっきりと見えるようになりました。まさに、人生のモードが一変したのです。
 そして、このバルテマイの出来事は、ルカ福音書にも、マタイの福音書にも記されていて、世界中の多くの人々に読まれるようになりました。バルテマイの「ダビデの子、イエスさま。私をあわれんでください」という勇気ある叫びと信仰の姿が、後の時代の多くの人々をイエス様のものに導くものとなったのです。不思議ですね。一人の人物の心からの正直な叫びが、多くの人の祝福の源となっているのですから。
 皆さんも、神様への正直な叫びを止めないでください。それは、一人一人を助けるだけでなく、多くの人にすばらしい恵みの主を紹介するきっかけとなっていくのです。神様を信頼し生きるモードに思いを切り替えて、与えられた人生を主と共に歩んでいきましょう。