城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年一〇月一六日            関根弘興牧師
               第一ヨハネ五章一一節~一三節
 ヨハネの手紙連続説教13 
    「御子を持つ者」

11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。13私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(新改訳聖書)

先週は、「イエス様がまことの救い主である」ということを証言するものが三つある、それは「水」と「血」と「御霊」である、ということを学びました。
 「水」はイエス様がお受けになった洗礼を象徴するものです。人が皆受けるべき洗礼をイエス様もお受けになることによって、イエス様が私たちと同じ人として来てくださったことがあかしされました。
 また、「血」イエス様の十字架を象徴しています。イエス様が十字架で流された血によって私たちのすべての罪の贖いが完全に成し遂げられたことがあかしされているのです。
 そして、信じる一人一人の内には「聖霊」が住んでくださっています。その聖霊の働きを通してイエス様が救い主であることがあかしされている、ということでした。
 さらに、三位一体なる神様ご自身が、完全なあかしを持っておられると書かれていましたね。父、子、聖霊の三位一体の神様の内に揺るぐことのない救いのあかしがあるのです。
 私たちは、イエス様を救い主と信じて歩んでいても、落ち込んだり、悩んだり、問題に直面すると、自分が救われていることに疑問を持ったり、神様の約束が取り消されてしまったかのような錯覚を持つことがあります。しかし、神様ご自身が救いの約束の確かな証人となってくださっているのですから、こんな心強いことはありませんね。

 さて、今日の箇所は、その続きで、この手紙においてヨハネが最も伝えたかったことが記されています。それは、13節に書かれていることです。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」私たち一人一人が永遠のいのちを持っていることを私たちがよくわかるように、ヨハネはこの手紙を書いたというのです。
 そして、ヨハネは11節でこう書いていますね。「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。」つまり、「神様が私たちに永遠のいのちを与えられた」ことと「その永遠のいのちが御子イエスのうちにある」ということを、神様御自身がはっきりとあかししておられるというのです。
 今日は、その「神様が与えてくださった永遠のいのちとは、どのようなものか」ということと、「永遠のいのちが御子のうちにあるとはどういう意味か」ということについて考えていきましょう。

1 神が私たちに与えてくださった永遠のいのちとは

神様が与えてくださる「永遠のいのち」とは、どのようなものなのでしょうか。
 「永遠」と言えば、「限りがない」「無限に続く」「終わりがない」という意味ですから、普通は、時間的な長さのことだと思いますね。ですから、「永遠のいのち」という言葉を聞くと、この肉体のいのちがいつまでも続くことだと思う方もおられるでしょう。しかし、そうだとしたら、どうでしょうか。幸せなときには、これがいつまでも続いて欲しいと思うかもしれませんが、人生は良いことばかりではありませんね。困難や苦労があります。病気になることもあります。生活のために働かなくてはならないし、体は次第に老いていきます。もしそういう状態がいつまでも続くなら、かえって重荷になってしまうでしょう。
 しかし、神様が与えてくださる「永遠のいのち」とは、そういう意味ではなくて、「永遠なる存在である神様のいのち」という意味なのです。それは、私たちが生まれつき持っているいのちとは質の違ういのちです。永遠の存在者である神様ご自身のいのちであり、神様のご性質を持ついのちなのです。
 では、そのいのちには、どのような性質が含まれているのでしょうか。

①平安

 まず、このいのちには平安があります。
 第二テサロニケ3章16節に、こう書かれています。「どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。」
私たちの神様は、「平和の主」です。「平和」とは、ヘブル語で「シャローム」です。「平安」とも訳されます。神様のいのちは、私たちに平安をもたらすのです。
 人生には、葛藤したり、恐れたり、怯えたり、嘆いたりすることがあります。しかし、詩篇46篇には、こう書かれています。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」
 「どんなに大変な状況に取り囲まれても、神様が私の力となってくださるので、恐れない」と歌っていますね。神様は、「恐れるな。わたしがあなたとともにいる。安心しなさい」といつも語りかけてくださるのです。
 ヨハネ16章33節では、イエス様が弟子たちにこう言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 イエス様が罪と死の力に打ち勝つことのできる永遠のいのちを与えてくださいました。だから、私たちは、患難の中でもイエス様に信頼して平安の中で生きていくことができるのです。

②希望

 また、永遠のいのちには希望があります。パウロは、ローマ人への手紙15章13節でこう祈っています。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
 私たちの神様は、「望みの神」です。私たちに将来への希望をあふれさせてくださるのです。
 この箇所を読むと、母のことを思い出します。私の母は、貧しい家庭に生まれ、小さい頃から人に預けられて育ちました。トラックの運転手だった父と結婚し、その後、父はイエス・キリストを信じて牧師となりました。母も信仰を持ち、貧しい牧師の妻として様々な苦労を経験したようです。そんな母の愛唱歌が聖歌七二〇番でした。

   聖歌七二〇 望みは失せ

 望みは失せ、詮方(せんかた)尽きて心弱り
 思いしおれ、再び立ち上がる力無き時にも
 神を信ぜよ 神を信ぜよ 神を信じて 勇み立てよ

 闇の後に 朝はきたらん 雲は裂けて 日は照りいでん
 主のこころみ 耐えしのげば 愛の光 照らしたまわん
 神を信ぜよ 神を信ぜよ 神を信じて 勇み立てよ

 またき(完全な)力 持てる神は なれを守り 助けたまわん
 神を信じて 恐れ 嘆き、わずらいとに戦い勝て
 神を信ぜよ 神を信ぜよ 神を信じて 勇み立てよ

 母は二十二年前に肝臓癌で召されました。六十六歳でした。亡くなる前のしばらくの間、母は、栃木の病院に入院しており、私も時々小田原から見舞いに行っていました。そして、母が召される前日に、ちょうど茨城県の教会の特別伝道集会に招かれて行き、その帰りに母の病院に行って病室に泊まりました。それが母との最後の晩になりました。いろいろな昔話をして、翌日、母は、家族が見守る中、天に帰っていきました。静かな死でしたが、天国を確信し、まるで、ふすまをあけて隣の部屋に行くかのように天に召されたのです。
 母の病は癒されませんでした。苦労の多い生涯だったと思います。けれども、母は、いつも望みを抱きつつ生きていました。
 以前にもお話ししたことがありますが、葬儀は、四人の子供が行いました。長男が告別式の司式をし、次男が声楽家なので独唱をし、三男の私が前夜式の司式、妹が奏楽をしました。 
 私たちは、母との死別の寂しさや悲しみを味わい、涙を流しました。しかし、それは、決して絶望の涙ではありません。しばしの別れの涙です。なぜなら、死は、イエス・キリストが与えてくださった永遠のいのちを奪うことは決してできないからです。天の御国でまた会うことができる希望があるのです。
 神様の永遠のいのちを与えられた私たちは、いつも希望を抱いて生きるものとされているのです。

③愛

 そして、永遠のいのちには愛があります。永遠のいのちを与えられると、私たちは神様に愛されていることを知るのです。ヨハネの手紙の中で最も頻繁に出てくる言葉は「愛」です。
 ヨハネは、「神は愛です」「神がまず私たちを愛してくださった」と書いていますね。ですから、神様のいのちが与えられている私たちは、神様の愛の中で生きる者にされているということです。
イエス様は、ヨハネの福音書15章9節で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と弟子たちに言われました。永遠のいのちを与えられた私たちは、私たちのために十字架についてくださるほどのキリストの愛の中にとどまるのです。

2 永遠のいのちが御子のうちにあるとは

さて、次にヨハネは、「このいのちが御子のうちある」と書いていますね。
 ヨハネは、福音書の中でも、イエス様ご自身がいのちなるお方である、ということを繰り返し記しています。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(1章4節)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3章16節)
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(4章14節)
「わたしがいのちのパンです。」(6章35節)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(8章12節)「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(10章10節)
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(10章28節)
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(11章25節)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(14章6節)

 ヨハネは、イエス様のことを考える時いつも、「いのち」と「愛」という言葉を思い浮かべていたようです。それは、イエス様が神なる方だからです。イエス様は、神様の愛といのちを私たちにもたらすために、私たちのもとに人となって来てくださいました。だから、イエス様がおられるところに神様の愛といのちが豊かに溢れるのです。私たちは、イエス様抜きに神様の愛といのちを受けることはできないのです。

3 御子を持つ者

ですから、ヨハネは12節で「御子を持つ者は、いのちを持っている」と記し、13節で「神の御子の名を信じているあなたがたは永遠のいのちを持っている」と書いているのです。イエス様ご自身がいのちなるお方ですから、イエス様を信じて心に迎え入れることは、神様のいのちを持つことだというのです。
 ヨハネは、黙示録も書きましたが、黙示録3章14節ー22節に、イエス様がラオデキヤの教会に対して言われた言葉が記されています。イエス様は、こう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」ラオデキヤの教会は、自分の本当の姿に気付かず、どれほどイエス様が必要であるかがわかっていなかったようです。そこでイエス様は、続けてこう言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 イエス様は、教会の戸の外に立って、ずっと戸をたたき続けているというのです。つまり、イエス様はラオデキヤの教会の中に入ることがおできになっていなかったのですね。
 皆さん、どんなに教会を美しく飾り立てても、どんなにすばらしい聖歌隊があっても、どんなに豊かになっても、肝心のイエス様を玄関の外でずっと待たせているなら、何と淋しいことでしょう。
 ヨハネは、「そうであってはならない。イエス様をあなたの人生の真ん中に、教会のまん中にお迎えすることは、いのちにあふれることなのだ」と伝えているのです。イエス様は雨が降ろうと夜露に濡れようと、私たちの心の扉をずっとたたき続けてくださいました。だからこそ、私たちはイエス様をお迎えすることができたのです。そして、感謝なことに、一度イエス様をお迎えするなら、イエス様は去って行かれることはありません。「わたしはあなたを離れず、決して捨てない。いつまでもあなたとともにいる」と約束してくださったのです。
 イエス様をお迎えし受け入れることによって、永遠のいのちを持って生きることができるようになるのです。

今日、あなたはイエス様を心の中にはっきりとお迎えしていますか。戸口に立たせたままでいませんか。
 ヨハネは、「御子を持たない者はいのちを持っていない」と書いています。考えてみれば、当たり前ですね。イエス様ご自身が永遠のいのちなるお方なのですから、この方を受け入れないということは、いのちを持っていないということですね。
 使徒の働き3章ー4章に、神殿の美しの門という場所にいた生まれつき足の不自由な人が癒された出来事が書かれています。この人は、毎日その場所に運んでもらって、そこで神殿に入る人たちに施しを求めていました。そこにペテロとヨハネが通りかかりました。ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、その人の右手を取って立たせると、たちまちその人の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。そのため大騒ぎになりました。ペテロとヨハネは捕らえられ、宗教指導者たちの尋問を受けることになりました。その時、ペテロは堂々とこう宣言したのです。「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。天の下でイエスの御名のほかに、私たちが救われるべき名はないのです」と。私たちを救い、永遠のいのちを与えることができるのは、イエス様だけだとはっきり行ったのですね。 この時ペテロと一緒にいたヨハネも、そのことを多くの人に伝えたいと願って手紙や福音書を記しました。
 最初にお話しした通り、ヨハネがこの手紙を書いた目的は13節に書かれていますね。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と記しています。神の御子の名を信じている、つまり、イエス様が神の御子キリストであることを信じる者は、永遠のいのちを持っているのだ、そのことをわかってほしい、というのですね。
また、ヨハネは、福音書も書きましたが、その目的がヨハネの福音書20章31節に書かれています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」
 イエス・キリストを信じる者は皆、永遠のいのちをもっているのだ、ということをなんとしても伝えたかったのですね。
 当時の教会は、いろいろな教えの風に振り回され、今まで聞いてきた福音のすばらしさに疑問を持ったり、感動が薄れたり、信じていることに確信が持てなくなってしまった人もいました。そこで、ヨハネは、神が私たちを愛してくださっていること、そして、イエス・キリストを信じる一人一人に永遠のいのちが与えられていることを伝えるために、自分の生涯を費やしていきました。
 ヨハネは、また、この5章の前半にあるように、私たちに永遠のいのちが与えられていることは、神様があかししてくださっているのだから、これ以上確かなことはないのだ、と記しているのです。
 皆さん、「信仰に生きる」というのは、闇雲な熱心さや自分の頑張りによって生きていくことではありません。神様のあかしに裏打ちされた確かな約束を信頼して生きることです。イエス・キリストを信じて永遠のいのちが与えられたことを理解し、認め、平安と希望と愛の中に生かされていきましょう。