城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年九月一一日             関根弘興牧師
                 第一ヨハネ四章一節~六節
 ヨハネの手紙連続説教9 
   「神から出た者たち」

1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。2 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。3 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。4 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。5 彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。(新改訳聖書)

ヨハネがこの手紙を書いた当時、偽りの教師たちが現れ、混乱してしまう教会もあったようです。
 偽りの教師たちは、「霊は善だが、物質は悪だ」と主張しました。そして、聖書の神様やイエス・キリストを否定するようなことを教え始めたのです。
 たとえば、天地万物を創造なさった神様について、彼らは「悪である物質世界を造った神は、三流の神にすぎない」と主張しました。また、「イエスは神である方なのに、人として私たちのもとに来てくださった」という聖書の教えについては、「神聖なる神が悪である肉体を持つなどありえない。イエスが人となって来たなどというのはおかしい。もし目に見える姿で来たとしても、本当に肉体を持っていたのではなく、単なる幻に過ぎなかったのだ」などと主張したのです。
 そういう教えは、「愛なる神様が私たちを救うために救い主イエスを与えてくださった」という聖書の中心的な教えを否定するものでした。
 そこで、ヨハネは、今日の箇所で、「いろいろな教えがあるけれど、吟味せずに信じてはいけない。それが本当に神様からのものであるかどうかをためしなさい」と警告し、「真理の霊」と「偽りの霊」を見分ける基準を説明しているのです。

1 「霊」とは

 さて、今日の箇所には「霊」という言葉がたくさん出てくるので、違和感を感じる方もおられるでしょう。「霊」というと、幽霊のような不気味なものとか、自然の中に宿っている神秘的なものとか、この世とは別の霊界のような所から来た得体の知れないもの、というようなイメージを持つのではないでしょうか。
 しかし、聖書の中で使われている「霊」という言葉は、そういう意味ではありません。
 聖書の「霊」という言葉は、「風」とも訳すことができます。ヨハネの福音書3章8節に 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」とあります。この「風」は「霊」と同じ言葉です。風そのものは目に見えませんが、風が吹くと木々が揺れて風があることがわかりますね。それと同じように、「霊」とは「目には見えないけれど、実際に存在しているもの」という意味があるのです。
 聖書の中では、「霊」という言葉は次のような場合に使われています。

①「神」ご自身
ヨハネの福音書4章24節に「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」とあります。「神は霊です」というのは、「神様は目には見えないけれど、永遠に存在しておられる方だ」という意味です。

②「聖霊」ご自身
 第一コリント3章16節に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」とあります。ここで「御霊」と訳されているのは、原語では「霊」という言葉です。この箇所では聖霊のことなので、「御」の字を付けて丁寧に訳しているのです。ここでは聖霊は「神の御霊」と呼ばれていますが、別の箇所では「キリストの御霊」と呼ばれています。聖書の神様は父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神様ですから、聖霊が私たちに宿っておられるということは、父なる神とイエス・キリストも宿ってくださっているということなのです。つまり、イエス・キリストを信じた時に聖霊が私たちの内に宿ってくださることによって、「神、われらと共にいる」という聖書の約束が実現したのです。

③「霊的存在者」
ヘブル1章14節に「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」とあります。聖書は、「御使い」という霊的な存在があると教えます。御使いは、神様のみこころに従って仕えているので「良き霊的存在者」ですね。しかし、逆に、人を惑わし神様から引き離そうとするサタンや悪魔と呼ばれる「悪しき霊的存在者」もいると聖書に記されています。

④人の内側の「霊」(思索や信念)
 第一テサロニケ5章23節に「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」とあります。私たちには、霊とたましいとからだがあるというのです。この場合の「霊」とは、どのようなものでしょうか。
 人は何かの行動や主張をするときに、その背後には必ずその人の考え方や思索や信念があります。たとえば、「私は神様の助けなんか要らない」と言う人の背後には「私は神様に頼るような弱い存在ではない」という考え方や、「神など存在しない」という信念があるかも知れません。そのように、その人の生き方の根底にある思索や信念、その人の言動を決定する大もととなっているもの、それが「霊」と呼ばれています。
 今日の箇所で、ヨハネが使っている「霊」という言葉は、この意味で使われているのです。

2 霊の見分け方

 さて、ヨハネは、1節で「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」と警告しています。
 ここで「ためしなさい」と訳されている言葉は、「吟味しなさい」「検証しなさい」という意味があります。つまり、「いろいろなことを教える教師たちがいるけれど、彼らの教えを鵜呑みにしてはいけない。その根底にあるものが何なのか、それが神様からのものなのかどうか、よく吟味し検証しなさい」とヨハネは言っているのです。
 教会は、このヨハネの言葉を決して忘れてはいけません。これを忘れると、教会は健全さを失っていくからです。
 以前、こんなキャッチコピーを見たことがあります。「人気のあるものが真理だとは限らない。みんなが行っているから正しいとは限らない。」確かにそのとおりですね。どんなに魅力的で人気がある教えでも、必ず吟味することが大切なのです。
 ヨハネは「イエス様を告白しない霊があり、にせ預言者がたくさん登場している」と書いていますが、それはヨハネの時代だけではありませんでした。教会は、歴史の中で何度も異端との戦いを経験してきたのです。間違った教えに飲み込まれる寸前になったことも何度もありました。多くの神学者が間違った教えに賛同してしまうこともありました。しかし、そのたびに、
それが本当に神様からのものなのかを検証し、「その教えは間違っている」とはっきり主張する人たちがいたからこそ 本当の福音が継承されてきたのです。
 今は多くの情報が乱れ飛んでいる時代です。いろいろな教えが入ってきます。しかし、私たちはいつも「それは神様からのものだろうか」と吟味しなければなりません。
 では、「神様からのものかどうか」をどのように判断すればいいのでしょうか。判断の基準は、もちろん聖書です。聖書こそ教会の土台であり、教会にいのちを与えるものです。
 もし誰かが「私は聖書に書かれていない新しい真理を見いだしました」と言ったら、それは百%神様からのものではないと断言できます。
 むしろ、注意しなければならないのは、聖書の言葉を使いながら、その中に間違った教えを付け加えたり、本来の意味と違う解釈をする人々です。また、聖書の一部分だけ強調して他の部分を無視するような偏った教えにも注意しなければなりません。私たちは、聖書全体をバランスよく理解して、中心的な真理を見失わないようにしていかなくてはならないのです。
 では、聖書の中心的な真理とは何でしょうか。私たちが特に覚えておく必要があるのは次の二つのことです。
 一つは、「イエスはまことの神である」ということです。聖書の神様は、唯一の方であり、三位一体の方です。「父なる神」「子なるイエス」「聖霊」は同じ本質を持ち、同じみこころによって同じみわざをなさる唯一の神様です。ですから、イエス様は、まことの神なる方なのです。
 ヨハネもイエス様が神なる方であることを福音書の中で繰り返し書いています。「この方は、初めから神とともにおられ、天地はこの方によって造られたのだ」と書きましたし、イエス様が「わたしと父とは一つです」と言われたことも記しています。「イエス様はまことの神なる方である」というのは聖書の教える大切な真理です。
 そして、もう一つは、そのまことの神であるイエスが人となって来てくださったということです。
 ピリピ2章6節ー8節でパウロはこう書いています。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
 「神である方が私たちと同じ人となって私たちのもとに来てくださった」と聖書は教えています。そして、「私たちの代わりに十字架にかかってくださった」、そして、「よみがえって、私たちに永遠のいのちを与え、私たちといつも共にいてくださる」、これこそが聖書が教える福音の本質なのです。
 ですから、「人となって来たイエス・キリストを告白する」ことが大切なのです。逆に、「イエスは神ではない」とか「イエスは人として来たのではない」など主張するならば、どんなに魅力的な教えであっても、それは神から出たものではありません。
 ですから、ヨハネは2節ー3節にこう書いているのです。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」
 ヨハネは、いつもイエス様のそばにいてイエス様の姿を見聞きしていたイエス様の目撃証言者です。イエス様を自分の目で見、イエス様の声を自分の耳で聞き、イエス様のからだに自分の手で触れたのです。ですから、イエス様が人としてきてくださったことを告白することは、ヨハネにとって正真正銘、事実に基づく告白でした。ですから、ヨハネは、「イエスは人として来たのではない」などと教える偽りの教師たちに対して、「それは違う」とはっきり宣言することができたのです。

3 「人となって来たイエス・キリスト」の意味

 聖書を読むと、神なるイエスが人として来てくださったことに非常に大切な意味があることがわかります。
 まず、神様から離れていた私たちのもとにイエス様が目に見える姿で来てくださることによって、私たちは、神様がどれほど愛と恵みとまことに満ちた方なのかを知ることができるようになりました。また、イエス様の姿を模範として、私たちは人としての本来の生き方を学ぶことができます。また、イエス様は、神であり人である方だからこそ、神様と私たちとの仲介者として関係を回復してくださることができます。そして、私たちは、イエス様の姿の中に本当の慰め、癒やし、励ましを見いだすことができるのです。
 イエス様は、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになりました。そして、当時、人々からさげすまれていたガリラヤのナザレという町で成長されました。福音を宣べ伝えながら、イエス様は当時の社会からのけ者にされていた人たちの友となられました。疲れ痛んだ人を見れば、近寄ってその手を差し伸ばされました。もちろん、私たちと同じように疲れや空腹や渇きも覚えられました。弟子たちと共に喜び、共に泣かれることもあったでしょう。イエス様は決して人を裏切ることはなさいませんでしたが、最愛の弟子たちに裏切られるという経験をなさいました。イエス様が捕らえられた時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていってしまったのです。イエス様は、不当な裁判を受け、十字架に磔にされ、壮絶な肉体の痛みと、人の罪を背負ってのろいを一身に引き受けるという苦しみを味わわれました。私たちが経験するどんな苦しみよりもはるかに壮絶な苦しみを受けられたのです。イエス様は神なるお方ですから、自分の苦しみや痛みなど、瞬時に取り除くこともできたはずです。十字架からすぐに飛び降りることだってできたはずです。しかし、イエス様は、御自分のためにその全能の力を用いることは決してなさいませんでした。父なる神のみこころに従って、最後の最後まで人としての痛みと苦しみを味わわれたのです。
私たちは、ときどき「だれもわかっちゃくれない」と嘆きます。「私の痛みや悲しみなどだれも理解してくれない」と言います。でも、イエス様は理解することがおできになるのです。 ヘブル4章15節ー16節には、こう記されています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」イエス様は、私たちと同じように人としての痛み苦しみを味わわれたので、私たちの弱さを理解し、あわれみ、助け、慰めることがおできになるのです。

3 「神から出た者」として

 さて、ヨハネは、「人となって来たイエス・キリスト」を告白する者は「神から出た者」だと言います。そして、4節でこう書いています。「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」
 ヨハネは、すごいことを言っていますね。「あなたがたは、神から出た者で、勝利者だ」というのです。つまり、イエス・キリストを信じる私たち一人一人も勝利者だということですね。でもそう言われても実感がわきませんね。
 「彼らに勝った」というのは、「偽預言者」や「反キリスト」、つまり、教会の中で間違ったことを教えていた偽りの教師たちやその間違った教えそのものに勝ったということです。つまり、「偽りの教えがどんなに吹き荒れても、あながたが聞き、受け入れた福音によってもたらされた救いはびくともしないから、大丈夫だ」ということなのです。
 なぜ私たちは勝利者になれるのでしょうか。その理由は、4節後半に書かれています。「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」これは、「主を信じる一人一人のうちにおられる聖霊は、この世の中で働いているサタンよりも力があるから」ということです。「その聖霊がいつも共にいてくださるのだから、私たちは勝利者として、与えられた信仰に自信を持って生きていけばいいのだ」とヨハネは言っているのです。
 そして、6節にこう書かれています。「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」
 「神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾ける」と書かれていますね。それでは、「私たちの言うこと」とはどのようなことでしょうか。この手紙の冒頭の言葉をもう一度思い出してください。1章1節と2節にこう書かれていましたね。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」
 ヨハネたちが伝え、言い続けたこと、また私たちが言い続けることとは、「いのちことばであり、永遠のいのちである救い主イエス・キリスト」のことです。「神であり人として来られたイエス・キリスト」をヨハネは伝えていきました。神を知っている者は、そのイエス様の福音に耳を傾けるのです。
 ヨハネは、偽りの教師たちによるいろいろな教えの風が吹き荒れている中で、真理と偽りを見分ける方法をここではっきりと書いています。それは、このイエス様の福音に耳を傾けるかどうかということです。
私たちもヨハネや他の使徒たちが伝えてくれた福音にいつも耳を傾け、その恵みの深さ、広さ、高さを味わい続けていきたいですね。そして、この福音を守り、伝え続けていきたいですね。
 そのために聖書を通して、福音を聞き続けていきましょう。パウロは、ローマ10章17節でこう記しています。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
 今週も、イエス様が人として来られたまことの神、まことの救い主であることを告白しつつ、聖書から福音によってもたらされる恵みの数々を知り、味わいながら歩んでいきましょう。