城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年八月一四日            関根弘興牧師
               第一ヨハネ二章一二節~一七節
 ヨハネの手紙連続説教5 
   「世を愛するのではなく」

12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。13 父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。14 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。(新改訳聖書)


晩年を迎えたヨハネは、教会の一人一人を思い浮かべながらこの手紙を書いたと思います。
 先週お話しした箇所の2章1節で、ヨハネはこう書いていましたね。「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」私たちは、イエス・キリストが私たちの身代わりに十字架にかかってくださったことによって、父なる神、御子イエスとの交わりを回復し、光の中を歩むようになりました。けれども、私たちは完璧になったわけではありません。イエス様と同じ姿に変えられて続けていく途中なので、まだ弱さも欠点もありますし、「罪を犯してはいけない」と言われても、つい罪を犯してしまうことがありますね。そういう私たちに対して、ヨハネは、「神様の命令を守りなさい。罪を犯してはいけません」という命令とともに、「もし誰かが罪を犯しても、イエス・キリストがいつも父なる神様の前で弁護してくださるから大丈夫です」という約束と励ましの言葉を記しているのです。
 聖書の中には、たくさんの命令が出てきます。しかし、命令の背後には必ず豊かな約束と励ましが与えられていることを私たちはしっかりと覚えておきたいですね。もし、「~しなさい。しなければならない」という命令だけで生きようとするなら、私たちのクリスチャン生活はとても律法的になり、大変窮屈で重苦しいものになってしまいます。そして、いつか疲れ果ててしまうでしょう。しかし、神様は、命令をお与えになると同時に、私たちがその命令を守ることができるように、必要な力や意欲を与え、守り導き、慰め励ましてくださいます。イエス様がいつも私たちと共に歩み、私たちを弁護し、時には、私たちを背負ってくださるのです。ですから、私たちは喜んで聖書の命令を受け取って生きていくことができるのです。

 さて、今日の箇所にも15節に一つの命令が書かれています。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」という命令です。その命令を守らない人のうちには「御父を愛する愛はありません」とヨハネははっきり書いているのですね。
 この命令を読んで、誤解する方がいます。「社会から孤立して生きていかなければならないのか」と思ったり、「自分の趣味や楽しみはすべて捨てなければならないのか」と勘違いしてしまうのです。また、社会から離れれば離れるほど自分がきよくされると思い込んで「私は新聞など読みません。新聞などという世のものに触れると心が汚れますから。テレビも見ません。ただ見るのは『ライフ・ライン』だけ」という方もいるかも知れませんね。しかし、それは誤解というものです。
 マタイ5章13節ー14節で、イエス様は「あなたがたは地の塩、世の光です」とおっしゃいました。つまり、私たちが社会から隔絶した生活を送るのではなく、社会の中で「地の塩、世の光」として生きていくことを望んでおられるのです。
 では、今日の箇所の「世をも、世にあるものをも愛してはなりません」という命令は、どのように理解していったらいいのでしょう。言葉を替えて言えば、私たちはどんな意識で「世」と関わりを持って生きていったらいいのでしょう。今日は、そのことを中心にご一緒に考えていきたいと思います。

1 命令の相手

 まず、この命令がだれに対して書かれているを見ていきましょう。ヨハネは、「子どもたちよ」「父たちよ」「若い者たちよ」「小さい者たちよ」と、いろいろな層、いろいろな年齢の人々に呼び掛けていますね。つまり、教会に集うすべての人たちに対して、この手紙を書いているのです。老いも若きも全ての人にです。
 そして、その人たちは、いくつかのことを経験している人たちだ、とヨハネは記しています。

①罪が赦された
御子イエスの血によって罪を赦された者として、自分の力や努力や修行ではなく、神様の恵みの中に生きることができるようになったのですね。

②初めからおられる方を知った
 「初めからあられる方」、つまり、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体の神様を知ったというのですね。つまり、三位一体の神様との親しい交わりの中に生きるようになったということです。

③悪い者に打ち勝った
14節に「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」とありますね。私たちが悪い者に打ち勝てるのは、自分の力によってではなく、神のみことばによって守られているからです。
エペソ6章17節にはこう書かれています。「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」また、ヘブル4章12節にはこう書かれています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
 イエス様が荒野でサタンの誘惑に遭われたとき、聖書のことばによってサタンを退けられましたね。私たちもいろいろな誘惑や恐れや惑しが襲ってきたときは、聖書のことばによって打ち勝つことができます。また、自分の内の考えやはかりごとが神様のみこころに沿うものであるかどうか、聖書の言葉によって判別することができるのです。

ヨハネは、クリスチャン一人一人は「罪赦されたことを確信し、神様との親しい交わりの中に生き、聖書のことばによって強められながら歩むことが出来る人たち」だと確信しているのです。そして、そのような一人一人に、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」と書いているのです。

2 「世を愛するな」とは

①「世」とは

 ここで「世」と訳されている言葉は、聖書でよく使われていますが、ギリシャ語では「コスモス」という言葉です。これは、「秩序」とか「宇宙」という意味もありますが、聖書の中では、いくつかの意味で使われています。
 一つは、私たちの住んでいるこの世界を「世」という場合があります。
 また、ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますが、この場合の「世」とは、私たち一人一人のことです。「神は、世を愛された」、つまり、私たち一人一人を愛された、というのですね。
 ところが、今日の箇所では「世を愛してはならない」と書かれています。この場合の「世」とは、「神様抜きの秩序」という意味です。つまり、神様抜きの世界、神様抜きの社会、神様抜きの人生ことです。そういう人生を愛するならば、16節に書かれている「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など」に捕らわれ引きずられる生き方になってしまうというのですね。
 ヨハネがこの手紙を書いた当時、「肉体は悪で、霊は善だ」という考え方がありました。そして、「肉体が欲望のまま生きようが、それは問題ではない、大切なのは肉体に覆われている霊を解放することだ」などと、訳のわからないことを主張して、ただ肉の欲望のままに生きていた人たちがいたのです。
 また、当時は大ローマ帝国の時代です。ローマ世界では、贅沢三昧の生き方は人々のあこがれでした。すべてのものが豪華であればあるほど美の極みとされていたのです。そして、「暮らし向きの自慢」をすることによって、自分の価値を上げようとする人たちもたくさんいたようです。この「自慢」という言葉には「ほらを吹くこと、いばりちらし自慢すること」という意味があるそうです。
 彼らは、自分の生き方から神様を除外して、欲望のままに生き、暮らし向きの自慢をすることに熱心でした。そういう神様抜きの生き方を、ヨハネはここで「世」と言っているのです。教会は、こうした「世」とは無縁の場所でなければなりませんね。だから、ヨハネは「世をも、世にあるものをも愛してはなりません」と注意したのです。

➁「愛する」とは

 それから「愛する」という言葉も誤解されやすい言葉です。聖書の「愛する」という言葉には、「第一とする」とか「あたかもそれが神であるかのように慕う」という意味があります。 ですから、 「世をも、世にあるものをも愛するな」とは、「神様抜きの人生や生き方を第一とすることがないようにしなさい」「欲望や暮らし向きの自慢が自分の人生の中心になることがあってはなりません」ということなのです。
 
3 世と世の欲は滅び去る

 そして、ヨハネはそのように命令した理由を17節に書いています。「世と世の欲は滅び去ります」とありますね。この「滅び去る」という言葉は、「過ぎ去ってしまう。消え去ってしまう」という意味です。「神様抜きの人生、世を愛する人生は、はかないものだ。結局、すべて失われてしまうのだ」というのです。
 旧約聖書の士師記6章から、ギデオンという人物の話が出てきます。当時、イスラエルの国にミデヤン人が繰り返し襲ってきては略奪を繰り返していました。そのミデヤン人を恐れて隠れていたギデオンのもとに御使いが現れ、神様の命令を伝えました。「あなたがイスラエルをミデヤン人から救え」という命令です。しかし、ギデオンは、こう答えました。「神様、それは無理です。私たちは、部族の中でも最も弱いし、私も一番若いのですから、とても勝ち目はありません。」しかし、神様は、「わたしがあなたとともにいるから、大丈夫だ」と励まし、その証拠として不思議な奇跡を見せて勇気づけてくださったのです。しかし、いよいよミデヤン人と戦う時が来ると、小心者のギデオンは不安になり、神様に言いました。「神様。私の手でイスラエルを救おうとされるなら、しるしを見せてください。私は刈り場に羊の毛を置きます。もし、羊の毛の上だけに露が降りて、周りの土がかわいていたら、仰せのとおりにします。」翌朝、ギデオンが見ると、なんとそのとおりになっていました。しかし、彼は、さらにしるしを求めます。「神様、怒らないでください。どうぞ、もう一回だけ試みさせてください。今度は羊の毛だけがかわいて、周りの土だけに露が降りるようにしてください。」神様は、またギデオンの言う通りにしてくださいました。そこで、やっとギデオンは、神様の命令に従って戦いに出る決心をしました。そして、神様の指示に従って戦った結果、ギデオンはわずか三百人の部下を率いて、十三万人以上のミデヤン軍に勝利することができたのです。
 そこで、イスラエルの人々は、ギデオンに王になってくれるよう求めましたが、ギデオンは「神様があなたがたを治めてくださるのですから、私は王にはなりません」といって断りました。なかなか立派な態度ですね。ここまでは、よかったのです。
 ところが、ここから彼は道を外れていきました。多くの戦利品の中に敵から分捕った金の耳輪がたくさんありました。ギデオンは、それが欲しくなったのです。そこで、「王にはなることは辞退するけれど、その代わり金の耳輪をください」と頼みました。すると、人々はそれぞれが分捕った金の耳輪を喜んでギデオンに与えました。集まった耳輪を量ってみると、約二十キロもあったというのです。そのほかの装飾品もいろいろ与えられたので、ギデオンは、それで祭司が着る豪華なエポデ(祭司が身に付けるもの)を作り、自分の住んでいる町に置きました。本来は、レビ部族の者しか祭司にはなれないという神様の命令があるのに、ギデオンは、自分がレビ部族でないのにもかかわらず、自分がにわか祭司のようになってしまったのです。神様を第一とするのではなく、自分の思いを第一とする自分中心の生き方になっていったのです。派手な装飾品に包まれ、まるで新興宗教の教祖のような雰囲気になっていったのです。
 ギデオンが勝手にエポデを作った結果、どうなったでしょうか。士師記8章27節にこう書かれています。「すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行なった。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。」ギデオンの作ったエポデが偶像のようになって、人々はそれを拝み、その前で淫行を行いました。神様が忌み嫌う宗教的な乱れ、性的な乱れを引き起こしてしまったのです。そして、その結果、ギデオンの一家は滅んでいくことになるのです。世にあるものを愛することが、ギデオンの人生の落とし穴になってしまったのですね。ギデオンは、神様に選ばれ、豊かに用いられた人です。しかし、戦利品に心を奪われ、神様をまず礼拝するよりも、世と世にあるものを自分の人生の中心に据えてしまい、それが彼の落とし穴になっていったのです。
 私たちにとっても、神様抜きの生き方に進んでいくとき、その生き方が人生の落とし穴になります。この社会の中で、成功者として賞賛を浴びる人もいるかもしれません。逆に、挫折や失敗を味わう人もいるでしょう。しかし、どんな中を通ったとしても、「世をも、世にあるものをも愛してはなりません」、つまり、「神様をあがめ、礼拝の民のとして生きていることを忘れてはなりません」というヨハネの忠告を忘れることのないようにしたいですね。

4 いつまでもながらえる者

 ヨハネは、「世を愛するな」という命令と警告を与えましたが、そのすぐ後、17節の後半に「神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」という保証の言葉を記しています。神様抜きの人生は結局滅び去ってしまいますが、その反対に、神のみこころを行う人生は決して失われることがないというのです。
 それでは、「神様のみこころを行う」とはどういうことでしょうか。それは、特別に何か立派なことをすることでしょうか品行方正な生活をするということでしょうか。
 ヨハネの福音書6章40節でイエス様はこう言っておられます。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」また、ヨハネの福音書17章3節では、イエス様が父なる神様にこう祈っておられます。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
 私たちが御子イエスを信じて永遠のいのちを持つこと、つまり、父なる神とイエス・キリストとの親しい交わりの中に生きていくこと、それこそ、神様のみこころを行うことになるのだということなのです。
 私たちが神様を「お父さん」と呼び、与えられた恵みに感謝と賛美をささげ、神様に赦され愛されていることを喜びながら、信頼して生きていくこと、それが神様にとって一番の喜びなんです。もちろん、時には愚痴をこぼすこともあるし、不平を言うこともあります。つまずいたり、失敗することもあります。しかし、いつも正直にありのままの姿で神様の前で祈り、叫び、喜んだり悲しんだり怒ったり感謝したりしながら、「もはや神様抜きの人生など考えられません。主が共にいてくださる人生を楽しみながら歩んでいきます」と告白しつつ生きていくのです。
皆さん、クリスチャン生活は、決して重荷の生活ではありません。約束に生かされていく生活です。「世を愛するな」というのは、好きなことをしてはいけないという意味でありません。もし好きな趣味があるなら、どうぞ楽しんでください。何かやりたいことがあるなら、思い切り挑戦してください。会社の中でたくさんの責任を持っているなら、目先のことだけでなく、仲間たちのため、また、人々の喜びのために自分の力を使ってください。ただ、いつも神様を礼拝し、神様との交わりの中にとどまることを忘れないようにしましょう。私たちは平凡な毎日を送っているかもしれません。しかし、その中に、主の恵みが豊かに注がれていることを味わい覚えながら歩んでいきましょう。
 神様抜きの失われていく秩序に生きるでのはなく、決して失われることのない神様のみことばを信頼して、これからも歩んでいきましょう。 山キリスト教会 礼拝説教