城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年十月九日              関根弘興牧師
                第一ヨハネ五章六節~一〇節
 ヨハネの手紙連続説教12 
    「確かな証言」

6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。7 あかしするものが三つあります。8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。(新改訳聖書)

 前回は、「イエスはキリスト(救い主)である」と告白することの大切さをご一緒に学びました。そして、その告白に生きている私たちは、世に勝つ者とされているのだということも学びましたね。イエス様を救い主と信じるなら、神様に敵対する力に打ち勝つことができるのだ、というのです。ただし、それは、私たち自身が強くなったからではありあせん。ローマ8章31節に「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と書かれている通り、神様が私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは世に勝つことができるのです。
 ヨハネがこの手紙を書いた当時は、イエス様がまことの救い主であることを否定するような偽りの教師たちが教会に入り込んで混乱が起こっていました。そこで、ヨハネは、教会に対して、イエス様はまことに神なる方であること、その神なるイエス様がまことの人として来てくださったこと、また、イエス様だけがまこと救い主であることを告白して生きていくことの大切さを何とかして伝えたいと願っていたのです。
 それでは、イエス様が救い主であることは、一体何によって証明されるのでしょうか。これが、今日の箇所のテーマです。 今日の箇所には「あかし」という言葉がたくさん出てきますね。「あかし」とは法廷用語で、「証言」の意味です。つまり、神の御子イエス・キリストについて、いろいろな証言があるのだ、というのです。
 普通、証言の数が多ければ多いほど、それが真実であるということが確かになりますね。旧約聖書の申命記19章15節には、こう書いてあります。「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」何かを立証するためには、ひとりの証言だけでは駄目だ、複数の証言が必要だ、というのです。
 そこで、ヨハネは、今日の箇所で、イエス様がまことの救い主であるということを立証するために、あかし(証言)するものが三つあると記しているのです。7節と8節に「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです」とあります。三つの証言が一つとなる、つまり、三つの証言は、完全に調和のとれた証言であり、また、そのうちの一つでも欠けてはならないということです。
 しかし、あかしするものが「御霊」と「水」と「血」だと言われても、私たちにはよくわかりませんね。今日は、この三つのものについて詳しく見ていきましょう。

1 水のあかし

 まず、「水」についてですが、水があかしするとはどういうことでしょう。もちろん水が何かを話すわけではありません。 ヨハネは「イエス・キリストが水によって来られた」と書いていますね。それは、どういう意味でしょうか。
 イエス様は、公の生涯の最初にまず何をされたでしょうか。ヨルダン川に行って、バプテスマのヨハネ(この手紙を書いたヨハネとは別人)から洗礼を受けられましたね。洗礼がイエス様の公生涯のスタートでした。
 しかし、なぜイエス様はまず洗礼を受けられたのでしょうか。バプテスマのヨハネが授けていた洗礼は、罪を悔い改め、きよめられるためのものです。イエス様は、神の御子であり、罪のないきよい方ですから、本来ならば、洗礼を受ける必要などないはずですね。
 そのことは、バプテスマのヨハネもわかっていました。彼は、以前、ユダヤの宗教指導者たちから「あなたはキリストですか」という質問をされたとき、こう答えました。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ヨハネ1章26-27節)
 そして、その後、実際にイエス様が来られた時、バプテスマのヨハネはこう言いました。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1章15節)
 そして、イエス様の洗礼を受けたいとの申し出に、「私こそ、あなたからバプテスマ(洗礼)を受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と困惑するのです。
 しかし、イエス様は、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と言って、洗礼をお受けになりました。すると、天が開け、イエス様の上に神の御霊が鳩のように下って来られました。そして、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神の声が聞こえたのです。
今日の箇所で「水があかしする」と書かれているのは、このイエス様の洗礼を指しているのです。本来、洗礼を受ける必要のないイエス様が洗礼をお受けになったのは、罪があるからではなく、ご自分が人として来られたことを示し、人としてどのように生きるべきかの模範を示すためだったのです。
 そして、イエス様が洗礼をお受けになったとき、聖霊が下り、父なる神の喜びの声が聞こえたことは、イエス様がまことの救い主であることを示しています。そして、父なる神も聖霊もこの洗礼が神様のご計画であることを承認なさったわけですね。
 つまり、今日の箇所でヨハネは、「イエス様が神の御子であり、人となって来てくださったまことの救い主であることは、この洗礼をお受けになった出来事によって証言されているのだ」と言っているのです。

2 血のあかし

 イエス・キリストをあかしするものの二つ目は「血」です。この「血」というのも不思議な証言者ですね。血が何を証言するのでしょう。
 「血」が象徴する出来事といえば、何でしょうか。イエス様の十字架につかれたことですね。十字架上でイエス様の血が流されました。ですから、「血があかしする」というのは、イエス様が血を流された十字架の出来事こそ、イエス様がキリストであることを証言するものだ、ということなのです。
 では、イエス様が十字架で血を流されたことには、どのような意味があったのでしょうか。
 ヘブル人の手紙9章22節に「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」と書かれています。旧約聖書の律法では、罪を贖うためには動物の血を流す必要があると定められていました。しかし、動物のいけにえは完全なものではありませんから、いくら繰り返しささげても、人の罪の問題を完全に解決することはできません。
 しかし、神の御子であるイエス様が来てくださり、罪のないイエス様がただ一度十字架について、ご自身を私たちの罪のためのいけにえとしてささげて血を流してくださったことによって、私たちのすべての罪が赦され、私たちは神様の目にきよい者とされたのです。ヘブル9章26節に「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」と書かれているとおりです。
 ですから、バプテスマのヨハネは、イエス様を見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)と告白しました。イエス様ご自身が、私たちの罪のためのいけにえの小羊となって、十字架で血を流してくださったのです。
 ですから、「血」が象徴する十字架の出来事こそ、イエス様がまことの救い主であることをあかししているのだと、ヨハネは言っているのです。
 聖餐式は、何のために行うのでしょう。それは、イエス様の十字架の出来事を思い起こし、イエス様こそ罪を赦し、救いを成就してくださった救い主であることを覚え、神様の愛と赦しの恵みを味わうためです。
 イエス様は、十字架につけられる前、弟子たちとの最後の晩餐の時に、ぶどう酒の杯を手にしてこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と。イエス様が十字架についてくださることによって私たちは、神様と新しい契約を結ぶことができるようになったのです。イエスを救い主として信じることによって、罪が赦され、永遠のいのちを受けて、神様と親しい関係の中で歩むことができるようになるという契約です。つまり、イエス様の十字架こそ、はるか昔から預言されていた神様の救いのご計画を成就するものなのです。

 さて、ヨハネは、「水」と「血」がイエス・キリストをあかしすると言っていますが、なぜこんなややこしいことを言っているかいうと、この背景に偽りの教師たちの教えがあったからです。
 これまで何度がお話ししてきましたように、偽りの教師たちは、「霊は善で、物質は悪だ」と教えていました。ですから、善である神が悪である肉体を持った人として来てくださったということは、彼らにとって到底受け入れがたいことでした。ましてや、神が人の罪を背負って十字架につけられ、肉体的な苦痛を経験したなどということは、彼らにはとても認めることのできないことでした。
 それでは、彼らはどのように教えていたかというと、「ただの人間であるイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、霊であるキリストが鳩の姿になって降りてこられ、イエスの体に入った。そして、キリストの霊がただの人であるイエスの体を借りて人々に神の言葉を語ったが、十字架につけられる直前にキリストの霊はイエスの体から離れていった。だから、十字架につけられて死んだのは、キリストの霊の抜け殻となった何の変哲も無いただの人間イエスだったのだ」というのです。つまり、彼らは神であるイエス様が人として来てくださったことを完全に否定し、イエス様の十字架はもはや抜け殻の死にすぎず、何の意味もないと教えていたのです。
 それに対して、ヨハネは、「水と血がイエス・キリストをあかししている」、つまり、「イエス様の洗礼の時の出来事によって、神が人として来てくださったことがはっきりと示されているし、十字架の出来事によって、イエス様が罪の赦しをもたらす救い主であることがはっきり示されているのだ」と主張したのです。
イエス様は、水と血によって来られました。実は、このことは、私たち一人一人にとっても大切な真理を教えています。
 教会は、洗礼式と聖餐式を大切にしていますね。それは、水が象徴する洗礼式と血が象徴する聖餐式を通して、イエス様が教会の真ん中に、また、信じる一人一人の真ん中に救い主として来てくださっているということが示されるからです。
 そして、このことをはっきりとあかしするのが、三つ目の聖霊です。

3 聖霊のあかし

 ヨハネの福音書の中で、イエス様は弟子たちに次のような約束をされました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(14章16節)「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(14章26節)「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(15章26節)
 その後、イエス様は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、四十日の間多くの弟子たちの前に復活の姿を示されてから、天に昇って行かれました。そして、その十日後に弟子たちの上に、イエス様の約束通りに、もう一人の助け主である聖霊が下ったのです。
 『使徒の働き』2章にをその時の出来事が書かれています。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
 この出来事をきっかけに、弟子たちの姿は大きく変化しました。以前は、自分勝手で、イエス様の教えを十分に理解することができず、弱く臆病だった弟子たちが、聖霊を受けてからは、まるで別人に生まれ変わったかのように、確信をもって大胆に、イエス様がまことの救い主であり、よみがえって今も生きておられることを宣べ伝えるようになったのです。
 弟子たちのうちのある者は、イエス様の生涯の記録である福音書を書きました。また、各地の教会に手紙を書き送りました。その福音書や手紙をまとめたものが新約聖書です。
 聖霊が弟子たちにイエス様についてをあかししてくださったからこそ、福音が全世界に伝わり、私たちも今のような形で聖書を手にすることできるのです。聖書は「イエスは神が人となってこられたまことの救い主だ」ということを告げる書物であり、聖書がこうしてあること自体が、聖霊の働きを証明するものなのです。
 また、聖霊は、私たち一人一人にもイエス様が救い主であることをあかししてくださいます。聖霊の助けによって、私たちは、自分が神様から離れた罪の状態にいることに気付かされ、イエス様を救い主として信じ、神様の愛と恵みを知り、聖書のことばによって養われ、成長していくことができるのです。

4 神のあかしは人間のあかしにまさる

さて、ヨハネは、9節で「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです」と書いていますね。「水」と「血」と「聖霊」の三つのあかし、それは、神様が私たちに示してくださったあかしだというのです。
 ヨハネの福音書8章18節では、イエス様がこう言っておられます。「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」イエス様ご自身と、父なる神様がイエス様が救い主であることをあかしされるというのですね。また、ヨハネの福音書15章26節では、イエス様はこう言われました。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」聖霊もイエス様が救い主であることをあかしされます。
 聖書が示している神様は、三位一体なる神様です。その父なる神、子なるイエス、聖霊なる神様が一致した証言をしておられる、それは、人間のあかしにまさる完全なあかしなのだというのですね。神様は、ご自分の中に完全なあかしを持っておられ、そのあかしは人間の証言如何によって変わってしまうようなものではありません。人間の考えや感情に左右されることもありません。永遠に変わることがないのです。
私たちはイエス様を救い主と信じていますが、時々、自分が落ち込んだり、悩んだり、問題に直面すると、信じていることに疑問を持ったり、聖書の約束が変わってしまうかのような錯覚を持つことがあります。しかし、神様ご自身のあかしがあるのですから、イエス様がまことの救い主であり、私たちを赦し、生かし、導き、必要を満たしてくださることに決して変わりはありません。私たちの信仰の強弱(?)で神様の計画が変わることはないのです。
 ヨハネの福音書5章39節には、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」と書かれています。聖書は、イエス様についてあかしし続けている書物です。ですから、聖書を否定することは、イエス様を否定することにつながるのです。
 聖書に書かれている通り、神様は、「水」と「血」と「聖霊」によってイエス様が救い主であることをあかししてくださっています。その神のあかしを受け入れるかどうか、とヨハネは一人一人に問いかけています。5章10節に「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです」と書いていますね。神様のあかしを信頼して、そのあかしに基づいてイエスを救い主として人生を委ねていくか、それとも、神様のあかしを信じないで生きていくか、どちらにするのか、と決断を迫っているかのようですね。
 もし神様のあかしを信用しないなら、それは、神様を偽り者とすることと同じだとヨハネは言います。神様の言っていることは信じられないと思っているわけですからね。
 ヨハネの福音書20章27節で、イエス様は、イエス様の復活を疑っていたトマスにこう言われました。「・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 
 私たちは、イエス様がまことの救い主であることを示す神様の確固たる証しを信頼し、イエス様の十字架によって罪赦され、神様のいのちによって生かされ愛されている者として自信を持って歩んでいきましょう。