城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年七月三一日            関根弘興牧師
                第一ヨハネ一章五節~一〇節
 ヨハネの手紙第一連続説教3 
    「光の中を歩む」

5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(新改訳聖書)


 ヨハネには、この手紙を通して、何としても伝えたいことがありました。それは、初めから存在しておられる方であり、また、自分たちが実際に耳で聞き、目で見、じっと見つめ、触れることのできた方、つまり、救い主イエス・キリストのことです。そして、先週の説教でお話ししましたように、ヨハネにとって最高の喜びは、一人一人がこのキリストを通して三位一体なる神様との交わりに入ることでした。
皆さん、「神と交わる」なんて聞くと、奇妙で神秘的な感じがしませんか。たとえば、もし私が「今朝、私は神と親しく交わり、今、こうして説教をしています」などと言うと、特に教会に初めて来られた方などは、ちょっとやばいところに来てしまったぞ、と違和感を感じると思います。それは、「神と交わる」という言葉を聞くと、まるで恍惚状態になって特別な神秘体験をするかのような想像をしてしまうからです。
 しかし、ヨハネが、ここで言っている「神と交わりがある」というのは、そういう意味ではありません。この「交わり」と訳される言葉は、ギリシャ語で「コイノニア」と言います。この言葉は、「共通のものを所有すること、また、分かち合うこと」いう意味なんです。ですから、「神と交わる」とは、神様の愛や真実やすべての良いものを共に所有させていただき、皆と分かち合いながら生きていくことなんです。ですから、神様との交わりこそ、私たちの人生にとって最も大切なものなのですね。
 そして、ヨハネは、今日の箇所で、この「神との交わり」に生きるとはどのようなことなのかを説明しています。

1 神は光なる方

まず、5節にこう書かれていますね。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」
 ヨハネが、イエス様から聞いて伝えたい知らせ、それは、「神様は光であって、暗いところがまったくないお方だ」ということです。神様は光そのものなる方なのですね。
 そして、ヨハネの福音書では、ヨハネは、イエス様御自身が「すべての人を照らすまことの光」であると紹介しています。イエス様は初めから存在しておられる神なる方であり、父なる神と一体なるお方だからです。父なる神、御子イエス、聖霊の三位一体の神様は、光なる方なのです。
 では、その「光」とは、どのようなものなのでしょうか。「光」とは、とても広い意味の言葉です。自然の光を意味することもあれば、「知識の光」というように抽象的な意味で使われる場合もありますね。
 光は明るく照らすものです。光が差し込めば、暗闇はなくなりますね。また、光はいのちと健康の源になりますね。道徳的な意味であれば、光は正しさを意味しますし、知恵や知識を意味したり、将来の希望を表すこともありますね。
 つまり、光は私たちが生きていく上で無くてはならないものなのですが、ヨハネは、神様がそういう光の性質をすべてもっておられる方だというのです。神様は、いのちの源であり、知恵と知識の源であり、暗闇を照らし、歩むべき道を示し、希望を与えることのできる方なのです。ですから、私たちには、この光なる方との交わりがどうしても必要なのです。
 ところが、一つ問題が起こってきます。光と闇は決して一緒にはなれません。善と悪は一つになることはできません。義と罪が一つになることはできないのですね。
 ですから、光なる神様と交わりを持つためには、私たちの側も光である必要があります。しかし、どうでしょうか。私たちは自分の内には暗いところが一つもないと言えるでしょうか。悪いところは一つもない、罪はまったくないと言えるでしょうか。言えませんね。そうすると、そもそも私たちが光なる方と交わりを持つということは、まったく不可能なわけです。
 しかし、聖書は、「大丈夫、あなたは、光なる神様との交わりに中に歩むことが出来る」と教えています。本来、神様と交わりを持つことができない私たちが、神様との交わりの中に入ることができる、それこそが福音なのですね。
 どうしてそれが可能なのでしょうか。私たちが光なる神様との交わりの中に歩むためには、まず、「罪の赦しときよめ」が必要ですが、それを成し遂げてくださったのが、イエス・キリストなのですね。私たちは、キリストによって罪を赦され、きよめられ、光なる神様との交わりに入れられたのです。

2 罪がないという人たち

 しかし、当時の教会に偽りの教師たちが入り込んで来て、とんでもないことを言い出しました。
ヨハネは6節で「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいる」人たちがいると書いていますね。彼らは、光と闇は同居できないものなのに、「同居している」というのです。また、8節には、「私には罪はない」と言っている人がいたとあります。ここで「罪」と訳されている言葉は、単数形で書かれています。つまり、いくつもの細かい罪ということではなく、罪そのものがないと言っている人がいたというのです。また、10節を見ると、「私は罪を犯してはいない」と言い張る人もいたようです。
 当時の偽りの教師たちが持ち込んだ教えとは、「肉体は魂を宿す単なる器に過ぎないのだから、肉体がどんな行動をとっても、魂は何の影響も受けない」というものでした。また、「本当に霊的に成長した人は、どんなものによっても汚れることなどない。だから、肉体がどんな愚かなことを行っても、神の前では義なる正しい者として生きいくことが出来るのだ」と彼らは教えていたというのです。そして、その教えに共鳴した人たちは、自分たちがどんなことをしても、「私にはまったく罪はない」と言ってのけてしまうのです。それどころか、「罪なんてことを話題にすること自体、程度の低い証拠だ」と考えている人たちもいたのです。
 聖書が教える「罪」という言葉は、原語では「ハマルティア」といって、「的外れ」という意味です。日本語でも道徳的に悪いことをすると「あの人は、人の道から外れた」という言い方をしますね。「あるべき状態から外れていること、ずれてしまっていること」、これが聖書の言う「罪」の意味です。もし人としての道から外れれば、それは道徳的な罪となるでしょう。もし神様と関係がずれてしまっていたら、神様の愛や真実を見失い、神様からのいのちを受け取ることができなくなり、永遠の希望を見いだすことができなくなってしまうのです。あるべき場所から外れてさまよい、絶えず不安を感じ、自分の存在の意味や目的がわからなくなって虚しさを感じるのです。
 聖書は、すべての人は、生まれながらに罪人、つまり、神様との正しい関係から外れた「ずれ人」であると教えています。ローマ3章10節に「義人はいない。ひとりもいない」、同じく3章23節に「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書かれている通りです。
 ところが、当時の偽りの教師たちは、「罪の話などは、次元の低い話だ」という態度をとっていました。でもそれは、一生懸命になって詭弁を用いて生きているようなもので、その生き方は、自分を欺き偽っているにすぎない、とヨハネは戒めたのです。
 私たちは、どうでしょう。偽りの教師たちのような考え方はしていないとは思いますが、「あなたには、罪があります」と言われたら、むっとして、反論したくなるのではないでしょうか。「違います。これは環境のせいです。親のせいです。学校の先生のせいです」と責任を他に押し付けて、「だから私の罪ではありません」と言い張ってしまうことはよくありますね。また、「私は罪を犯していない」と言い張る人もいますが、そう主張する人たちには共通点があります。それは、ありのままの自分を見つめようとしないことです。自分自身ときちんと向き合わないのです。人は、ありのままの自分を見たら、「私には一点の曇りもありません。「私には罪はありません」なんて言える人がいるでしょうか。そんなことは、だれも言うことなどできませんね。

3 光の中を歩むとは

①罪が明らかにされる

 では、そんな私たちが、一点の曇りも暗闇もない神様と交わることができる、光の中を歩むことができるというのは、どういうことなのでしょうか。
 それは、私たちが自分の力で善行や功績を重ねて立派になる、という意味ではありません。悪いことをまったくせずに清く正しく生活するように頑張って生きていくという意味でもありません。
 光の中を歩むとは、私たちの行いや努力ではなく、自分の弱さや汚れを神様の光によって明らかにしていただくことから始まるのです。自分の内側を見ると弱さがあります。また、「どうして、こんなことを考えてしまうんだろう」と思わずがっかりしてしまうような心の状態を知ることもあります。でも、そうしたものを神様の光によって明らかにしていただきながら生きていくのが、光の中を歩む人生なんです。
 ですから、光の中を歩むとは、いつも立派なことを言い、立派なことを行い、欠点が何もない生活をするということではありません。神様の光に照らされて自分の弱さに気づき、自分の愚かさを見るのです。薄暗い部屋の中では、汚れが見えません。でも、光が差し込むと、部屋の中のほこりも汚れもよくわかりますね。光が明るければ明るいほど、汚れやほこりが見えてくるのです。 
 私たちは神様のみことばの光の中で生かされていくとき、自分が見えてきます。自分の汚さに落ち込んでしまうこともあるかもしれません。自分の弱さや至らなさを知ってショックを受けることもあるかもしれません。こうした礼拝の中で、神様が一人一人の心に語りかけてくださることもあるでしょう。「そういう生き方はよくない」とか「その発想は間違っている」とか、神様はいろいろなことを教えてくださいます。私たちは神様の光の中を歩んでいるからこそ、いろいろなことがわかってくるのです。
私たちは罪を赦されて神様との交わりに入ることが出来ましたが、実際にはクリスチャンとして歩んでいても罪を犯してしまうことはよくありますね。神様に背を向けるようなことをしてしまうこともたびたびあります。だから、その都度、神様の光によって自分の状態を明らかにしていただくことが大切なのです。

②罪をきよめられる

 では、神様の光によって自分の弱さや汚さが照らし出された時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私は、やっぱり駄目な人間だ」と自分を責めるのでしょうか。いつも「私は罪人です。私は駄目な者です」とうなだれて生きていくのでしょうか。そうではありません。
 7節にこう書かれていますね。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とヨハネははっきり宣言しているのです。
 ここに「きよめます」とありますね。「きよめる」というと、日本人は、禊ぎ(みそぎ)とか御祓い(おはらい)をしてもらうというイメージがあります。汚れや邪気を取り除いてもらうというイメージですね。しかし、ここで言われている「きよめる」とは、もっと積極的な意味があるのです。これは、単に汚れを取り除いてくださるというだけでなく、イエス様の十字架の血によって、神様の前に出ることのできる者に変え続けてくださるということなのです。これを神学用語で、「聖化」といいます。神様の目からみて聖なる者へと変えられていくということです。
 ヨハネは以前は「雷の子」とあだ名されていましたが、今は「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも、キリストと同じ姿に変えられ続けていくのです。
 また、聖なる者となるということは、「取り分けられて神様の専用品になる」という意味もあります。つまり、私たちは、神様の専用品として取り分けられていくということなんです。神様御用達の人生です。ちょっと誇ってもいいではありませんか。
 光なる神様との親しい交わりに中に生きていくときに、私たちは、イエス様の十字架の血によってきよめられ、変えられ、神様の専用品として生きていくことができるのです。

③罪を言い表す

 私たちはイエス様を救い主として信じ受け入れたとき、一切の罪が赦され、神様の前に罪なしと認められ、神様との交わりに入ることが出来ました。イエス様が私たちの罪を背負ってくださった十字架の贖いは、私たちの過去の罪も今の罪もこれから犯すであろう罪さえも赦される完全なものです。
 「それじゃ、もう別に罪を犯しても告白する必要なんかないじゃないか」と思う方もいるかもしれませんね。「もう私たちは何もする必要がない、神様に全部お任せでいいのではないか」と思うかもしれません。しかし、そうではないのです。
 9節で、ヨハネはこう書いていますね。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
 私たちが自分の罪を言い表すなら、その罪が赦されきよめられるというのです。これは、どういう意味かといいますと、イエス様が一度十字架にかかることによって、私たちのすべての罪は赦されているのですが、私たちの側では、その神様が与えてくださった罪の赦しを常に受け取り続けていくことが大切だということなのです。イエス様の十字架による赦しが完全だからこそ、神様の前に罪を示されたときにはいつも、そのことを包み隠さず告白し、「イエス様。私は罪を告白します。あなたは十字架で私のこの罪も贖い赦してくださった真実なお方なのですね」とその赦しの確かさを確認しながら歩んでいくのです。
つまり、罪を言い表すたびに、私たちは、イエス・キリストの十字架の素晴らしさを改めて確認し、感謝を深めていくわけですね。
 ヨハネは、ここで「自分の罪を言い表すなら」と書いていますが、この「言い表す」とは、「告白する」ということです。これはギリシャ語で「ホモロゲオー」という言葉で、「準じて同じ事を言う」という意味があります。つまり、「神様があなたを見ているのと同じように見る。神様が言っているのと同じことを言う」ということです。
 神様は光なるお方ですから、私たちの罪も汚れもご存じです。私たちは罪を赦された者として生きているわけですが、的外れなことをしてしまうこともあるわけですね。そのとき、神様がご覧になるように自分を見、自分の状態を正直に認めることが大切です。そして、私たちを愛し、「あなたは高価で尊い」と語りかけてくださる神様の赦しと恵みを覚えつつ、告白していくのです。
 人間の心というのは、許容限度があります。心の中に後ろめたさや憎しみや悲しみをあまりに溜め込んでしまうと、体や精神にそれが別の形で現れてきてしまいます。今では、カウンセリングの世界では、思いをありのまま述べることによって心の痛みが軽減される、というのは常識ですね。でも、聖書はそのことをずっと昔から教えているのです。しかも、約束が付け加えられています。「あなたの罪を言い表わしなさい。包まずのべなさい。そうすれば、神様はあなたを赦しきよめてくださる」と。
イザヤ9章6節に「キリストはワンダフル・カウンセラー(不思議な助言者)」だと書かれています。この方にありのままを包まず述べていくときに、心が癒され、解放されていくのです。ありのままの自分を告白していくとき、イエス様は「大丈夫だ。わたしはあなたに平安を与えよう。あなたに赦しを宣言しよう。さあ、勇気を持って生きていきなさい」と言ってくださるのです。
 私たちは、自分の罪を認めずに欺きや偽りに生きるのではなく、真実で正しい神様のみ前に、正直に誠実に告白しつつ、赦され愛されていることを確信しながら、神様の光の中を歩んでいきましょう。