城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年八月七日             関根弘興牧師
                第一ヨハネ二章一節~一一節
 ヨハネの手紙連続説教4 
    「弁護者なるキリスト」

1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。 10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(新改訳聖書)

 さて、今日は2章に入りました。1章には、ヨハネがこの手紙を書いた目的が書かれていましたね。1章1節にこうあります。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」ヨハネは、自分が実際に出会った永遠のいのちなるイエス・キリストをなんとしても伝えたいという思いでこの手紙を書いたのです。
 では、なぜなんとしてもキリストを伝えたい、と思ったのでしょうか。ヨハネは、この手紙の中でいくつかの理由を上げていますが、その一つは、1章3節にあるように「あなたがたが御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるため」でした。
 そして、今日の2章1節には、二つ目の理由が書かれています。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」
 今日は、そのことについて考えていきましょう。

1 「罪を犯さないようになる」とは

 まず「罪をおかさないようになる」とは、どういう意味でしょうか。
 私たちの住むこの社会では、いろいろなことが「罪」として考えられていますね。
 まず、一人一人の良心が罪を感じることがあります。しかし、良心というのは、人によって差がありますね。教育や育った環境などによって変わってしまいます。
 次に、グループの規則を破ることが罪として捉えられる場合があります。例えば、学校の校則や会社の就業規則を破ると、時には、罰が与えられることもあるわけです。しかし、それも、それぞれのグループによって違いますね。
 それから、国や地方自治体の規則、法律があります。それを破ると罪と見なされますね。しかし、これも絶対的なものではなく、国によっても体制によっても違ってくるのです。
 今お話ししたような罪というのは、時代や体制によって変化していきます。ですから、これらの三つの基準によって判断すると、時代や場所によって、罪になったりならなかったりするわけです。
 しかし、聖書が教える「罪」とは、そういうものではありません。先週もお話ししましたように、聖書の「罪」とは「的外れ」という意味です。「ずれている」ということなのですね。
 本来、神様を礼拝し、人を愛し、神様から与えられているものを賢く用いながら生活することが、人としてふさわしい生き方なのですが、神様との関係がずれてしまい、その結果、自然との関係も人間関係もずれてしまい、様々な問題が生じている状態が「罪」の状態なのです。
 そして、聖書は「すべての人は罪を犯した」と教えます。すべての人が、神様との正しい関係を持つことのできない、ずれた状態になってしまったのだ、というのです。
 しかし、イエス・キリストを信じた人々は、そのずれの状態から、本来の状態にもどされました。今日の箇所でヨハネは、その本来の状態のことを「神を知っている」「その人のうちに神の愛が全うされている」「神のうちにとどまっている」「光の中にいる」という言葉で表しています。
 つまり、ヨハネが「あなたがたが罪を犯さないようになるためにこの手紙を書いた」と言っているのは、「あなたがたが神との交わりの中で神を知り続け、神の愛と光の中にとどまりつづけるためにこの手紙を書いた」ということなのですね。
 そして、そのためには、「神の命令を守ること」「みことばを守ること」「キリストが歩まれたように歩むこと」「光の中を歩むこと」が大切なのだというのです。

2 「古い命令」と「新しい命令」

 では、私たちが守らなければならない「神の命令」とは何でしょうか。「キリストが歩まれたように歩む」とは、どういうことでしょうか。
 マルコ12章に書かれていますが、ある時、一人の律法学者が、イエス様にこう尋ねました。「すべての神様の命令(律法)の中で、どれが一番たいせつですか?」すると、イエス様は、こうお答えになりました。律法を要約するとこうなると言われました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」つまり、神様の命令の中で一番大切なのは、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せよ」という命令だと言われたのです。
 また、ヨハネ13章34節では、イエス様はこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」また、同じく15章9節ー12節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。・・・ わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
 つまり、ヨハネが今日の箇所で言っている「あなたがたが初めから持っていた古い命令」、そして、「私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります」と言っている「新しい命令」とは、「キリストと同じように、神を愛し、互いに愛し合うこと」なのです。それが私たちの守るべき「神様の命令」であり、「キリストが歩まれたように歩む」ことになるのですね。
 ですから、ヨハネは、10節ー11節で、「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、兄弟を憎む者は、やみの中を歩んでいる」と書いてるのですね。

3 命令と約束

 でも、皆さん、「罪を犯さないようにしなさい」「互いに愛し合いなさい」「キリストのように歩みなさい」と言われても、「そんなこと私には無理じゃないかな」と思ってしまうのではありませんか。「キリストのように完璧にすべての人を愛せる人なんていないんじゃないか」と思いますよね。もし説教者が「キリストが歩まれたように私たちも歩むべきです。罪を犯してはいけません。兄弟を愛さなくてはなりません。はい、今日の説教は終わり」と言っただけなら、きっと、「ああ、そうですか。良いお話でしたね。でも、私には無理です。さようなら」ということになるでしょうね。
 しかし、覚えておいていただきたいのですが、神様が何かを命令なさるときには、必ず、その命令の背後に豊かな約束が与えられているのです。
 たとえば、イエス様は、ヨハネ16章33節で、「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい」と言われました。これは、ただ闇雲に「勇敢であれ!」と命じておられるのではありません。この命令と同時に、イエス様は、「わたしはすでに世に勝ったのです」と宣言されているのです。「わたしがすでに勝ったのだから、あなたがたは勇敢に進んでいくことができるのだよ」と言っておられるのです。また、ヨハネ14章27節でイエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」つまり、イエス様の「恐れてはならない」という命令の背後には、「わたしがあなたがたに平安を与える」という約束があるのです。また、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」という約束もあります。
 イエス様は、命令だけ与えて、後は知らん振り、というお方ではありません。私たちがその命令に従って生きることができるように、約束を与え、いつも共にいて励まし、助け導いてくださるのです。
 今日の箇所にも、私たちが罪を犯さないようになるために、また、光の中を歩みつづけるために、素晴らしい約束が書かれています。

①いつも弁護してくださるキリストがおられる

まず、1節には「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」と約束されています。
 ヨハネは「罪を犯さないように歩みなさい。しかし、もし罪を犯すことがあっても、イエス様が御父の前で弁護してくださるから大丈夫ですよ」と記しているのです。ヨハネは、クリスチャンになったらだれも罪を犯さなくなるとは考えていません。クリスチャンでも罪を犯してしまうことがある、でも、弁護者イエス様がおられるのだから、安心して生きていけるのだと教えているのです。
 ここでは裁判のイメージが使われていますね。私たちが罪を犯して落ち込んでいるときに、私たちを訴える者がやって来て、「おい、おまえ。それでもクリスチャンか。もうクリスチャンをやめたほうがいいんじゃないか。神様はもうおまえなんか愛していない。おまえがやったことは決して赦されないぞ」と訴えてくるのです。また、裁判官である神様に向かって、「神様。これは、どうしようもない人間です。クリスチャンとは名ばかりで、見込みがありません。もう見限った方がいいですね。罰を与えて、見捨ててしまったほうがいいですよ」と訴えるのです。しかし、私たちの永遠の弁護者であるキリストは、こう弁論するのです。「いいえ、違います。わたしが、この人の代わりに十字架にかかって、この人が受けるべき罰をすべて引き受けました。わたしが流した血によって、この人の罪はきよめられました。だから、もうこの人は無罪です。誰もこの人を罪人として訴えることはできません。」
 イエス様はこのように、いつも私たちを弁護してくださるのです。皆さん、その光景を想像したことがありますか。裁判官である神様の御前で、弁護者イエス様がいつも傍らにいてくださるのです。
 人は皆、この弁護者が必要だと思いませんか。
 私は、この箇所を読むと、いつも緒方さんのご主人英三郎さんを思い出します。
 緒方英三郎さんは、長い間、福岡で刑事事件の弁護士をなさっていましたが、その後、退職して小田原に移り、晩年は自宅で療養されていました。私は時々お宅に訪問し、聖書のお話をさせていただいていました。二〇〇三年七月に訪問したときに、私は聖書の創世記からお話をさせていただきました。神様は、この世界を創造され、人を形造ってくださったけれども、人は、いのちを与えてくださった神様に背を向けて自分勝手に歩み始めてしまった、そして、その結果、どのような状態になっていったかを旧約聖書の歴史を通してお話しました。また、今の私たち一人一人も神様の前では同じように罪人だというお話をしたのです。そして、私は緒方さんにこう尋ねました。「緒方さん、あなたは弁護士として多くの方々を弁護してこられましたね。しかし、あなた自身にも人生の弁護者が必要ではありませんか。」そうすると、緒方さんは素直に「必要だ」とうなずかれたのです。そこで、私は今日の第一ヨハネ2章1節を読みました。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」この箇所から、イエス様が私たちをいつも弁護してくださるすばらしい弁護者であることをお話をしたのです。それから、私は質問しました。「もし誰かが緒方さんに弁護を依頼するときには、どうするのですか」と。すると、緒方さんは「まず委任状を書いてもらう」と答えられました。これからの一切を任せる、ということですね。そこで、私は、「そうですか。それでは、イエス様にも委任状を書きましょうか」と言ったのです。「それは、手書きの委任状ではありません。『これからの人生をイエス様にすべてお任せして生きていきます』とお祈りするのです。それが委任状の代わりです。」すると、緒方さんは、私の後について素直に「イエス様をわたしの弁護者として迎え、人生をお任せします」と祈られたのです。その日の夕方、緒方さんはご自宅で洗礼を受けました。そして、翌年の八月に天に召されていったのです。
 永遠の弁護者がいてくださるというのは、何と大きな励まし、慰めでしょう。私たちには、いつもイエス様という義なる弁護者がともにいてくださることを覚えていきましょう。

②なだめの供え物になってくださったキリストがおられる

 次に、2節に「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です」とありますね。「なだめの供え物」というのは、普通はあまり聞かない言葉ですね。
 まず、旧約聖書の背景をご説明しましょう。旧約聖書の『レビ記』には、神様にささげる「いけにえ」のことがたくさん書かれています。「いけにえ」なんて言葉を聞くと、私たちにはとても奇異な感じがしますね。でも、罪ある人が聖なる神様に近づくためには、「いけにえ」が必要だったのです。
 「いけにえ」の目的はいくつかありましたが、大切な目的の一つは、「罪を贖う」ことでした。人が罪を犯すと、人の身代わりに動物がいけにえとしてささげられたのです。それによって神様の怒りを「なだめ」るわけですね。まず、傷のない牛か羊が連れて来られ、罪を犯した人はその上に手を置き、自分の罪を告白します。そうすることによって、その人の罪がその動物に転嫁されるわけです。動物が人の代わりに罪を背負うわけです。そして、その動物はほふられ、その地は祭壇に振りかけられるのです。ぞっとするような光景ですね。
 聖書は、「罪から来る報酬は死だ」と言います。罪は、死をもって償う以外に道がないのだ、ということを教えています。そして、そのことを実際の儀式を通して象徴的に示すために、罪のためのいけにえの動物をささげる儀式が規定されていたのです。
 しかし今日、私たちは、動物のいけにえをささげることはしませんね。なぜでしょうか。それは、動物ではなく、イエス・キリストご自身が、私たちの代わりに私たちのすべての罪を背負っていけにえとなってくださったからです。動物のいけにえと違って、イエス様は、聖なる神の小羊であり、完璧ないけにえですから、イエス様がただ一度いけにえとなってくださったことによって、私たちの罪はすべて、過去の罪も現在の罪も将来の罪もすべて、完全に赦されているのです。
 だから、私たちが罪を犯してしまったとしても、イエス様が「なだめの供え物」となってくださったのだから、私たちは必ず赦されるのだ、だから大丈夫、とヨハネは言っているのです。

③輝くまことの光なるキリストがおられる

 それから、8節に「やみが消え去り、まことの光がすでに輝いている」とあります。「まことの光」とは、イエス・キリストのことですね。キリストは十字架につけられましたが、三日目によみがえり、すべての人を照らすまことの光として、今も生きておられます。この光は昔は輝いていたが、今は輝いていないという光ではありません。今この瞬間に、キリストは輝く光です。私たちの道を照らす永遠の光、救いの光、赦しの光、恵みの光として、すでに輝いているのです。
 詩篇119篇105節には、「あなたのみことばは、わたしの足のともしび、私の道の光です」と書かれています。イエス様は、神のことばであり、光なる方ですから、私たちの道を照らし、「罪を犯さないように」「キリストが歩まれたように」「兄弟を愛する者として」歩む方向へと導いてくださるのです。

 繰り返しますが、聖書が私たちに与える命令の背後には、それを可能にするすばらしい約束があるのです。もし約束を受け取らないで、命令に従うことだけに生きていこうとするなら、私たちは疲れ切ってしまうでしょう。自分の至らなさ、弱さを知らされるだけです。しかし、信仰生活は、自分の頑張りによって継続するものではありません。神様の約束に信頼し、委ねて生かされていくものなのです。
 私たちの人生にはいろんなことがあります。罪を犯したり、落ち込むこともあります。しかし、先週学んだように、1章9節には「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と約束されています。いつも私たちを弁護し、私たちのためになだめの供え物となってくださり、私たちの歩む道を照らしてくださるイエス様がおられるのですから、私たちは、安心して自分の罪を言い表し、赦されていることを確認しながら、きよめられつつ、罪から離れていく方向へと導かれて行くのです。
 聖書の約束を信頼し、イエス様を見上げながら、私たちの日常生活がさらに愛と真実に富むものとされていくことを願って歩んでいきましょう。