城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年九月四日             関根弘興牧師
               第一ヨハネ三章一一節~二四節
 ヨハネの手紙連続説教8 
   「信じ、愛し、共に歩め」

11 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。18 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。19 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。24 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(新改訳聖書)

 先週は、イエス・キリストにある一人一人は、すでに神の子どもとされており、神様の大きな愛の中で育まれ、最終的にキリストに似たものとされていくということを学びました。
 では、神の子どもとされている者の特徴は何でしょうか。それが、今日の箇所に記されています。
 
1 カインのようであってはいけない

 ヨハネは、まず、神の子どもとは真逆の人物を紹介しています。カインという人です。カインは、最初の人であるアダムとエバの長男で、旧約聖書の創世記4章に登場します。
 創世記1章と2章には、神様が天と地とその中にあるすべてのもの、そして、アダムとエバをお造りになったことが記録されています。二人はエデンの園で神様と親しい関わりを持ちながら何不自由なく生活していました。
 神様は、二人に一つの命令を与えておられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのです。
神様は、なぜ「善悪の知識の木」を取って食べては行けないとい命令されたのでしょう。それは、「善悪の絶対的な基準は、神様の領域にあるのだ」ということを示すためでした。つまり、善悪の判断は神様の領域であって、人間が勝手にその領域に手を伸ばしてはいけない、ということなのですね。
 二人はしばらくはその命令に従っていましたが、創世記3章で、人を神様から引き離そうとする悪魔が蛇の姿で近づいてきて、こう言って誘惑しました。「神様は嘘をついているんです。この木の実を食べてもあなたがたは決して死にません。むしろ、この実を食べれば、目が開かれて神のようになれるのです。そうすれば、もう神様に従う必要はなくなりますよ」と。その誘惑に負けて二人はその実を食べてしまいました。その結果はどうだったでしょうか。神のようになれたでしょうか。いいえ、それどころか、自分たちの惨めな姿を恥じるようになり、ありのまま安心して神様の前に出ることができなくなり、神様との関係が破壊され、お互いの関係も破壊され、エデンの園から追放されて、神様抜きの生き方がどんなに辛いものであるかを味わっていくことになったのです。また、神様が警告しておられたように、死の力に支配されるようになってしまいました。
 しかし、神様は、その時すでに救いの道を準備してくださっていたのです。そして、大切な約束を与えてくださいました。それは、創世記3章15節に書かれていますが、「将来、女の子孫の中から、サタンの頭を踏み砕く救い主が生まれる」という約束です。それが二人にとっての希望となりました。
 そして、創世記4章には、そんな彼らに待望の赤ちゃんが生まれたことが書かれています。その時、エバは「私は主によってひとりの男子を得た」と言いました。赤ちゃんの誕生という出来事に「これは人の業ではない。主がなさったことだ」と感じたのでしょう。そして、彼らは、その子を「カイン」と名付けました。「カイン」というのは「獲得した」という意味です。「私はひとりの男子を得た。この子こそ神様が約束してくださった救い主ではないか。このカインこそ、私たちの希望の星になってくれるだろう」と思ったのかもしれません。この子に相当期待していたと思います。
 しかし、現実はどうだったでしょう。「希望の星」という期待はだんだん失せていったようです。そして、次の子供が生まれた時、その子には「アベル」と名を付けました。「アベル」というのは、元来「息」とか「水蒸気」を意味する言葉で、「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」「むなしさ」を意味する言葉なんです。カインが生まれた時のあの勢いはありませんね。何だか「出るのはため息ばかりなり」って感じです。
 さて、二人の息子は成人し、兄のカインは土を耕す者、弟のアベルは羊を飼う者となりました。それぞれが生活のために働いていたわけですが、彼らは、一つのことを教えられて育ったようです。それは、「神様への感謝をささげることの大切さ」です。アダムとエバは、エデンの園を出て、神様と離れて生活するようになりましたが、いろいろな出来事の中で、人間の弱さというものに気づいていったのでしょう。こうして生かされているのは、決して当たり前のことではないと知ったのかもしれません。ですから、息子たちに、定期的に神様に心からの感謝のささげ物を携えていくことを教えていたようです。
 しかし、こう書かれています。「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
この箇所を読んで、「ちょっと待ってください、神様。それはひどいじゃないですか。アベルのささげ物にだけ目を留めるなんて、えこひいきですよ。カインが怒るのはもっともです」と思う方もいるでしょう。しかし、神様がえこひいきをなさったのではなく、ささげる側に問題があったのです。神様は、ささげ物を選り好みする方ではありません。ささげ物そのものよりも、ささげた人の心をご覧になる方なのです。
 神様が最も喜ばれるのは、神様への愛と感謝の心です。しかし、カインは、ただ義務感でささげ物をしたようです。こんな風に考えていたかもしれません。「なんで神様にささげる必要があるんだ。俺が汗水たらして働いたから収穫できたんだ。神様は、何も手伝ってくれてないじゃないか」と。そして、そのささげ物に目を留めてもらえないと、「この忙しい中、せっかくささげ物を持ってきたのに、俺のささげ物は無視して弟のささげ物だけ受け入れるとは、一体どういうことだ。まったく頭にきちゃうぜ」と憤ったのです。
 そんなカインに、神様は忠告をお与えになりました。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」つまり、「その怒りを適切に処理しなさい。さもないと、だんだんエスカレートしていき、怒りに引きずられて罪をおかすことになってしまいますよ」と言われたのです。
 しかし、カインは、弟アベルを野に連れ出して殺してしまいました。彼は、自分の心のあり方を指摘されても、反省するどころか自分が認められなかったことに怒りを覚え、ついにはその怒りにまかせて弟を恨み殺してしまったのです。憎しみが心の中で増幅し、大切ないのちさえも奪うまでになってしまったのです。結局、カインは、いのちを奪う者の代名詞のように言われるようになりました。
ヨハネは、このカインを例に挙げて、「あなたがたはカインのようであってはいけません」と注意しています。そして、15節で「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と記していますね。カインのような生き方、つまり、憎しみに身を任せて生きていく人生は、結局、いのちを奪ってしまったカインと同じ歩みをすることになるのだ、その生き方は神の子どもとしてふさわしくない、というのです。
 一方、弟アベルは神様に心からの感謝をささげていました。それなのに、カインに一方的に憎まれ殺されてしまいました。不条理と言えば不条理ですね。
 ヨハネは、この出来事と同じようなことが、今も起こっているのだと言います。13節に「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」と記していますね。ヨハネの時代、忍び寄る迫害の魔の手がありました。偽りの教師たちによる攻撃もありました。主を礼拝し感謝することを喜ばない人たちもいたのです。
 それは、いつの時代も同じです。イエス様は、ヨハネの福音書15章18節で「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」と言われました。パウロは、第二テモテ3章12節で「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と書いています。ペテロは、第一ペテロ4章16節で「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい」と書いています。神の子として生きる時に不条理な苦しみにあうこともあると聖書は教えているのです。世の中にはカインのような人々が多いからです。
 しかし、ヨハネは、「あなたがたはカインのようであってはならない」と警告しています。それでは、私たちは、神の子どもとして、どのような歩みをしていけばいいのでしょうか。それが、今日の箇所の中心的なテーマなんです。 

2 愛に生きる

 神の子どもとして生きるということを考える時、大切な鍵となるのは、16節の言葉です。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 ここには、三つの段階があります。
 まず、「事実」です。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました」という事実です。キリストが十字架にかけられたことを否定する人はほとんどいません。歴史的な客観的な事実だからです。しかし、その十字架が「私たちのため」だったという事実に目を向ける人は、日本においてはそう多くはありません。時々、「事実なんて、どうでもいいんですよ。大切なのは信じる心ですから、何を信じようがかまいませんよ」と言われる方がいます。大間違いです。聖書は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになった」と語ります。つまり、キリストの十字架の死は、私たち一人一人と密接な関係にある事実なのだということなのです。
 パウロは、第二コリント5章21節で、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」と記しています。
 次に、「発見」です。十字架の事実に目を向け、受け入れていくとき、そこに大きな発見があるのです。「それによって私たちに愛がわかったのです」という「愛」の発見です。キリストの十字架によって、私たちは愛とはどのようなものかということがわかってくるのです。私たちのために罪の呪いと罰をすべて背負い、いのちを捨ててくださるほどの愛、私たちのために愛する御子のいのちも与えるほどの神様の愛がわかるのです。
 そして、三番目に「新しい行動原則」です。十字架の事実を知り、神様の深い愛を発見し、その結果、新しい行動原則が生まれてくるのです。それは、「兄弟のために、いのちを捨てる」という新しい行動原則です。
でも、「兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と聞くと、「私には、とても無理だ。私はこの教えに従えないから、だめクリスチャンだ」と思う方もいるのではないでしょうか。あるいは、「よし、立派なクリスチャンとして、このいのちを捨てよう」と気負すぎてしまう方もいるかもしれませんね。
 まず、ヨハネがどういう意味で「兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と言っているのかを理解する必要があります。これは、単に「兄弟のために死ぬべきだ」という意味ではありません。聖書が教えている「兄弟のために、いのちを捨てる」とは、相手にとって何が最善なのかを考え、その最善のために犠牲を払うことです。そのためには、まず、神様の愛を知り、神様が愛しておられるのと同じように兄弟を愛し、神様がご覧になるように愛をもって兄弟を見ることが大切ですね。
 第一コリント13章3節には、こう書かれています。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」表面的にどんなに素晴らしい行いをしたとしても、いくら自分のいのちを捨てたとしても、愛がなければ何の役にも立たないというのです。
 ヨハネの手紙のテーマは、「愛に生きる」ということです。まことの愛こそ、人を生かすものです。ヨハネは、「あなたがたは、イエス様の十字架によってまことの愛を知ったのだから、お互いにそのまことの愛に生きていこう」と勧めているのです。神の子どもとされた人は、そのような新しい行動原則によって生きるようになるのだとヨハネは確信していたのです。
 そして、愛に生きる時に心に留めておいていただきたい三つのことがあります。

①死からいのちに移っている

14節に「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています」とあります。「死」とは神様との繋がりが立たれている状態です。しかし、今、いのちに移っているということは、神様と繋がり、神様のいのちに生かされているということです。そして、そのいのちによって豊かな実を結ぶことができるのです。「愛に生きるなんて難しい」と思う方もおられるかもしれません。もちろん自分の力ではできないでしょう。しかし、神様のいのちによって愛の実が育ってくるので、愛に生きることができるようになっていくのです。
 ヨハネも以前は「雷の子」とあだ名されるほど気性の激しい人でしたが、晩年には「愛の人」と呼ばれるようになりました。いのちの中に生かされていたからです。私たちも神様のいのちに生かされ、愛に生きる者へと変えられていくのです。

②愛は重荷にならない

 この手紙の5章3節に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」とあります。神の命令、つまり、愛に生きるということは、決して重荷とはならないというのです。
今日の箇所の17節ー18節に「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と書かれていますね。
 出来る力があるのに愛の行為を示さないのは、神に愛されている子どもとしてふさわしくありませんが、だからといって、無理なことをする必要はありません。無理をすると、自分も疲れて重荷になってしまうし、相手のためにもならないことが多いのです。もし、私たちが自分を自分以上に見せようとしたり、気負って何かをしようとしたら、とたんに疲れ、重荷になってしまうでしょう。人はみな違います。それぞれに得意不得意があります。自分の出来ることと出来ないことの境目と限界をわきまえることが大切です。人と比べる必要はありません。自分のできる範囲で、自分と関わりのある人に対して最善を願う心と態度を示していけばいいのです。自分に足りないところは、他の人が補ってくれるでしょう。「行いと真実を持って愛する」ことの具体的な表れは、人それぞれ違っていていいのです。愛の心を持って誠実に自分のできることを行っていきましょう。

③自分の心が責めることがあっても

 私たちは、愛に生きようとするとき、「私には愛がないな」と感じたり「あの時、もっとこうすればよかった」と後悔したりして自分を責めてしまうことがあります。ヨハネは、そのことをちゃんと知っていたのですね。20節に「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです」と書いています。
 私たちは、自分の至らなさ、不甲斐なさ、愛のなさに嘆き、葛藤し、自分で自分を責めてしまうのですが、神様は私たちの想像するよりはるかに大きな愛、忍耐と寛容の心を持っておられます。神様は、私たちの状態をよく知った上で、私たちを責めるのではなく、かえって、「大丈夫。わたしがあなたと共に歩もう。さあ、自分を責めるのではなく、わたしの愛の中で生きていけ」と声をかけ続けてくださるのです。
 そして、ヨハネは、「自分を責めるのではなく、大胆に神様の御前に出て何でも必要なものを求めれば、神からいただくことができるのですよ」という励ましの言葉を書いています。もし、自分に愛が足りないと感じたら、自分を責めるのではなく、神様の御前に出て、「愛を増してください」と願い求めればいいのです。

3 神の命令

 そして、ヨハネは、23節-24節で、神様が一人一人に願っておられることを記しています。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。」
この箇所を要約すれば、「信じ、愛し、主と共に歩め」ですね。救い主イエスを信じ、互いに愛し合い、神様と共に歩んでいくのです。それが、私たちが神の子として生きている証拠なのです。
 三十歳の若さでこの世を去った八木重吉という詩人がいます。その詩の中に、『仕事』と題された詩があります。
     『仕事』
   信じること
   キリストの名を呼ぶこと
   人をゆるし出来るかぎり愛すること
   それを私のいちばん良い仕事としたい

そんな歩みをこれからも続けていくことにしましょう。