城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年七月二四日            関根弘興牧師
                 第一ヨハネ一章三節~四節
 ヨハネの手紙第一連続説教2 
   「私たちの交わりとは」

3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(新改訳聖書)


 この手紙を書いたのは、イエス様の十二弟子の一人のヨハネです。ヨハネは、「雷の子」というあだ名で呼ばれたほど気性のの激しい人物でしたが、神様の愛を知って、その愛に生かされ、その愛を伝え続けて、晩年には「愛の人」と呼ばれるほどに変えられていきました。
 そのヨハネが、この手紙を通してまず一番に伝えたかったことが、前回お話しした1章1節ー2節に書かれています。
 それは、イエス・キリストがどのような方かということです。イエス様は、「初めからあったもの」、「いのちのことば」、「永遠のいのち」である方です。つまり、イエス様は、神の本質を持った方であり、私たちにいのちを与え、私たちを生かすことばを語り、いつまでも共にいてくださる方だと言うことです。また、それとともに、ヨハネは、このイエス様は「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」だと言っています。つまり、イエス様は神である方なのに、私たちと同じ人となって私たちのもとに来てくださったので、私たちは実際にイエス様のことばを耳で聞き、イエス様を目で見、イエス様に触れることができ、また、イエス様の姿をじっと見ることができた、そして、その結果、イエス様がどんな方かを知ることができたというのです。
 イエス様をじっと見て観察した結果、どんなことがわかったでしょうか。イエス様が、まことに「いのちのことば」であり、「永遠のいのち」であり、また、恵みとまことに満ちあふれている方だということがわかった、そうヨハネは書いているのです。
そして、ヨハネは、続けて今日の3節でこう記していきます。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
 今日は、この「交わり」について考えていきましょう。

1 「交わり」とは

 ところで、私たちの存在というものを少し考えてみましょう。私たちの存在を決定するのは、自分の意志ではありません。私たちの両親がどこかで出会い、そして、今の私が存在するわけです。ですから、自分の存在自体は、自分の意志ではどうにもならないものなのです。そして、私たちは生まれるとまず、両親との交流が始まります。自分を育ててくれる存在との出会いが、人生の最初の出会いとなりますね。それから、保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校と進んでいって、先生、友人たちと出会い、だんだん社会との交流が広がっていきます。そして、交流が広がれば広がるほど、自分とは違う様々な考えを持っている人がいるんだなとわかってくるわけです。
 私は牧師の息子として教会の中で育ちました。ですから、小学校の低学年のころは、だれでもイエス様のことを知っているものと思っていました。また、食事の前のお祈りも、どこの家庭でもやっていることだと思っていました。ところが、どうもそうでないらしいということがわかってくるわけです。自分の家とよその家の違いがわかってくるのです。
 そのように社会との接点が増えれば増えるほど、いろんな違いも見えてきます。そして、その違いによって「とかくこの世は住みにくい」という思いになってくることもありますね。いろいろな性格の人がいるので、「人間関係って煩わしいな。考えの違う人が多いから付き合っていくのが大変だ」と思わされることもあるわけです。また、それとは逆に、「あの人に出会ってよかった」と思うこともありますね。違う考えの人に触発されて視野が広がり新たな道が開けるということもあるわけです。
 いずれにせよ、私たちの人生は、こうした様々な出会いや交流によって方向付けされていきます。ですから、誰に出会うかということは、人生を大きく左右することになるのです。
 さて、ヨハネがこの手紙を書いたのは、晩年になってからです。人生の終わりを間近にしたヨハネは、自分の人生を振り返ってこう思ったことでしょう。「私の人生には、いろいろな出会いがあった。交流があった。その中で、私の人生を大きく変えた出会い、交わりがあった。そのことを皆に分かち合いたい」と。そして、そのヨハネの人生を大きく変えた交わり、ヨハネが伝えたいと切に願う交わりとは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」だとヨハネは書いているのです。では、この「交わり」とは、どういうことでしょうか。
 教会に来ると、「交わり」という言葉をたびたび耳にすると思います。皆さんもこの言葉をよく使うのではないかと思います。「礼拝後、みなさんとお交わりしてお帰りください」とか、「この教会は交わりが少ない」とか「交わりが多い」とか言うことがありますね。でも、その場合は、一緒に食事をしたり、お話をしたり、同じ作業をしたりするというような、人との交流のことを指して言っている場合がほとんどですね。
 この教会では、第一礼拝と第二礼拝、夕拝や木曜礼拝もありますから、皆が一同に会することは滅多にありません。ですから、礼拝に来る時間が異なれば、なかなか会うこともありませんし、顔も名前もわからないこともあります。もし「交わり」という言葉が、一緒に食事をしたり、皆とお話をしたり、同じ奉仕を一緒にすることを意味するなら、この教会は「交わりが少ない」教会です。でも、私は、この教会が「交わり」の少ない教会だとは思っていないのですよ。なぜなら、聖書が教えている「交わり」という言葉は、私たちが普段使っている意味とは違うからなのです。
ヨハネが今日の箇所で使っている「交わり」という言葉は、ギリシャ語で「コイノニア」と言います。これは、「何か共通のものを所有すること、わかち合うこと」という意味なんです。
 つまり、ヨハネが「御父および御子イエス・キリストとの交わり」と言っているのは、「御父および御子と共通のものを所有すること、わかち合うこと」なんですね。詳しく見ていきましょう。

2 私たちの交わり

①御父との交わり

先ほど話したように、私たちは、両親の出会いがきかっけとなって生まれました。しかし、私たちにいのちを与えたのは両親でしょうか。違いますね。人は、いくら頑張ってもいのちそのものを生じさせることはできません。
 聖書は、あなたにいのちをお与えになったのは、天地を創造された神様だと教えています。
 創世記1章1節に「初めに神が天と地を創造した」と書かれていますが、それは、「神様がはるか昔にこの世界をお造りになった」ということだけを教えているのではありません。神様は、今も、私たち一人一人の存在の源となってくださり、私たちにいのちを与えてくださっているのだと聖書は教えているのです。
 その「いのち」とは、単に「肉体のいのち」を意味しているのではありません。神様は、人に「霊的ないのち」も与えてくださいます。そのいのちによって、私たちの内側の霊が生かされ、そこから愛、喜び、平安、感謝が湧いてくるのです。霊が生かされているとき、私たちは人としての本来のあり方や目的がわかり、自分の存在の意味を見いだすことができるのです。
 ですから、そのいのちの源である神様との交わりがなければ、私たちは、霊的に死んだ状態になり、自分の本来の人生を生きることができなくなります。人生の目的や意味を見失い、道に迷い、虚しさを感じるのです。
 赤ちゃんは産まれても、守り育てる人との交流がなければ死んでしまいます。必要な栄養を与え、教え導く人がいなければ、健全な成長をすることはできません。
 それと同じように、私たちにいのちを与えるだけでなく、守り、育て、必要なものを備え、教え導いてくださる神様との交わりが私たちには必要なのです。
 ヨハネ1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と書かれています。また、ローマ8章15節には、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」とあります。
 また、毎週の礼拝で祈っている「主の祈り」の最初の言葉は、「天にまします我らの父よ」ですね。
 神様は、私たちにいのちを与えるだけでなく、神の子どもとして養い育ててくださいます。ですから、私たちは、神様を「お父さん」と親しく呼んで交わることができるのです。その交わりの中で神様は、私たちを愛し、いつくしみ、豊かな恵みによって養い育ててくださるのです。そして、それによって、私たちは、豊かないのちの中に生かされ、成長させられていくのです。

②御子イエス・キリストとの交わり

 もう一つは、「御子イエス・キリストとの交わり」です。
 先週、お話ししましたように、ヨハネは、イエス・キリストは「いのちのことば」「永遠のいのち」だと言っています。そのキリストと交わるということは、「キリストのいのちを共有すること」です。私たちは、「キリストのいのちを共有しながら歩む」者たちなのです。
キリストは、神が私たちと同じ人となって来られた方です。人としての本来の生き方をご自分の姿を通して示してくださり、また、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって罪が赦される道を備え、また、三日目に復活されることによって、私たちが新しいいのちを持って歩むことができるようにしてくださいました。私たちは、このキリストを信じることによって、キリストとともに古い自分が死に、キリストとともによみがえって新しいいのちに生きる者にされています。
 また、キリストはぶどうの木であり、私たちはその枝だと書かれていますが、私たちはキリストにつながっていることによって豊かな実を結ぶことができます。また、一人一人がキリストのからだに属する大切な器官として自分の本来の役割を果たしつつ、互いに助け合い、補い合いながら生きていくことができるのです。
 そして、私たちに与えられたキリストのいのちは「永遠のいのち」ですから、決して滅びることはありません。パウロはこう言っています。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント4章16節)
 これは、うれしい言葉ですね。確かに、外なる人は衰えていきますが、内なる人は日々新たにされているというのですから。それは、私たちがキリストのいのちを共有しているからです。たとえ私たちの外側が変わったとしても、肉体の疲れや病が襲ったとしても、決して尽きることのない永遠に変わらないいのちを共有して私たちは生きているのです。ですから、たとえこの肉体のいのちは尽きても、私たちの存在は決して失われることはないのです。
 また、パウロは第二コリント4章8節ー9節で大胆にこう記しています。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」なぜなら、キリストのいのちがそこにあるからです。
 みなさん、どうぞ、確信を持ってください。私たちの人生には、いろんなことがあります。途方にくれてしまうことがあります。倒れてしまいそうになることがあります。窮することがあります。しかし私たちは、どういう状況に置かれたとしても、行きづまることがない、見捨てられることがない、滅びることがないと約束されているのです。
 それどころか、キリストのいのちによって、豊かな実を結び、日々新たにされ、自分自身の存在を喜びながら生きていくことができるのです。そして、それはすべてキリストとの交わりの中で味わっていくことができるのです。

③聖霊との交わり

さて、今日の箇所には書かれていませんが、もう一つ大切な交わりがあります。それは、聖霊との交わりです。いつも礼拝の一番最後に牧師が祝祷をしますが、私はいつも第二コリント13章13節の言葉を使っています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」と言って祝福を祈りますね。この中に「聖霊の交わり」とありますが、これはどういうものでしょうか。
 いつもご説明していますように、私たちの神様は、父なる神、御子イエス、聖霊の三位一体の神様です。そして、私たちがクリスチャンになるときにも、クリスチャンとして歩んでいくときにも、その背後には聖霊の豊かな働きがあるのだと聖書は教えています。
 聖霊は、私たちがイエス様を信じたときに、私たちの内に宿ってくださり、クリスチャンとしての歩みを守り導いてくださいます。それどころか、私たちが「イエスは主です」と告白できるのも、神様を「お父さん」と呼ぶことができるのも、聖霊の働きによるのだというのです。つまり、私たちがクリスチャンになるのも、クリスチャンとして生きていくのも、聖霊の働き、聖霊の交わりなしにはあり得ないということなんです。
 今日の箇所では、ヨハネは「聖霊の交わり」という言葉は使っていませんが、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」があるということは、その背後に必ず「聖霊の交わり」があるということなのですね。
 また、ピリピ2章1節-2節には、こう書かれています。「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」御霊の交わり、つまり、御霊の働きよって、キリストの体である教会が一致を保ち、調和のとれたものとなっていけるのだということなのです。そして、私たちは、この聖霊の働きによって、同じキリストのいのちを共有する神の家族の一員として、同じキリストのいのちを共有するものとして、互いに分かち合いながら歩む者とされているのです。
 だから、ヨハネは、この手紙の後半に「互いに愛し合いなさい」と記しているのですね。父との交わり、御子との交わり、そして、聖霊の交わりがあるからこそ、私たちは、「互いに愛し合いなさい」というキリストの戒めを実践することができるようになっていくのです。

3 ヨハネの喜び

 ですから、ヨハネにとっての最高の喜びは、一人一人が御父および御子イエス・キリストとの交わりに生きる姿を見ることでした。
 4節の最後に「私たちの喜びが全きものとなるためです」と書かれていますが、「全き喜び」とは、「完成された喜び」ということです。これは、当時のユダヤ教のラビたちにとっては、世の終わりに全てのものが新しくされる時の完成の喜びであって、この地上ではなしえない喜びだ、と考えられていたそうです。しかし、ヨハネは、「あなた方が私たちと同じように御父と御子との交わりを持って生きている姿を見ることによって、私たちの喜びは完成するのだ」と記しているのです。
 教会にとっての喜びは何ですか。立派な会堂が建つことも喜びです。一同に会することも喜びかもしれません。でも、それよりももっと大きな比べようもない喜びがあります。それは、この地上にいながら天国を味わう喜びだというのです。
 先週は洗礼式がありましたが、ヨハネがここにいたら、飛び上がって喜んだことでしょうね。また、誰かがキリストとのいのちの交わりに入り、生かされています、と聞いたら、それだけで満面の笑みを浮かべて神様をほめたたえたでしょう。
 私たちは、もっともっと単純に、キリストの恵みと神の愛と聖霊の豊かな交わり中で生きていることを大いに喜んでいく仲間でありたいですね。

 最後に皆さんで、このことばを読んでお祈りいたしましょう。
 第一ペテロ1章8節「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」