城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年七月一七日            関根弘興牧師
                 第一ヨハネ一章一節~二節
 ヨハネの手紙第一連続説教1 
   「永遠のいのちを伝えます」

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。── (新改訳聖書)


これからしばらくの間、ヨハネの手紙を少しずつ読みながら、私たちがイエス様の恵みと豊かな愛によって支えられ、生かされていることを深く覚えていきたいと願っています。

一 著者ヨハネについて

 この手紙は、イエス様の十二弟子の一人であるヨハネが晩年になってエペソから書き送ったものだと言われています。彼は、ヨハネの福音書やヨハネの黙示録を記した人でもあります。
 ヨハネは、ガリラヤ湖の漁師でした。兄弟のヤコブやペテロたちと一緒に漁をしていました。ある時、夜通し漁をしたのに魚が一匹もとれないまま戻ってきた彼らは、眠い目をこすりながら網を洗っていました。その時、イエス様が彼らのところに来られて「わたしを舟に乗せ、陸から少し漕ぎ出してもらいたい」と言われました。大群衆がイエス様に押し迫っていたので、舟の上から岸辺の群衆に向かって語ろうとなさったわけです。
 イエス様は、説教が終わると、「これから深みに漕ぎ出し、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。すると、ペテロは言いました。「イエス様。私たちは一晩中、漁をしたのに一匹もとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう。」彼らが舟をこぎ出し網をおろすと、なんと網が破れそうになるほど大量の魚がとれたのです。この時、ヨハネもその場に一緒にいました。どれほどびっくりしたことでしょう。そして、イエス様は、「わたしについて来なさい。これからあなたがたは人間をとる漁師になるのです」と言われました。すると、ペテロとその兄弟アンデレ、ヨハネとその兄弟ヤコブは、すぐに何もかも捨ててイエス様に従っていったのです。
彼らは、自分のすべての生活をなげうって従っていったんですね。単純といえば単純です。もしかしたら、「あんなに魚がとれるんだから、イエス様についていけば食いっぱぐれることはないだろう」と思ったかも知れませんね。
 彼らの他にも、人生をかけてイエス様に従った人々がたくさんいました。イエス様はその弟子たちの中から特に十二弟子を選んで、いつもご自分のそばに置かれました。そして、その十二人の中でもペテロとヨハネとヤコブの三人は、最も大切な場面にいつもイエス様と共にいました。
 たとえば、会堂管理者のヤイロと言う人の娘が病気になって死んでしまいました。すると、イエス様は、ペテロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて、その家に入り、この娘を生き返らせたのです。また、この三人は、イエス様に連れられて高い山に登り、そこでイエス様が栄光に輝く姿に変わられたのを目撃しました。ですから、この三人は、十二弟子たちの中でもリーダー的な存在だったのでしょう。
 しかし、この三人が特に立派だったかというと、そうではなかったようです。ヨハネとヤコブの兄弟は、ある時、母親と一緒にイエス様のもとに行って、こんなお願いをしました。「先生、あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左に座らせてください」と。自分が他の弟子たちより偉くなりたいという高慢な思いを持っていたのですね。それで他の弟子たちの反感を買ってしまいました。
 また、サマリヤ人がイエス様を受け入れなかったときに、ヨハネとヤコブは、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とイエス様に言って、イエス様に戒められました。そんな彼らに、イエス様は「ボアネルゲ(雷の子)」というあだ名を付けておられました。雷のように気性の激しい、すぐにカッとなる性格だったのでしょうね。
つまり、ヨハネはいろいろと欠点もあったわけですが、イエス様と共に歩み、イエス様の十字架と復活の出来事を実際に目撃し、また、聖霊が内に住んでくださることによって、力強くイエス・キリストを伝えていくようになるとともに、愛に満ちた人へと変えられていったのです。ヨハネは、以前は「雷の子」と呼ばれていましたが、歳を重ねるにつれて「愛の人」と呼ばれるようになっていきました。
 この手紙が書かれたのはヨハネが晩年になってからだと言われますが、その頃、彼はエペソにある教会の長老として人々を励まし続けていたようです。「ヨハネさん。今日も説教をお願いします」「皆さん、神は愛です。互いに愛し合いましょう。終わり」「えっ。それだけですか」「そうです。神は愛です」というふうだったどうかはわかりませんが、とにかくヨハネは、口を開けば「神は愛です。神様はあなたを愛しているんです。だから、互いに愛し合いましょう」と語ったと言われます。歳を重ねるにつれ、神様が自分を本当に愛してくださっていることをますます深く体験していったのでしょう。彼は、迫害も経験しました。痛みも悲しみも経験しました。しかし、どんな時にも変わることのない神様の愛に支えられ生かされていることを確信して歩んでいったのです。

二 この手紙の目的

 しかし、ヨハネの晩年になると、生前のイエス様を直接見たり、イエス様の言葉を直接聞いたり、イエス様と行動を共にした人たちは、ほとんど天に召されてしまっていました。すると、いろいろな所から、イエス様の姿をゆがめ、本来のイエス様の姿とまったくかけ離れたことを言ったり教えたりする人たちが出てきたのです。その教えの多くは、「霊は善で、肉体は悪だ」という二元論の考え方に影響を受けたものでした。
 例えば、「イエスは、私たちのような肉体は持っていなかった」と教える人々が出てきました。「霊は善だけれど、肉体は悪だ。だから、神の子であるイエスが悪である肉体を持って生まれるはずがない」というのです。そして、「イエスが肉体を持っていたかのように見えたのは幻影に過ぎない」と主張しました。また、「肉体を好きなようにさせておけば、その間に霊が清められる」というような快楽主義の教えや、その逆に、「悪である肉体を痛めつけることによって霊を解放する」というような禁欲主義の教えが出てきたりしました。そして、霊という目に見えないものを追い求めるあまり、実際の目に見える世界での関わりや互いに愛し合うという生き方が軽視されていったのです。そういう人々にとって、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったことは、まったく意味のないことのように思われていました。そして、イエス様の弟子たちが命がけで語ってきた福音とはまったくかけ離れた教えが、教会の中にまで入り込んできたのです。
 そこで、ヨハネは教会が間違った方向に進むことをなんとか防ぐためにこの手紙を書きました。自分が実際に目撃したイエス様の本当の姿を何とかして伝えたいという強い思いをもって書いたのです。ですから、私たちも間違った教えに翻弄されることのないように、この手紙を通してイエス様の真実の姿を学んでいくことにしましょう。

三 イエス様の本質

 まず、ヨハネは、今日の箇所でイエス様について最も大切な二つのことを書き記しています。一つは、イエス様が私たちと同じ肉体をもった「人」として来てくださったこと、そして、もう一つは、イエス様がまことの「神」であられる方だということです。この二つのどちらか一つが欠けると、聖書の教えから逸れていってしまうことになるので、この二つをしっかり覚えておくことはとても大切です。

1 イエス様は「人」として来てくださった

まず、イエス様が「人」として来てくださったということですが、ヨハネは、1節で「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と書いていますね。「初めからあったもの」というのは、天地創造の前から存在している方、つまり、神様御自身のことです。ヨハネは、その神なる方が、自分たちが声を聞き、目で見ることができ、触ることができる肉体をもった人としてきてくださったのだ、と言っているのです。つまり、ヨハネはここで、イエス・キリストは、架空の人物ではなく、幻影のような存在でもなく、実際に私たちと同じ肉体を持って来てくださったのだと証言しているのです。
 皆さん、神である方が人として来てくださるというのは、なんと不思議なことでしょう。人は、上に上にと登りたがる癖がありますね。しかし、イエス様は、神の栄光を捨てて、人として、私たちと同じところに下ってきてくださったわけです。無限なるお方が有限で弱さを抱えた人として来てくださったのです。私たちの神様は、天の高見から眺めておられるだけの方ではありません。私たちのもとに、歴史のただ中に来てくださったのです。なぜでしょうか。
 ヘブル4章15節にはこう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
イエス様は人として来てくださったからこそ、私たちを理解し、思いやり、私たちの弱さをわかってくださいます。そして、私たちの代表として私たちの罪をすべて背負って十字架にかかり贖いを成し遂げることがおできになりました。また、目に見えない神様が人としてきてくださったからこそ、私たちはイエス様を見て、神様がどのような方かを知ることができるようになったのです。

2 イエス様はまことの「神」である

ヨハネは、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見たもの」と書いていますが、この「じっと見る」という言葉は、「熟視する」「観察する」という意味です。ヨハネは、イエス様を行動を共にし、イエス様を熟視して、わかったことがありました。それは、イエス様が「いのちのことば」であり、「永遠のいのち」なるお方であるということです。

①「いのちのことば」なる方

 この「ことば」は、原語のギリシャ語では「ロゴス」といいますが、これは単に口から出すことばという意味ではありません。「ロゴス」というのは、この宇宙全体に秩序を与えて動かしている真理そのものを意味しています。また、ユダヤ人にとっては、「ことば」とは、天地を創造する神の知恵と力を表すものでした。ですから、ヨハネが1節で「初めからあったもの・・・すなわち、いのちのことば」と言っているのは、「この方は、この世界の初めから存在し、すべてのものを創造していのちを与え支配する知恵と力をもつ真理そのものの方なのだ」という意味なのです。

②「永遠のいのち」なる方

 次に、ヨハネは2節で「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます」と記していますね。
 この「永遠のいのち」とは、いったい何でしょう。ある人は、永遠のいのちを「天国行きの切符」と表現しましたが、それはあまりにも小さな理解です。
ヨハネ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。また、ヨハネ5章24節でイエス様は「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」と言っておられます。つまり、永遠のいのちとは、この肉体が死んだ後のいのちのことだけを指しているのではありません。イエス様を信じ、神様の子となった人々はすでに永遠のいのちを持っているというのです。
 また、ヨハネ17章3節には、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」と書かれています。まことの神とイエス・キリストを知ることが永遠のいのちなのだというのですね。この「知る」という言葉は、単に知識として知っているという表面的な意味ではありません。深い密接なつながりを持つことを意味しています。つまり、父なる神、イエス・キリストと深い信頼関係をもってつながっていることが、永遠のいのちそのものなのだということなのです。
 そして、今日の箇所では、「永遠のいのち」とはイエス様ご自身のことなのだと記されています。つまり、私たちがイエス様を信じ受け入れていることとは、永遠のいのちを持っていることと同じなのですね。

 イエス様は、「いのちことば」なる方であり、「永遠のいのち」なる方です。イエス様をじっと見つめていくとき、この方がいのちにあふれている方であることがわかってきます。そして、この方の語られる一つ一つのことばが私たちを生かすことばとなっていくのです。

③恵みとまことに満ちている方

 ヨハネは、イエス様を「じっと見た」と書いていますが、この「じっと見た」と訳されているのと同じ言葉がヨハネの福音書1章14節にも使われています。そこには、こう書かれています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 ここでヨハネは、イエス様をじっと見ていると、神のひとり子としての栄光が見えてくる、そして、この方は恵みとまことに満ちておられる方なのだということが見えてくる、と記しているのです。
 私は、この恵みとまことに満ちておられるイエス様の姿に支えられて、今まで牧師をしてきたように思います。振り返ると、何回か牧師としての大きな転機がありました。
 最初の転機は、牧師になって三年目です。その時、何をやっても思うようにいかない現実に直面していたのです。礼拝でよく「御手の中で」という賛美を歌っていましたが、その歌詞がなかなか信じられませんでした。「御手の中で、すべては変わる賛美に」「御手の中で、すべては変わる感謝に」と歌っているのですが、そのようにはまったく感じられなかったのです。「もう牧師を辞めよう」と何度も考えました。辞めるなら早いうちがいいと思い、就職情報誌をよく買いにいきました。ある時、父がやってきて、「日本の教会はどこも小さくて、人が減りやしないかといつも心配しているんだ。でも、おまえの所は、いいじゃないか。だってこれ以上減りようがないんだから。これからは増えるだけだから」とまったく慰めにも励ましにもなっていないのですが、こう言って帰って行きました。
 そんなふうに悶々として牧師を辞めようかと悩んでいたとき、旧約聖書のエレミヤ書の言葉が私の心を捕らえたのです。エレミヤ30章18節ー19節に、こう書かれています。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。』」また、31章3節ー4節には、こう書かれています。「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』」
これは、昔、イスラエルの民がバビロンに捕囚となって連れて行かれた時に、神様が苦難の中にいる民に対して預言者エレミヤを通して約束してくださった言葉なのですが、私には、この言葉が「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として心に響いてきたのです。「教会を建て上げるのは、私ではなく、神様ご自身だ」ということを三年目にしてようやく学んだわけですね。このことがわかってから、私はとても気が楽になりました。神様が建て上げてくださるというのですから、私はその神様の働きを邪魔しない牧師として歩もうと思ったのです。神様任せでいいのだと思ったら、楽になりましたね。そして、その時から自分の中にモットーが生まれました。「気負わず、焦らず、リラックス」です。
 そして、二回目の大きな転機は、牧師十年目の時でした。その頃、私は、自分が語っている説教について、「これでいいのだろうか」と迷っていたのです。ちょうど時期を同じくして、何人かの方が教会を去って行かれたこともあって、説教について「このままでいいのだろうか」と考えてしまったのです。そのとき、ヨハネの福音書1章14節が私に大きな変化を与えてくれたのです。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」この言葉でした。イエス様をじっと見つめていたら、「豊かないのち」が見えてくる、「恵みとまことに満ちあふれたイエス様」が見えてくるのだ、と思わされたのです。
 その時、私は「今までどれだけ恵みとまことに満ちたイエス様を語ってきただろうか」「どれだけこのイエス様をじっと見つめ、イエス様のあふれるいのちを語ってきただろうか」と考えてしまいました。そして、「イエス様、あなたが恵みとまことに満ちておられる、いのちにあふれている方であるなら、私が語らせていただく説教の中でいつもイエス様の恵みとまことに満ち満ちた姿を語らせてください」と深く願い祈ったのです。
考えてみれば、パウロはどうだっただろう。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれます」と語っている。パウロもイエス様の十字架と復活によってもたらされる驚くばかりの恵みの世界を語り続けているではないか。パウロの説教を聞いて、「罪が増すところに恵みも増し加わるなら、どんどん罪を犯したほうが恵みがよくわかるんじゃないか」と誤解した人々がいたほど、パウロは恵みを語り続けたではないか。ああ、私も、そんな誤解をする人が出るほどにイエス様の恵みとまことを聖書の隅々から語らせていただきたいと祈ったのです。そして、その時から、連続講解説教を始めました。

皆さん、イエス様をじっと見つめていったら、そこに私たちを生かす「いのちのことば」を見るのです。誰も奪うことの出来ない「永遠のいのち」を見るのです。そして、恵みとまことに満ちておられるイエス様を味わい見るのです。イエス様が語られることばによって人は生かされるのです。そして、恵みに満ちているイエス様のもとに重荷を下ろし、憩い、赦しの中に安心して生きていくことができるのです。そして、まことに満ちている方だからこそ、イエス様に全き信頼を置いて、委ねて生きていくことができるのです。
 ヨハネは、このイエス様を伝えるためにこの手紙を書きました。ですから、私たちは、この手紙を読みながら、イエス様の豊かないのちの中に生かされている恵みを味わいつつ歩んでいきましょう。