城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年九月二五日             関根弘興牧師
                 第一ヨハネ五章一節~五節
 ヨハネの手紙連続説教11 
   「信仰の告白に生きる者たち」

1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(新改訳聖書)


 ヨハネの手紙を読んでいくと、大切な三つの信仰告白が出てきます。一つは「イエス様は神の御子である」という告白、二つ目は「イエス様は人として来てくださった」という告白、三つめは「イエス様はキリスト(救い主)である」という告白です。
 イエス様が、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたときのことでした。イエス様は弟子たちにこう尋ねました。「人々は、人の子を誰だと言っていますか。」弟子たちは答えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエス様は、次にこう質問なさいました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」すると、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えのです。
 その答えを聞いて、イエス様は、こう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロ(ペトロス)です。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16章17節-18節)
 イエス様は、「この岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われましたが、この「岩」とは、弟子のペテロを指すのではなく、ペテロが発した「あなたは、生ける神の御子キリストです」という告白のことです。これは、「人の子として来てくださったイエス様は、生ける神の御子なる方(神と同じ本質を持っておられる方)であり、私たちを救ってくださるキリストです」という告白です。「この告白の上に教会を建てる」とイエス様は言われたのです。そして、この告白の上に建てられた教会は、ハデスの門も、つまり、死さえも打ち勝つことができないほど堅く揺るぎないものなのだ、と力強く約束しておられます。ですから、教会は、このイエス様に対する信仰の告白を非常に大切にするのです。
 ヨハネがこの手紙を記した当時、偽りの教師たちは、このイエス様に対する信仰の告白を教会から除き去ろうとしていました。しかし、もしこの告白が途絶えてしまったら、教会の土台が破壊され、教会はいのちを失ってしまいます。クリスチャン一人一人の信仰も揺らいでしまいます。
 そこで、ヨハネは、5章で、イエス様に対する信仰の告白がどれほど大切で確かなことであるかを説明し、その告白に生きる人々を励ましているのです。
 今日の箇所では、まず、イエス様への信仰を告白して生きる人々にどのような特徴があるかを記しています。

1 神によって生まれた者

1節に「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」とありますね。イエス様がキリスト(救い主)であると信じた時に、私たちは神様にいのちを与えられ、新しく生まれたのだというのです。
 ヨハネの福音書3章に、ニコデモという人がイエス様のもとに訪ねてきた時のことが記録されています。この出来事は、四つの福音書のうち、ヨハネの福音書にしか記されていません。おそらく、ニコデモとイエス様の対話がヨハネの心に深く刻まれていたのでしょう。
 彼は、厳格なユダヤ教徒でユダヤ人の指導者でした。当時のユダヤ最高議会のメンバーであり、教師でした。この時には老年になっていたので、長老として多くの人に尊敬されていたでしょう。ニコデモという名前は「征服者」という意味で、親の期待を一身に背負って名付けられたのかもしれません。その期待通りに、いろいろなものを「征服」して、他の人たちから見たら言うことなしの人生を送っているように見えたでしょう。
 そんなニコデモが、なんとイエス様の所にやって来たのです。当時のユダヤの指導者の多くはイエス様に対して懐疑的、批判的でした。また、イエス様は、ニコデモよりはるかに年下の若造でした。それでもニコデモは、イエス様のもとにわざわざやって来たのです。ただし、人目を避けて、夜こっそりと会いに来ました。他の指導者たちの目を気にしたのかもしれませんし、自分自身のプライドもあったのかもしれませんね。
 彼は、旧約聖書の教えに精通し、自分の出来る範囲で模範的な生活を送り、地位も財産も社会的評価も十分で、いろいろなものを征服してきましたが、どうしても征服できないものがあったようです。それは、自分の内側のずれとでもいうべきものでした。自分の内側に何かが足りないという思いや後ろめたさがあって、「私は本当にこのままで神の国に入れるのだろうか」という不安を克服できなかったのですね。そこで、思い切ってイエス様のもとにやって来たわけです。
 イエス様は、そんなニコデモにはっきりとこう言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)これは、逆に言えば「人は新しく生まれることによって、神の国を見ることができるようになるのだ」ということですね。
 しかし、ニコデモは、この「新しく生まれる」ということの意味が理解できず、「私のような年寄りが、もう一度、母の胎内に戻って生まれ直すということですか。そんなこと不可能ですよね」と答えました。もちろんそれは不可能ですね。
 でも、イエス様が言われた「新しく生まれる」というのは、肉体が生まれ変わるという意味ではありません。この「新しく生まれる」という言葉は、「上から生まれる」とも訳すことができますが、「上から生まれる」とは、神様によって内側の霊の部分が生かされるようになるということなのです。人の内側の奥底にある霊の部分が神様から離れて死んだ状態にあるので、その霊が神様のいのちを受けて新しく生まれる必要があるというのです。それは、人の努力や頑張りによって出来ることではありません。神様の力が必要です。「救いとは上から差し伸ばされた手」であると言った方がいましたが、神様が上から差し伸ばしてくださった手によって、人は新しく生まれ、神様との関係を回復することができるのです。
 そして、イエス様は、ニコデモに言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」これはどういうことかといいますと、天から下って人となってくださったイエス様が、これから人々の救いのために十字架にかかってくださるから、そのイエス様を信じるならば、永遠のいのちを持ち、新しく生まれて神の国に属する者になれる、ということなのです。
 つまり、イエス様は、ニコデモに「あなたは立派な生活をしてきたが、それによって神の国に入ることはできない。わたしを信じて神様から永遠のいのちを受け取り、新しく生きることが必要なのだ」と言われたわけですね。
 赤ちゃんが生まれるときのことを考えてください。赤ちゃんは自分の努力や頑張りで生まれてくるわけではありませんね。それと同じように、私たちも自分の努力や頑張りによって新しく生まれるのではなく、ただ神様によって新しく生まれることができるのです。
 ですから、私たちの功績や努力や修行は、救いとはまったく関係ありません。もし、人間の功績や努力などで救いを得ることができるなら、その救いは限られた一部の人たちだけのもののなるでしょう。それに、人の力で獲得できる程度の救いは、相当安っぽいものだと思いませんか。
 神様が与えてくださる救いは、神様のひとり子イエス様のいのちと引き替えにしたほどに高価で尊いものです。あまりにも高価なので私たちが代価を支払うことなど到底できません。その高価な贈り物を神様は私たちに無償で贈り物として差し出してくださいました。神様は、それほどまでに私たちを愛してくださっているのです。
 私たちは、その差し出された贈り物に対してどういう態度を取るでしょうか。「そんなに高価な物は申し訳なくて受け取れません」と言うでしょうか。「その贈り物を自分の力で買い取るために頑張ります」と言うのでしょうか。それではいつまでたっても無理ですね。そうではなくて、私たちがその贈り物をただただ「ありがとうございます」と感謝して受け取ることを神様は願っておられるのです。それが信仰の出発なのです。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」、つまり、イエス様がキリストであると信じるだけで、神によって生まれることができる、それが福音の素晴らしさなのです。

2 神の命令に生きる者

次に、1節の後半に「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」と書かれていますね。イエス様を信じる人々のしるしは、神を愛し、また、神によって生まれた人々を愛すること、つまり、愛に生きることです。
 そして、3節に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とありますね。神の命令とは何でしょう。それは、この手紙の3章23節に書かれていましたね。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」
イエス様もヨハネの福音書15章9節-12節でこう言っておられます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。・・・わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
 イエス様を救い主と信じる人々は、神を愛し、神の命令を守って生きるようになる、そして、その命令とは互いに愛し合うことだ、というのですね。
 そして、ヨハネは、3節の後半で「その命令は重荷とはなりません」と言っています。この「重荷」と訳される言葉は、「重い」という言葉から出たもので、「難しい、実行困難」という意味です。「御子イエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合いなさい」という神様の命令は、重荷とはならない、つまり、難しくないし、実行困難ではない、というのです。
まず、「御子イエス・キリストの御名を信じる」ということは、どうでしょうか。聖書では、「名」とは、その人の「本質」を表すものという意味で使われています。ですから、「御子イエス・キリストの御名を信じる」というのは、神の御子であり、救い主であるイエス様の御性質、本質を信頼するということです。
 イエス様を実際に目撃した人々は、「この方はまことに神の子であった」(マルコ15章39節)、「この方は、恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1章14節)、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」(第一ペテロ2章22節)、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(第二テモテ2章13節)と口々に証言しています。そして、イエス様は、あらかじめ弟子たちに話しておられたとおり、十字架にかかって三日目によみがえり、弟子たちの前に現れてくださいました。五百人以上の弟子たちがよみがえったイエス様を目撃したのです。それによって、イエス様がまことに神の御子キリストであり、イエス様の言葉が真実で信頼できることが証明されたのです。そして、イエス様は「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ24章35節)と言われました。
 イエス様は、恵みとまことに満ち、偽りのない方で、そのことばは永遠に変わらない確実なものですから、私たちは、安心して信頼することができるのです。
 もし自分勝手で不誠実で偽りだらけで、言うことがころころ変わる人を信じなければならないとしたら、それは大変な重荷となるでしょう。私はこうして牧師をしていますが、幸いなことに皆さんが私を牧師として信じてくださっていることを感謝しています。私を牧師だと信じるから、「聖書の話を聞こう」と思ってくださるわけですね。でも、もし私が詐欺師だとわかったら、私の話を聞こうは思わないでしょう。あるいは、「あの牧師は、まったく不誠実で人間的に信用できない」と思ったら、私の話を聞こうとは思いませんね。相手が本当に信頼に価する存在かどうかということが大切なのです。
 イエス様は、信頼できるお方です。まず、イエス様が豊かな愛とまことを示してくださったので、私たちがイエス様を愛し信頼することは自然なことであり、決して実行困難な重荷とはならないのです。
 それは、「互いに愛する」ことも同じです。
 先週、礼拝でお話ししましたが、まず、神様が私たちを愛し、御子イエスを私たちのもとに送ってくださいました。それによって私たちは愛がわかったのです。イエス様がまず私たちを愛してくださったので、私たちはイエス様のように人を愛することができるようになったのです。
 もちろん、まだ完全にされているのではありませんから、愛せないと思うこともあるでしょう。しかし、イエス様のように愛せる者へと変えられている途中にあるのです。私たちの内に住む聖霊が愛の実を育ててくださっています。そのみわざに期待していきましょう。そして、今、自分のできる範囲で愛を示していきましょう。人と比べて自分をさばいたり、他人をさばいたりする必要はありません。人に見せるために何かをするわけではありません。ただ自分に関わりのある人々の最善を願い、自分なりの方法で神様の愛に生きていくのです。ですから、互いに愛することは、決して実行困難ではないのです。
 それでも、もし、疲れたり、重荷となったり、自分を責めることがあったら、あらためて神様の大きな愛の中にいることを思い出してください。3章20節にこう書かれていましたね。「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」
 神様は、私たちがどんな状態であっても、責めることなく、慰め、励まし、愛し続けてくださるのです。ですから、安心して神様の命令に従っていきましょう。

3 世に勝つ者

 そして、4ー5節には、こう書かれています。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
 今日の説教の最初に、ペテロがイエス様に「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白したことをお話ししましたね。イエス様は、このペテロの信仰告白を聞いて、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」と言われました。イエス様を信じる告白をするなら、どんなものにも打ち勝つことができるということですね。
 それと同じことを、ヨハネも今日の箇所で言っているわけです。「イエスを神の御子と信じる者は、勝利者だ」と高らかに宣言しているのです。
 ここでヨハネが言っている「世」というのは、イエス・キリストを否定する偽りの教師たちとその教えのことです。また、「世」には、「神様抜きの秩序」という意味がありますから、私たちを神様から引き離そうとする様々な働きを指しているといってもいいでしょう。世の力は強いですから、様々な教えの風に翻弄されたり、不安や心配に悩まされることもあるかもしれません。でも、イエス様を信頼して生きていれば、最終的には勝利を得ることができるのだということなのです。
 ただ、誤解しないでください。私たちが強くなって力を持つから勝利者となるわけではありません。これを勘違いすると、とんでもなく高慢なクリスチャンとなってしまいます。
ローマ8章31節に「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と書かれています。原文には「味方」という単語はありません。直訳すると、「もし神様が私たちのためにいてくださるなら」となります。
 礼拝でいつもお話ししていますように、イエス様を信じる私たちには、聖霊が与えられています。聖霊がいつも共にいてくださるということは、父なる神様、子なるイエス様も共にいてくださるということです。それは、「わたしはあなたを離れず決してあなたを捨てない」という約束の成就です。神様がいつも私たちと共にいてくださるということは、神様がいつも味方になってくださっているということなのです。ですから、私たちは弱くてもいいのです。神様が共にいてくだされば、必ず勝利することができるからです。
 ローマ8章37節-39節にはこう書かれています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 私たちを神様の愛から引き離そうとするいろいろな力が襲ってきます。しかし、私たちを愛してくださる神様によって、私たちはそのようなすべてのものに打ち勝つことができるのです。
イエス様もヨハネ10章28節でこう約束しておられます。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
 どうか私たちに与えられたイエス・キリストの救いの確かさに自信を持ってください。たとえ心配や不安や思い煩いが襲ってきても、恐れることはありません。主が共にいてくださるからです。
 今週も、イエス様に対する信仰を告白しつつ、それぞれの場で歩んで生きましょう。