城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年七月三日             関根弘興牧師
                マタイ一〇章二四節~三三節
 クリスチャンライフの点検4
    「恐れから安心へ」

24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(新改訳聖書)


 聖書を学んでいくうちに、わかってくることがあります。1つは、まことの神様がどのような方かということ、そして、もう一つは、私たち人間がどのような存在なのかということです。 特に、わかってくるのは、人とは何と弱く恐れやすいものであるかということです。自分の生活を振り返ってみても、確かに私たちはいつも何かを恐れていますね。そして、その恐れの背後にあるのは、なんらかの心配や不安なのです。私たちは、いつも何かを心配したり不安に感じていて、それが恐れを引き起こしているのですね。
 聖書の中には、「恐れるな」という言葉が実にたくさん出てきます。ある人が聖書の中に「恐れるな」とかそれと同じ内容の言葉がどのくらい出てくるかを調べたそうですが、三百六十五回も出てきたそうです。なんだか嬉しいですね。私たちは本当に恐れやすい者ですが、そんな私たちに対して、毎日毎日「恐れることはない」と声をかけてくださる神様がいてくださるということですね。
 また、福音書に記されているイエス様の姿を見ると、イエス様は、弟子たちを鞭で打ったり、威嚇したり、罰を与えたりはなさいませんでした。弟子たちを恐怖によって支配しようとはなさらなかったのです。それどころか、イエス様は十字架にかかる直前の最後の晩餐の時に、自ら弟子たちの足をお洗いになるほどでした。ヨハネの福音書にその出来事がしるされていますが、その書き出しにはこうあります。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13章1節)
イエス様は、人は愛されているという確信がなければ「恐れ」に打ち勝つことはできないことをご存じでした。ですからいつも余すところなくご自分の愛を注がれ、その愛によって恐れを取り除いてくださるのです。

 さて、イエス様は今日の箇所の27節で私たちにすばらしいメッセージを語っておられます。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」
 私は、このイエス様の言葉によっていつも励まされます。
 私たちは人生の中でたくさんの暗やみに襲われることがありますね。時には、長いトンネルに入って出口が見えないような経験をすることもあります。それは、まさに恐れの経験です。辛い経験です。また、どうすることもできない無力さを味わうこともありますね。しかし、イエス様はその暗やみの中で私たちに語ってくださるというのです。「わたしが暗闇であなたがたに話すこと」がある、と言われるのです。つまり、困難の中だからこそ語られる主のみ言葉がある、暗やみを通ったらこそ知ることの出来る主の恵みの言葉があるのです。本当に辛い経験の中で得た主の恵みのことばは、私たちを必ず回復させてくれます。
 以前から何度も礼拝の中でご紹介している詩があります。倉敷の牧師であった河野進という方の詩です。

「病まなければ」
病まなければ ささげ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇蹟がある
病まなければ 聴き得ない御言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある
おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得なかった

 私たちは人生の暗やみを経験します。でも、詩篇23篇4節には、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と書かれています。死の陰の谷のような恐ろしい場所でも、主がいつもともにいて語りかけてくださるのです。そして、語られた主のことばを明るみで言い広めることのできる恵みを与えてくださるのです。
 ですから、イエス様は、いつも「恐れるな」と言われるのですが、今日の箇所では、特に三つのことについて「恐れるな」と言っておられます。

1 人の評価を恐れるな

 まず、25節ー26節でこう言っておられます。「弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。」これは、「人の評価を恐れるな」ということですね。
 当時のパリサイ派の人たちや律法学者たちは、イエス様に対して、「イエスが救い主だなんて、冗談じゃない。あいつはベルゼブルだ」と言っていました。「ベルゼブル」とは「蝿の親分」という意味で、転じて「悪霊の親分」という意味で使われていました。蝿の親分ですから、ブンブンうるさいわけですね。イエス様は当時の宗教家たちの偽善的な態度を厳しく指摘なさっていましたから、彼らにとっては確かに蝿の親分のようにうるさくてしかたがない存在に見えていたことでしょう。
 当時の一流の宗教家たちがイエス様に対して「蝿の親分」という評価を下していたというのですから、驚きますね。彼らは、当時の行政においても教育においても力のある人たちでした。頭の良い人たちでした。それなのにイエス様に対してまったく見当違いのひどい評価をしていたのです。
 そこで、イエス様は弟子たちに対して、「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません」と言われました。「彼らの評価はまったく当てにならないのだから、どんなにとんでもない評価をされても恐れることはない」というのです。
 でも、こういう説教をすると、すぐに極端になる人がいます。「そうか、人の評価を気にしなくていいのだな。よし、人の評価はすべて無視していこう」と考えるのです。そして、いい加減な生活をしていて注意されると「私は人の評価を恐れない」と言って聞く耳を持たず、まったく反省しようとしないのです。しかし、それは勘違いです。
 イエス様は決して「人の評価を無視しなさい」と言われたわけではありません。そうではなく、「人の評価は、ときどき神様の評価と違うことがあるので、その評価を恐れるな」と教えておられるのです。大切なのは、神様が私たちをどう見ておられるか、ということです。もちろん、人の評価には正しいものもたくさんありますから、そういう評価には耳を傾け、謙虚に受けとめなければなりません。しかし、もし、それが聖書の教えとずれていたり、神様が私たちをご覧になる見方とずれているなら、その評価を恐れるな、ということなのです。
 イザヤ書43章4節で神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言っておられます。それなのに、「あなたのような人が神様に愛されるはずがない」と言う人がいるかもしれません。また、自分で自分を評価して、「私は駄目な人間だ。神様に愛される価値などない」と思ってしまうこともあるでしょう。
 でも、それは聖書が教えていることとはまったく違います。私たちがまだ罪人であるときから、神様は私たちを愛し、私たちのためにひとり子イエスのいのちをかけて救いの道を与えてくださったのです。私たち1人一人は、神様にとってそれほど価値のある大切な存在なのです。私たちは失敗したり、挫折したり、自分の不甲斐なさに失望したりします。しかし、神様は、「わたしの大切な子よ」と語りかけてくださるのです。
 そして、私たちがこのことを本当に受け入れ確信していくとき、今度は、他の人々に対して、神様と同じ愛の眼差しをもって接していけるように変えられていくのです。
 ですから、必要以上に人の評価に振り回されないようにしましょう。

2 人の力を恐れるな

 次に、28節でイエス様は、こう言っておられます。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことことのできる方を恐れなさい。」これは、「人の力を恐れてはいけない」ということですね。
 今日の箇所の並行記事がルカの福音書に記されていますが、ルカ福音書では、この言葉の前にイエス様は「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います」と言っておられます。イエス様は弟子たちを「わたしの友」と呼んでおられるのです。同じように、今日ここにいる私たち一人一人に対してもイエス様は「わたしの友」と呼びかけてくださり、語りかけてくださいます。そのイエス様が、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」と言っておられるのです。
 使徒の働き12章20節ー23節に、ヘロデ王(ヘロデ大王の孫)が、民衆に向かって演説をした時のことが書かれています。彼はきらびやかな王服を身にまとい演説をしていました。すると、人々は「神が来られた!」「神の声だ。これは人間の声ではない」と叫び続けました。ヘロデ王は有頂天になり、きっと心の中で「うん、神になるのも悪くはないな」などと考えたことでしょうね。ところが、こう書かれています。「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」
 ユダヤの歴史家ヨセフォスは、「ヘロデは演説している最中に激しい腹痛に襲われ五日後に死んだ」と記録しています。人間の力は、はかないものですね。人は決して神になることはできません。人の力には限界があります。本当に恐れ、敬うべき存在は、私たちの永遠を握っておられる神様だけです。この神様を恐れ敬い、礼拝することが人としてあるべき姿なのですね。
ローマ8章31節に「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」とあります。私たちは人の力を恐れることなく、私たちを友と呼んでくださり、私たちの味方となってくださる方に信頼して歩んでいきましょう。

3 今の環境や状況を恐れるな

 それから、29節ー31節には、こう書かれていますね。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えれています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
 神様は、私たち1人一人のことを事細かにご存じで、私たちの人生を支配し守っていてくださるのだから、どんなに大変な心配な環境や状況がまわりにあっても恐れる必要はない、とイエス様は言われるのです。
 「一アサリオン」とは、当時の日給一デナリの十六分の一に相当するローマの銅貨です。二羽の雀が一アサリオンで売られていたというのですが、当時、雀を食べるのは貧しい人だけだったそうです。
ところで、ルカの福音書では「五羽の雀は二アサリオンで売っている」と書かれています。今日のマタイの箇所では、二羽で一アサリオンと書かれていますから、単純に計算すると四羽で二アサリオンですよね。でもルカは五羽で二アサリオンと書いているのです。
 この違いについて、いろいろ考える人がいるんですね。きっと私みたいなのがいて、「二アサリオンも買うんだから四羽でなく一羽おまけしてくれてもいいじゃないか」ということで一羽増えたんだ、と考える人もいますし、雀一羽では値段のつけようがなく、束にしないと売りものにならなかったので、半端な一羽を加えて五羽ひと束で売っていたのだろう、と考える人もいます。
 いずれにしろ、雀は、ほとんど価値のないような小さなものだということですね。しかし、「そんな雀の一羽さえ、父のお許しがなければ地に落ちることはない」とイエス様は語っておられるのです。新共同訳のルカの福音書では、「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と訳されています。
 そして、イエス様は、「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」と言っておられますね。先日、ある本を読んでいたら、この箇所についておもしろいことが書かれていました。
 「『たくさんの雀よりもすぐれている』とあるけれど、雀の二羽や三羽なら貧しい人の食べ物にもなるでしょう。しかし、雀の大群がワァーと押し寄せてきたら、これはもう値段などつきません。マイナスです。お百姓さんにしてみれば、何としてでも追い払いたい相手です。たくさんの雀は、もはやマイナス以外のなにものでもない。そんなマイナスであるかのような私たちに『わたしの愛する者、わたしの友であるあなたがたを決して忘れることない』と言われ、それどころかご自分の命を捨ててもよいと言ってくださるのがイエス様のなのです」と書かれていました。
 そして、イエス様は、「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」と言われました。小さな雀さえ、髪の毛の一本一本さえご自分の心にとめておられる神様が、あなたを簡単に見捨てるわけがないではないかというのです。
 私たちの信じ礼拝する神様は、私たちの髪の毛の一本のほつれさえも気にするほどに私たちを愛しい子として取り扱ってくださる方なのです。そして、私たちの細かな現状をちゃんとご存知で、すべてを守り導いてくださるのですね。だから、どんな時にも恐れることはない、とイエス様は語っておられるのです。

 そして、イエス様は、32節ー33節でこう言っておられますね。
「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
 私たちは人の評価を恐れず、人の力をおそれず、まわりの状況を恐れず、イエス様を人の前で認めることが、私たちがすべき応答だというのですね。私たちは、だれも人との関係性の中で生きています。そうした、関係性の中で生きているわけですが、その中で、イエス様が私たちを支え、励まし、慰め、共にいて下さることを認めて生きていきなさい、と語られているのです。
 これは、街頭に立って大声で「私はイエス様を認めます」と語るというようなことではありません。ただ闇雲に「わたしはイエス様を信じています!」とマイクロホンを持って叫ぶことでもありません。毎日の生活の中に、ひとりひとりを決して忘れることなく、髪の毛の一本さえもご存じな方が、一緒にいて下さることを告白していくのです。
 そして、第一ペテロ3章15節ー16節にこう書かれています。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。」
私たちがイエス様との親しい関係の中で、イエス様を主とあがめつつ、主がいつも共にいて支え、励まし、慰めて、必要なものを備えて生かしてくださっていることを認めて生きていくとき、その私たちの生き方が人々の前でキリストを認めることにつながっていくのです。
 箴言3章5節ー6節には、こう書かれています。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
 私たちは調子のいい時もあれば悪い時もあります。元気な時もあれば調子の悪い時もあります。楽しい時も悲しい時もあります。でも、どんな状況にあっても、「主よ。あなたはいつも共にいてくださいます。あなたは救い主です。あなたは慰め主です」と告白しつつ歩んで生きましょう。そんな私たちにイエス様は「恐れるな。さあ一緒に歩もう」と今日も明日も語りかけてくださるのです。