城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年八月二一日            関根弘興牧師
               第一ヨハネ二章一八節~二九節
 ヨハネの手紙連続説教6 
   「キリストにとどまる」

18 小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。20 あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。21 このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。23 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。24 あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。25 それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。26 私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。27 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。28 そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。29 もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行う者がみな神から生まれたこともわかるはずです。(新改訳聖書)


 今日の箇所を読むと、何だか恐いなと思う方もおられるでしょうね。「今は終わりの時です」とか「反キリストが現れている」と聞くと、映画でよく出てくるような世界に大災害が起こって滅亡するとか、悪魔の化身のような恐ろしい敵が襲ってくるようなイメージを持ってしまいますね。
 しかし、ヨハネは「終わりの時」とか「反キリスト」という言葉をそういう意味で使っているのではないのです。
 今日は、まずこの二つの言葉の意味についてご説明しましょう。

1 「終わりの時」とは

 聖書は、この世界には初めと終わりがあると教えています。初めに神がこの天地とその中にあるすべてのものをお造りになり、その中で人に神様の愛と真実を示し、神様と共に歩むことがどれほど素晴らしいことであるかを体験的に教えてくださいました。そして、いつかこの世界が終わり、その後に新しい天地が現れるというのです。イエス様も弟子たちに「この天地は滅び去ります」とはっきり教えておられます。
 ちなみに、現在では、この世界に初めと終わりがあるというのは科学的にも明らかになってきましたね。宇宙は無から大爆発によって生じたとか、太陽にも寿命があっていつかは大爆発を起こすから、その時には地球も滅びてしまうということがわかってきています。
 しかし、ヨハネがここで「終わりの時」と言っているのは、そういう意味ではありません。「終わりの時」というと、「もう駄目だ」と思ってしまうのが普通ですが、聖書では、「終わりの時」という言葉には、とても積極的な意味があるのです。
 約二千年前に救い主イエスが私たちのもとに来てくださってから、人はイエス様を信じることによって神様との関係を回復できるようになりました。そして、神様は最後にこの世界を終わらせ、「神様の栄光に輝く世界」をもたらしてくださるというのです。つまり、この天地は滅び去るけれど、それは、次の栄光の時に至るための通過点にすぎないということなのです。
 今日の箇所でヨハネは、「今は終わりの時です」と言っていますね。この「今」というのは、ヨハネが生きていた短い時代だけを指すのではなく、イエス・キリストが来てくださってから、この天地が滅び去るまでの期間を指しています。つまり、、私たちも今、「終わりの時」に生きているわけですね。
 ところで、ある時、弟子たちがイエス様に「世の終わりにはどんなことが起こりますか」と質問しました。すると、イエス様は、「戦争や争いが起こり、あなたがたは、わたしの名のために迫害を受けます。また、偽預言者やわたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします」とお語りになりました。
 ヨハネは、そのイエス様の言葉を直接聞いていましたから、まわりの状況を見て、「確かに今は終わりの時だ」と感じたのだと思います。
 ヨハネがこの手紙を書いた頃(紀元八○年代後半から九○年代初め)になると、ローマ帝国によるクリスチャンに対する迫害が、都のローマだけでなく各地に少しずつ広がり始めていました。迫害の理由は、クリスチャンたちがローマ皇帝を神としてあがめることを拒否したからです。また、クリスチャンたちは「この世界はいつかは終わる」と語っていましたが、それはつまりローマ帝国もいつかは終わるということですから、ローマ帝国にとっては危険な思想だと見なされたわけです。それに、クリスチャンについて根も葉もない噂が広まっていました。たとえば、教会ではイエス様の十字架の出来事を記念する聖餐式がありますね。パンはキリストのからだを、ぶどう酒はキリストの血を象徴しているわけです。しかし、その聖餐式が誤解され、クリスチャンは人の肉や血を食べたり飲んだりしているおぞましい集団だと誤解されたのです。そこで、ローマ帝国の迫害が次第に激しくなっていったのです。
 一方、教会の内部にも深刻な問題が起こっていました。今日の18節にあるように、多くの「反キリスト」が現れてきたのです。ですから、ヨハネは、この世界の終わりは近いのではないか、と考えていたのでしょう。

2 「反キリスト」とは

 それから、「反キリスト」とは、「キリストに敵対する者」とか「キリストに取って代わる者」という意味です。この言葉を聞くと、何だか恐ろしい無慈悲な指導者とか悪魔の化身のような感じがしますね。
 しかし、ヨハネがここで言っている「反キリスト」とは、当時の教会の中で間違ったことを教えていた偽りの教師たちや、その間違った教えそのもののことを指しているのです。
 19節に「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです」と書かれていますね。
 彼らは、自分はクリスチャンだと自称して最初は教会の中にいたのですが、本来の聖書の教えとずれてしまって、ついには、自分たちこそ新しいキリスト教だと言わんばかりに出て行ってしまったのです。聖書が教えていることを大切にしていく仲間ではなかったということですね。
 ヨハネは、そういう「反キリスト」の特徴を22節でこう記しています。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

①イエスがキリストであることを否定する

 反キリストの大きな特徴は、イエスがキリスト、つまり、救い主であることを否定するということです。「イエスは救い主ではない」、あるいは、「イエスの救いは不完全だ」と教えるのです。
 聖書は、イエス様の十字架によって与えられた罪の赦しと、イエス様の復活によって与えられる永遠のいのちは完全なものだと教えています。ですから、人は、それに何も付け加える必要はありません。私たちは、ただイエス様を救い主として信じるだけで罪の赦しと永遠のいのちを得ることができるのです。
 しかし、反キリストは、「イエスの十字架は失敗だったから、私たちを救うことはできない」とか、「イエスの十字架だけでは不十分だ。私たちは、完全な救いを達成するために、努力して立派な行いをしなければならない」などと教えるのです。
 神様は私たちが自分の力で救いを得ることができないからこそ、愛する御子イエスを救い主として与えてくださったのです。ですから、イエスがキリストであることを否定することは、神様の恵みを否定することにつながるのです。

➁御父と御子を否認する

また、反キリストは、「御父と御子を否認する者」でもあります。御父と御子を否認するとは、どういうことでしょうか。
 イエス様は、ヨハネ12章44節でこう言われました。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」また、ヨハネ14章6節ー8節ではこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。・・・わたしを見た者は、父を見たのです。」
聖書は、天地を創造された神様は、父なる神、子なるイエス、聖霊の三位一体の唯一なる方だと教えています。つまり、イエス様は、父なる神と同じ本質を持っておられるので、イエス様を見ることによって父なる神を知ることができるというのです。 イエス様は、神様がどのような方であるかを示すために私たちと同じ人となって来てくださいました。ですから、私たちはイエス様を通してでなければ、神様を本当に知ることが出来ないのです。もしイエス様を否認するなら、父なる神様をも否認することになるのです。「私はイエス・キリストは信じないけれど、神様は信じています」「私は、イエスを救い主と認めないけれど、神を知っています」ということはあり得ないことなのです。

3 クリスチャンの生き方

 当時の教会は、外からは激しい迫害が起こり、内には多くの反キリストが現れて偽りの教えで人々を惑わし、教会から出て行きました。晩年を迎えていたヨハネは、その様子を見てどれほど心を痛めたことでしょうね。彼はそういう状況を見て、「今は終わりの時です」と言いました。
 しかし、だからといって、ヨハネは、危機感を煽って「そんなに生ぬるいと、教会がなくなってしまうぞ。しっかりしろ。終わりの時なのだから、もっと努力しろ」などと叱咤激励したでしょうか。いいえ、そうはしませんでした。
 ヨハネは、「神様があなたがたに与えてくださったものを正しく認識し、その中で生きていなさい」と教えているのです。そして、私たちが覚えておくべきいくつかの大切なことを記しています。

①聖なる方からのそそぎの油がある

 20節に「あなたがたには聖なる方からのそそぎの油がある」と書かれていますね。また、27節には「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています」とあります。
 旧約聖書の中には「そそぎの油」がよく出てきます。祭司が任命されるときや、王が即位するとき、また、預言者が任命されるときに特別な油が注がれました。つまり、特別な立場や使命が与えられたり、特権が与えられるときに油が注がれたのです。
 新約聖書では、「そそぎの油」という言葉は、「聖霊」という意味で使われています。
 ヨハネの福音書14章を見ると、イエス様は、ご自分が十字架につけられる前夜にこう約束されました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
 また、使徒の働き2章の初めに、不思議な出来事が記されています。五旬節(ペンテコステ)の日に、百二十名ほどの人たちが一つ所に集まって祈っていると、突然、炎のように分かれた舌が現れて、一人一人の上にとどまりました。すると、皆が聖霊に満たされて、御霊が話させてくださるとおりに、いろいろな国の言葉で神様の大きなみわざを語り出したのです。ペテロはこの一連の状況を解説して、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と語りました。
 つまり、イエス様を信じる一人一人が、聖なる方からのそそぎの油である聖霊を受けているというのです。それは、私たちに特別な立場と使命と特権を与えるものです。
 聖霊がいつも私たちのうちにいてくださるということは、御父と御子もともにいてくださるということです。ですから、私たちは、聖霊によって、神様を父と呼び、御父と御子とのうちにとどまり、永遠のいのちの中で生きることができるのです。聖霊は助け主です。真理なる方です。聖霊は、イエス様が話されたこと、聖書の言葉を私たちに思い起こさせて真理に導いてくださいます。また、聖霊は、私たちに知恵と知識をさずけてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖書の言葉に光を当てて、私たちがみことばを心に受け取ることができるように導いてくださるのです。
 その聖霊がいつもともにいてくださるのですから、自分の力ではなく聖霊の力に委ねながら、自分の思いではなく聖霊が示してくださる真理のことばに導かれながら歩んでいきましょう。

➁初めから聞いたことにとどまる

それから、ヨハネは24節でこう言っています。「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」
 「初めから聞いたこと」とは何でしょう。その中心は「イエス・キリストこそまことの人として来られたまことの神であり、まことの救い主である」ということです。イエス様は、神であられる方なのに人としてこの地上に来てくださり、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んでくださいました。そして、三日目によみがえって死を打ち破られました。この方こそ信じる者を永遠に救うことができる方なのです。
 「初めから聞いたこと」の中心は、いつもイエス・キリストご自身であり、この方の恵みと真実のみわざです。このイエス様によってもたらされた救いの事実を私たちのうちにとどまらせるのです。
 いつの世にもいろいろなことを言う人が出てきます。「これこそ新しい教えだ」と触れ回る人がいるかもしれません。しかし、もし誰かの説教を聞いて「今まで聞いたことのないような新しい話だ」と感じたら、感動する前によく注意してください。私たちが聖書から聞くメッセージは、時代が変わっても、礼拝のスタイルが変わっても、決して変わることのないもの、初めから聞いたことなのですから。

③ キリストのうちにとどまる

そして、初めから聞いたことにとどまることは、キリストのうちにとどまることでもあります。みことばにとどまることは、キリストにとどまることです。みことばを信じて生きることは、キリストを信じて生きることです。
 ヨハネは、28節で「キリストのうちにとどまっていなさい」と命じました。この「キリストのうちにとどまること」こそ私たちにとって最も大切なことです。
 なぜなら、御子イエス・キリストのうちにとどまることは、御父のうちにとどまることにもなるからです。そして、御父と御子のうちにとどまること、それ自体が永遠のいのちだからです。ヨハネ17章3節でイエス様がこう祈っておられるとおりです。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
 また、ヨハネの福音書1章に書かれているように、キリストは「恵みととまこと満ちておられる方」です。キリストのうちににとどまるとき、そこに平安が生まれてくるのです。
 キリストも、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネの福音書14章18節)「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13章5節)と約束してくださっています。
 私たちは、偽りの教えにとどまるのではありません。怒りや敵意の中にとどまるのでもありません。私たちを愛し、支えてくださるイエス・キリストの中にとどまるのです。
 いろいろな情報が氾濫し、様々な出来事が起こるこの終わりの時に、私たちは落ちついて、初めから変わることのない聖書のことばを心にとどめながら歩んでいきましょう。山キリスト教会 礼拝説教