城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年八月二八日            関根弘興牧師
                第一ヨハネ三章一節~一〇節
 ヨハネの手紙連続説教7 
   「今すでに神の子どもです」

 1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。4 罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。5 キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(新改訳聖書)       


 私たちは、こうして聖書を読み、聖書から語られる説教を聞いているわけですが、もし聖書の言葉が私たちの人生に何の影響もなく何の役にも立たないなら、聖書というのはあまり面白い書物ではないと思いますね。
 でも、ヘブル4章12節には「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とあります。また、詩篇119篇5節には「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」とあります。聖書の言葉は、私たちの実際の生活を導く光となり、私たちに大きな影響を与える力がある生きた言葉なのです。ですから、私たちは、自分の人生に聖書の言葉が具体化されていくのを味わうことができるのですね。
 ところで、物事が具体化されていくには、いくつかの段階があります。まず、物事に対する理解です。次に、理解に基づく体験がきます。さらに、体験によって自覚がもたらされます。そして、自覚によって物事が具体化されていくのです。生活化されていくと言ってもいいと思います。
 たとえば、結婚について考えてみましょう。たとえば、私の家内は結婚して姓が変わりました。結婚前は別の姓だったのに、結婚したとたんに「関根さん」と呼ばれるわけです。頭では理解していても、最初はピンと来なかったと思います。しかし、「関根さん」と呼ばれる体験を繰り返していくうちに、自分は「関根」だという自覚が生まれ、それが生活の中に溶け込んでいって、いつのまにか何の違和感もなく「関根さん」と呼ばれれば無意識に振り向くようになるわけです。
 このように、物事が具体化されるには時間がかかります。それは、聖書の言葉が一人一人の人生の中に具体化されていく場合も同じです。
 最初は、イエス様が救い主であることを知り、単純に「イエス様。どうぞ、私の心にお入りください」と祈り、クリスチャンとして出発するのですが、「今日からあなたはクリスチャンです」と牧師に言われても、何だかピンとこないわけですね。でも、聖書を読み、神様を礼拝する生活を続けていくうちに、聖書の言葉に何かを気づかされたり、励まされたり、助けられたり、自分の思いや心が変化していることに気付いたりする体験が積み重なっていくうちに、次第に「私はクリスチャンなんだ」という自覚が生まれてきて、クリスチャンとして生きることが具体化されていくのです。
 理解するだけでなく、体験することが大切です。体験がなければ自覚は生まれませんし、自覚がなければ身に付いていきません。たとえば、祈りについて、「神様は祈りに答えられるのだろうか」といくら考えても、考えているだけではではわかりません。「神様は祈りに答えてくださる」という聖書の言葉を理解し、その理解に基づいて実際に祈ることによって、神様が祈りに答えてくださることを体験し、具体的にわかってきて、祈りが生活の中で当たり前のものになっていくのです。


 さて、今日の箇所を読むと、なんだか自分の姿とはほど遠いように感じる言葉が出てきますね。
 3節には「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」とあります。また、6節には「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」とあります。10節には、「義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」とありますね。
 こういう箇所を読むと、「私は清くもないし、罪を犯してしまうし、正しいこともできず、兄弟を愛することもできない。私は、クリスチャンとして失格ではないか」と落ち込んでしまうこともあるのではないでしょうか。
 でも、見方を変えたらどうでしょう。「私は弱いけれども、ただ単純にイエス様を信じて生きていく時、自分を清くし、罪から離れ、義を行い、兄弟を愛することのできる者へと変えられていくのだ」と理解したら、これからの人生が楽しみではありませんか。
 今日の箇所で、ヨハネは、「聖書の言葉を理解してください。体験的に受け取ってください。そして、その言葉を自覚して歩んでください。そうすれば、必ずあなたの生活に何らかの具体的な変化が出てきます」と語っているように思うのです。
 礼拝の説教でいつもお話ししていますが、「何々しなさい」という命令のみに生きようとすると疲れてしまいます。しかし、聖書には、命令と同時にすばらしい約束が書かれていることをいつも覚えておいてください。そして、その約束に基づいて私たちに与えられた立場を十分に理解していただきたいのです。自分に与えられた立場を理解し、体験し始めるとき、新しい自覚が生まれてくるからです。
 今日の箇所にも、私たちに与えられているいくつかの約束が書かれているので、見ていきましょう。

1 今すでに神の子どもとされている

 まず、1節ー2節にこう書かれています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。」
 ヨハネ1章12節ー13節にはこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 また、ガラテヤ3章26節には「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」と書かれています。
イエス様を救い主として信じた私たちは、今すでに神の子どもとされているのだというのですね。
 ところで、「神の子」という表現は、イエス様ご自身を指す場合と、イエス様を信じた人々を指す場合があります。
 8節に「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」とありますが、この「神の子」とは、イエス様のことです。イエス様は、神のひとり子であり、悪魔のしわざを打ち壊す勝利者なるお方です。
 一方、イエス様を信じる私たちも、聖書では「神の子」と呼ばれますが、それは、「神様の養子として迎えられた」という意味なのです。
 皆さんは、「この家に生まれて育ってよかった」と思っていますか。それとも「私は、どうしてこんな家に生まれてしまったのだろう」と嘆いていますか。人生は、置かれた環境や立場によって変わりますね。しかし、どんな環境や立場に置かれても、自分を信頼し受け入れ愛してくれる存在がいれば、人は生きていくことができるのです。
 今日の箇所には、すばらしい言葉が記されていますね。「いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」
 私たちは、すばらしい愛を与えてくださる神様によって迎えられ、神様の子どもとなったということです。神の子どもとされたということは、神様の愛の中で生かされていくということです。神様を「お父さん」と呼び、何でも打ち明け、必要なものを願い求めていくことができるのです。もちろん悲しい辛い出来事に遭遇することもあるかもしれません。しかし、それは神様の愛が失われたということではありません。神様は、豊かな愛によってその悲しみを癒し慰め、すべてのことを益としてくださるのです。
 ですから、私たちが神の子としての自覚を持って生きていくならば、「私が弱くても、失敗しても、父なる神様が愛をもって私の人生を最善に導いてくださる。だから、大丈夫だ」と安心して歩むことができるのです。天と地の創造者なる神様が私たちの父となってくださったのですから、これ以上の安心はないではありませんか。

2 将来、キリストに似た者となる

次に、2節にこう書かれています。「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
これは、私たちの将来に実現する約束です。「キリストが現れるとき、私たちはキリストに似た者となる」というのですね。皆さんは、このことを理解していますか。
 先週お話しましたように、ヨハネは「今は終わりの時です」と記しています。聖書は「この世界には終わりがある」と教えています。ただし、「それがいつなのかは神様の他には誰も知らない」とも書かれています。
 この世界が終わるよりも、私たちの人生の終焉のほうが早いかもしれませんね。その場合は、私たちが地上の生涯を閉じて天に帰るとき、そこでキリストに会うことができるでしょう。あるいは、もしかしたら私たちが生きている間に世の終わりが来るかもしれません。その場合は、キリストが再び来られて私たちを天に引き上げてくださるので、そこでキリストに会うことができるでしょう。どちらの場合にも、私たちはキリストのありのままの姿を見て、キリストに似た者とされるのです。それが、私たちの最終的なゴールです。
 パウロは、ピリピ3章20節ー21節で「私たちの国籍は天にあります。・・・私たちの卑しいからだは、イエス様の栄光の姿と同じ姿に変えられるのです」と記しています。また、第二コリント3章18節では「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とも記しています。
 私たちの肉体は弱く衰えていきます。しかし、私たちは今、栄光から栄光へとキリストに似た者にされていく途上にあるのです。ですから、将来、失望することは決してありません。
 
3 罪を取り除くキリストがおられる

それから、5節にこう書かれています。「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。」
 私たちは今すでに神の子とされ、また、最終的にキリストに似た者とされるというゴールに向かって変えられ続けているわけですが、それでも罪を犯してしまう弱さがありますね。そして、自分の罪の問題を自分の力で解決することができません。しかし、何の罪もないキリストが、私たちの罪を取り除くために来てくださったというのです。
 この連続説教で何回もお話ししているように、ヨハネがこの手紙を書いた当時、「罪」というテーマはレベルの低いことだとされていました。「罪の話より、神秘的な経験や魂の解放のほうが大切だ」というような風潮がありました。ですから、「キリストが来られたのは罪を赦し、罪を取り除くためである」というメッセージは、いつの間にか、なおざりにされ、語られなくなる傾向にあったようです。
 しかし、キリストによる罪の赦しのメッセージが語られずにいったら、何が起こるでしょう。当然、人々の罪責感は癒やされなくなります。人々の内側にあるズレが解決されませんから、神様の前にいつも後ろめたさがあるのです。赦されているという確信が持てないので、本当に神様に受け入れられているのだろうかという不安が起こります。そして、何か立派な行いで罪の補填をしようと考えるようになるのです。人がどんなに罪を否定して目を背けても、決して罪がなくなるわけではありませんから、キリストによる罪の赦しのメッセージが語られなくなれば、信仰生活から平安が失われてしまうのです。
 しかし、ヨハネは、この手紙の中で、罪についてくどいほど書いています。「キリストが来てくださったのは、私たちの罪を取り除くためだ。キリスト以外に誰一人として罪を赦す権威など持っていない。また、人の努力で罪を取り除くことはできない。ただ、キリストの十字架の贖いによる以外に罪の赦しはないのだ。このキリストこそ私たちの罪を背負ってくださったお方であり、罪の赦しの道を開くために来てくださったのだ」と書いているのです。
 この大切なメッセージは、私たちに何をもたらすでしょう。このキリストの十字架の贖いの故に、私たちは、罪を犯したとしても、そのたびに罪を告白して赦される体験を繰り返しながら、赦しを確信して生きていくことができるということです。6節に「キリストにある者は罪のうちを歩みません」と書いてありますね。これは「クリスチャンは決して罪を犯さない」という意味ではありません。「キリストの赦しを確信し自覚して生きていくならば、たとえ罪を犯すことがあったとしても、その罪の中にどっぷり浸ったまま罪の深みに沈んでいくことなどあり得ない」とヨハネは言っているのです。
しかも、イエス様は、十字架で罪を贖ってくださっただけではありません。2章1節にこう書いてありましたね。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」イエス・キリストは、今も私たちのために弁護してくださっているのです。ですから、私たちは、そのキリストの恵みを喜んで受け取り、罪ではなく光のうちを歩んでいきましょう。

4 神の種が一人一人のうちにとどまっている

そして、9節にはこう書いてあります。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」
 神から生まれた者、つまり、キリストを信じる私たちの内には「神の種」がとどまっているというのですね。この「神の種」とは何でしょうか。三つのことが考えられます。

①聖霊
 「神の種」とは、一人一人に与えられている「聖霊」なる方だと考えることもできます。パウロは、ガラテヤ5章22節ー23節でこう書いています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」聖霊は「神の種」として、このような実を結ばせていくということですね。

➁神の言葉
 「神の種」は、「神様の言葉」だと解釈することもできます。イエス様は種まきのたとえをお話になりましたが、その中では「種」は「みことば」のことでした。みことばが良い地、つまり、素直に神の言葉を受け入れる心に蒔かれると、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶというのです。聖書の言葉が私たちの心に蒔かれると多くの良い実が育ってきます。そうすれば、結果的に、罪を犯す方向へ進むことはなくなるということなのです。

③神の子孫
 もう一つは、「神の種」を「神の子孫」だとする解釈です。たとえば、「アブラハムの種」という表現は、「アブラハムの子孫」を意味します。それと同じように、「神の種」を「神の子孫」と理解するのです。つまり、クリスチャン一人一人から、さらに多くのクリスチャンが生み出されていく様子を表している、というふうに理解するわけです。といっても、もちろん私たちは自分の力でクリスチャンを生み出すことなど出来ません。すべては神様のみわざです。しかし、神様は私たちを用いて、クリスチャンを生み出してくださるのだと理解するのです。神様は、いつも私たちを用いてみわざを行ってくださるからです。

 「神の種」の解釈を三つご紹介しましたが、そのいずれも私たちに与えられたすばらしい恵みですね。私たちの内には、聖霊と神様の言葉とクリスチャンを生み出していく神様の力がとどまっているのですね。
 
 さて、皆さん、今日の箇所で学んだように、私たちは、神様の愛する子どもとされ、キリストに似た者へと変えられ続け、罪を赦され続け、内側から成長させていただき、神様のみわざのために用いていただきながら人生を歩んでいく者とされています。そのことをいつも覚えていましょう。
 もし、そのことを否定するならば、それは、7節から10節に書かれているように「悪魔から出た者」「悪魔の子ども」として生きる生き方なのだと、ヨハネは警告しています。「私は神の子どもされることなど願わない。キリストに似た者になどなりたくない。罪の赦しなど必要ない。聖書のことばによって養われる必要もない」とことごとく拒否していく生き方です。
 そういう生き方ではなく、神の子どもとして、罪赦された者として、神の愛の中で生きていこうではないか、とヨハネは勧めています。
 「主の祈り」の中で「天にましますわれらの父よ」と祈りますが、すばらしい愛をもって私たちをご自分の子として招いてくださった父なる神様が今日も共にいてくださいます。私たちはキリストに似た者とされ続けていくのです。その途中で、つまずいたり、転んだりすることもあるでしょう。しかし、私たちの中に蒔かれたみことばが、そして、聖霊なる神様が、私たちを支えてくださるのです。
 ですから、続けて聖書の言葉を受け取り、その言葉を体験し、自覚して歩んでいきましょう。それによって私たちの生活に具体的な変化が生まれ、キリストの恵みに生かされていることをさらに味わうことのできる生涯となっていくでしょう。