城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年九月一八日             関根弘興牧師
                第一ヨハネ四章七節~二一節
 ヨハネの手紙連続説教10 
    「ここに愛がある」

7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(新改訳聖書)

 ヨハネの時代、偽りの教師たちが間違った教えを教会に持ち込み、混乱を与えていました。そこで、ヨハネは、教会がその間違った教えに惑わされることを防ぎたいという思いでこの手紙を書いたのです。
 ヨハネが問題としていた偽りの教師たちとは、「グノーシス主義者」と言われる人たちでした。
 「グノーシス」の教えについては、ヨハネがこの手紙を書く以前にも、パウロが第一テモテ6章20節でテモテに対してこう警告しています。「テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって『霊知』(グノーシス)と呼ばれる反対論を避けなさい。」
 ここで「グノーシス」という言葉が「霊知」と訳されていますが、「グノーシス」とは、ギリシャ語で「知識」という意味です。グノーシス主義者たちは、自分たちこそが最高の知識(グノーシス)を持っていると自負し、「私たちこそが神を知っている」と高慢にも語っていました。そして、彼らは、「私たちは罪などないし、罪などというものを超越している知識があるのだ」と主張していました。したがって、彼らはイエス様の十字架によってもたらされた罪の赦しなど必要とは考えませんでした。また、神様の愛に生きること、とりわけ兄弟を愛するなどということは無視していたのです。彼らにはとって大切なのは、目に見えない魂を自分たちの考え出した知識によって解放するということにあったのです。
 それに対して、ヨハネは、2章4節で「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません」と記し、知識だけを求めて、神様の愛に生きようとしない彼らを「偽り者」と糾弾したのです。
 そして、今日の7節ではこう記しています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」
 ヨハネは、今日の箇所で、神様に愛され、神様の愛に生きることを通して、人は、本当の意味で「神を知る」ことができるのだと教えています。そして、私たちがどれほど大きな神様の愛の中に生かされているかということと、この愛に生きることこそ私たちに最もふさわしい生き方なのだということを書き記しています。今日は、この神様の愛について学んで生きましょう。

1 神は愛です

 ヨハネは、16節で「神は愛です」とはっきり宣言していますね。神は愛そのもののお方です。
 しかし、「愛」は決して一人では持つことはできませんね。愛には必ず対象となる存在があります。「私は愛します」というとき、「だれ」あるいは「何」を愛するのか、という具体的な対象が必ずあるのです。ですから、「神は愛です」というときも、神の愛の具体的な対象となる存在があるのです。
 では、神の愛の対象は、いったい誰でしょうか。神の愛が注がれている相手は誰でしょうか。聖書は、「それは、あなたです」と告げているのです。神の愛の対象は、私たち一人一人なのです。であるなら、私たちが生かされている目的がはっきりとわかってきます。何かができるできないに関わらず、神様の愛の対象としてここにいること、それこそが私たち一人一人の存在の目的なのです。神は愛です。そして、私たちはその神の愛の対象なのです。
 それでは、私たちに対する神様の愛は、どのようなものでしょうか。それが9節以降に書かれています。これは、教会がいつもいつも語り続けていくべき大切な福音の中心です。
 
①先行的な無条件の愛

 16節に「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」とありますね。また、10節には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」とあります。
 ヨハネは「私たちが神様を愛したから、神様も私たちを愛してくださった」とはひとことも書いていません。そうではなくて、私たちが愛する愛さないに関係なく、「神様がまず私たちを愛してくださった」というのです。
 神様は、「もしあなたが一生懸命頑張って私に尽くしたら、ご褒美として愛してあげよう」などと言う方ではありません。神様は、私たちがどんな状態であっても、何をしてもしなくても関係なく、無条件でご自分の方から愛してくださる方なのです。
 あるとき、イエス様のもとに一人の役人がやってきて、こう尋ねました。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」この人は、自分が幼いときから戒めをきちんと守って立派に生きてきたという自信があったようです。自分は神様に愛され、永遠のいのちをもらえて当然だと思っているようでした。だから「あなたなら合格」とイエス様に言ってもらえるのを期待していたのでしょう。そんな彼に、イエス様はこう言われました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」彼は、これを聞くと、非常に悲しみ、結局、去って行ってしまいました。「この人は多くの財産を持っていたからである」と書かれています。
 この出来事は、自分の行いで神の愛や永遠のいのちを得ようとすることの限界を教えています。つまり、「神様にこれだけのことをすれば、神様に愛され、永遠のいのちをもらうことができる」という発想は、根底から間違っていて、結局躓くことになってしまうのです。
 「私は、神様を愛せない、神様の基準に達することができない、だから、神様から愛してもらうことはできない」と思ってしまう人が多いのですが、それは間違いです。神様は、ありのままの私たちを愛してくださるからです。
 パウロもローマ5章6節-8節にこう書いています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちが弱く、罪人で、神様に背を向けているときから、神様の愛はすでに注がれているのだと聖書は教えています。ですから、神様の愛から漏れている人など誰一人いないのです。

②最善を願う愛

 「愛」は、相手の最善を願います。神様も私たちの最善を願っておられ、そのためにみわざをなしてくださいます。
 では、私たちの最善とは何でしょうか。神様との関係を回復し、神様のいのちを受け取って生きることです。
 9節に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」と書かれていますね。
 また、イエス様は、ヨハネ10章10節で「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と言っておられます。また、ルカ19章10節では「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言っておられます。
 私たちは、神様から離れて霊的に死んだ状態、失われた状態、人生の目的や存在価値を見失ってさまよっている状態でした。神様は、そんな私たち一人一人のために救い主を送り、豊かないのちを与え、私たちが喜びと希望と平安を持って生きることが出来るようにしてくださったのです。

③犠牲を惜しまない愛

 そして、私たちの最善の状態を回復するために、神様は、ひとり子イエスを遣わしてくださいました。10節に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と書かれていますね。
 この「なだめの供え物」という言葉は、2章2節にも出てきました。「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です」と書かれていましたね。
 「なだめの供え物」という言葉を理解するためには、旧約聖書の背景を知る必要があります。旧約聖書には、神様にささげる「いけにえ」のことがたくさん書かれています。「いけにえ」の目的はいくつかありましたが、大切な目的の一つは、「罪を贖う」ことでした。人が罪を犯すと、人の身代わりに動物がいけにえとしてささげられたのです。「私たちの罪によって引き起こされた神様の怒りをなだめるための供え物」ということですね。聖書には、「罪から来る報酬は死だ」と書かれています。罪は、死をもって償う以外に道がないのだ、ということを教えているのです。そのことを実際の儀式を通して象徴的に示すために、罪のためのいけにえの動物をささげる儀式が旧約聖書に規定されていたのです。
 しかし今日、私たちは、動物のいけにえをささげることはしません。なぜでしょうか。それは、ヨハネがここで書いているとおり、罪のないイエス・キリストが、私たちの代わりに私たちのすべての罪を背負って「なだめの供え物」となって十字架についてくださったからです。このイエス様の十字架の出来事を知るとき、私たちは「ここに愛がある」と言うことがわかってくるのです。第一ヨハネ3章16節には「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」とある通りですね。
 そして、パウロはローマ8章32節にこう記しています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」御子をさえ与えてくださった神様は、私たちのために必要なものすべてを与えてくださいます。「あなたのためなら、どんな犠牲もいとわない」と言ってくださるのです。

④共にいる愛

 そして、13節には「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」とあります。
 神様は、救い主イエスだけでなく、聖霊も与えてくださいました。それによって、私たちはいつも神様のうちにいることができ、また、神様もいつも私たちのうちにいてくださるので、私たちは神様と共に歩むことができるのです。
 イエス様は、十字架につけられ、三日目によみがえり、多くの弟子たちの前に現れてから、天に昇って行かれましたが、その前に、弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」(ヨハネの福音書14章18節)、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章10節)と約束なさっていました。そして、それとともに、「わたしはもうすぐ去って行くけれど、わたしの代わりにもうひとりの助け主である聖霊があなたがたのもとに遣わされる」(ヨハネの福音書14章16節)とも言われました。その言葉のとおり、イエス様が天に昇って行かれてから十日目に、弟子たち一人一人に聖霊が注がれたのです。それによって、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三位一体の神様がいつも私たちとともにおられるという約束が実現しました。「わたしは、愛するあなたといつも共にいたいのだ」という神様の愛が聖霊によって示されたのです。神の愛は決してあなたから離れることはないのですね。
 私たちは、自分の力や頑張りで救いを得ることはできません。また、人としてふさわしい生き方をしようとしてもできない自分を発見します。でも、神様が私たちと共にいて、私たちを助け、導き、成長させようと願い、聖霊を与えてくださいました。私たちは、その聖霊によって神様の愛の中で豊かな実を結んでいくことができるのです。

2 神の愛への応答

 神様がまず私たちを愛してくださり、私たちが豊かないのちを持っていつも神様と共に生きることができるように、御子イエスと聖霊を与えてくださいました。
 その神様の愛に対して、私たちはどのように応答し、生きていけばいいのでしょうか。

①イエスを神の御子と告白する

15節に「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」とありますね。 まず、「イエスを神の御子と告白する」ことが大切です。
 先週は、「人として来られたイエス様を告白する」ことが大切だというお話しをしました。神であるイエス様が人となって来てくださったので、私たちに神様のことを教え、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかって救いをもたらすことができ、また、私たちを理解し、励まし、癒やし、慰めてくださることができるのだということを学びましたね。
 そして、今日の箇所の「イエスを神の御子と告白する」というのは、イエス様がただの人ではなく神であるからこそ、イエス様の十字架の贖いによる救いは完全だということです。「イエス様を神の御子と告白する」とは、「イエス様は神様ご自身です」という告白であり、「イエス様の救いは完全である」という告白なのです。
 私たちは、すぐにいろいろなことを心配してしまう癖があります。信仰についても心配するのです。「イエス様を信じたけれど、本当に救いが与えられているのだろうか」「神様のうちに歩んでいると言うなら、どうしてこんなに辛いことが起こるのだろう」と、いろいろな心配や不安を感じます。だからこそ、「イエス様は、神の御子です」と告白することが大切なのです。それは、「イエス様の救いは完全です。何があってもその事実に揺らぎはありません」という告白なのですね。私たちは不完全ですが、イエス様の救いは完全なのです。そのことを告白し続けていきましょう。
 
②神の愛を知り、信じる

16節に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています」とありますね。
私たちの生涯は、神の愛を知り続け、信じ続ける生涯です。人生には様々なことがありますが、それでもなお神の愛を信じて歩んでいくのです。
 旧約聖書のヨブ記を読むと、ヨブという人がたくさんの災難に見舞われたことが書かれています。突然の災害や敵の攻撃で、財産も子供もすべて失い、自分自身も全身に悪性の腫物ができて苦しむヨブに対して、ヨブの奥さんはこう言いました。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」と。奥さんがこう言うのもわかりますね。しかし、聖書は、「それでもなお、神様は私を愛しておられる。私は、神様の愛を信じる」と告白し続けなさい、と教えるのです。それには勇気が必要ですね。でも、聖書は、「主に信頼するものは失望に終わることはない」と約束しています。失望があっても、失望に終わることはないのです。
 また、18節に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」とありますが、神様の全き愛に信頼して生きるとき、恐れは締め出されていくのです。「私は神様から見捨てられるのではないだろうか」「神様が私を怒って罰せられるのではないか」と恐れる必要はありません。私たちがどんな状態にあっても、神様の愛は変わることはないからです。また、神様は私たちのことをすべてご存じで、すべてを支配しておられ、私たちをいつも守ることがおできになるからです。その神様の愛に信頼して恐れずに生きていきましょう。

③互いに愛し合う

そして、19節ー21節には、こうあります。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」
 ヨハネは、「神様を愛すると言いながら兄弟を愛さないというのは、ちょっとおかしいぞ」と言います。神様の愛を知ったら、兄弟を愛する者へと変えられていくはずだからです。神様を信じて聖霊がうちに住んでくださっているなら、愛の実が結ばれていくはずですね。とは言っても、もちろん、私たちは自分の弱さや限界、そして愛のなさを感じることがあります。しかし、それは、これから変えられていく自分を見ることができる素晴らしいチャンスです。神様が成長させ、助けてくださいますから、主を信頼して、互いの最善を願いながら歩んでいきましょう。
 繰り返しますが、今日、私たち一人一人は、神様の愛の対象として存在しています。ですから、今週も、神様に愛されている者として、大胆に誇りを持って歩んでいきましょう。