城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一六年一〇月三〇日            関根弘興牧師
                  第二ヨハネ一節~一三節
 ヨハネの手紙連続説教15 
    「真理と愛のうちに」

1 長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。2 このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。3 真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。4 あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。5 そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。7 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。8 よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。12 あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。13 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。(新改訳聖書)

先週でヨハネの手紙第一が終わりました。今日は、ヨハネの手紙第二です。
 まず、この手紙の差出人と宛先ですが、1節に「長老から、選ばれた夫人と子どもたちへ」と書かれていますね。
 この「長老」と訳されているのは、「年長の人、おじいさん」という言葉です。この手紙の著者ヨハネは、イエス様と共に生活した十二弟子の中で最も長生きをした人です。晩年は、エペソで、文字通り教会の長老として過ごしたといわれています。つまり、ヨハネは、教会のおじいちゃんのような存在だったのでしょう。この第二の手紙には、そのおじいちゃんが、愛する娘や孫を心配し、孫の健全な成長を願って心を込めて書き送っているような雰囲気があります。
 では、この手紙の宛先である「選ばれた夫人とその子どもたち」とは、一体誰でしょう。いくつかの説があります。
 一つは、「選ばれた夫人」とは特定の一人の夫人だと考える説です。しかし、この手紙全体を読むと、そのように理解するのには無理があります。
 実は、この手紙は、特定の個人に宛てたのではなく、教会に宛てた手紙として読むほうが自然なのです。つまり、ヨハネは「選ばれた夫人」と書いているのは、教会のことだと考えられるのです。
 「教会」と訳される言葉は、女性名詞です。パウロも教会を「キリストの花嫁」にたとえています。また、ペテロは、第一ペテロ5章13節で、「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています」と書いていますが、この「バビロンにいる選ばれた婦人」とは、ローマにある教会を指しているのです。ですから、ヨハネが書いている「選ばれた夫人」も教会のことだと考えられるのです。
 ですから、この手紙は、ヨハネが近隣の教会とそこに集うクリスチャンたちに宛てた手紙であると考えるのが一番妥当でしょう。ということは、私たち一人一人にも宛てられた手紙であるということですね。
 内容を見ていきましょう。

1 真理によって、真理とともに、真理のうちに

 まず、この手紙の中には、「真理」という言葉が繰り返し出てきますね。ヨハネは、「私たちは真理を知っている」「私たちの内に真理が宿っている」「真理はいつまでも私たちと共にある」と書いています。では、この「真理」とは、何でしょうか。
イエス様は、ヨハネ14章6節で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。イエス様は、「わたしが真理だ」と言われたのですね。
 また、この「真理」という言葉は、「真実、まこと」とも訳されますが、ヨハネ1章14節には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれています。イエス様は、恵みと「まこと(真理)」に満ちておられる方だということです。つまり、聖書は、イエス様御自身が「真理」そのものの方なのだと教えているのですね。
 ですから、今日の箇所に出てくる「真理」という言葉を「イエス様」に置き換えて読むこともできるのです。置き換えて読むと、「私たちはイエス様を知っている」「私たちの内にイエス様が宿っている」「イエス様はいつまでも私たちと共にある」ということですね。
 では、その「真理」そのものであるイエス様によって、何がもたらされるでしょうか。

①愛

 ヨハネは、1節から2節にかけて、「私はあなたがたをほんとうに愛しています。・・・このことは、私たちのうちに宿る真理によることです」と書いていますね。真理であるイエス様を知ることによって、私たちは、本当の愛を知り、互いに愛し合うことができるようになっていくのです。

②恵みとあわれみと平安

 また、ヨハネは、3節で「真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります」と記しています。ヨハネは、「真理と愛のうちに生きる、つまり、イエス様のうちに生きる私たちには、父なる神とイエス様からの恵みとあわれみと平安がすでに与えられているのだ」と言い切っているのです。
 私たちは、物事がうまくいかないときには、神様の恵みやあわれみが与えられていないと思って不安になってしまうことがありますね。しかし、ヨハネは、「そうではない。たとえ現実に問題や困難があっても、その中に恵みとあわれみと平安は与えられているのですよ」と言うのです。
パウロも、そのことを経験しました。パウロには、なかなか癒されない持病がありましたが、第二コリント12章8節ー9節に、こう記しています。「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
 癒されない病の中でも、神様の恵みは十分に与えられているというのです。病が癒やされたら感謝です。しかし、癒やされないままでも、神様の恵みやあわれみや平安は十分に与えられているのです。むしろ、私たちが弱さを覚えるときにこそ、キリストの力を味わうことができるのです。今日、私たち一人一人にも恵みとあわれみと平安がともにあることを覚えましょう。

③自由

 そして、真理がもたらすもう一つのものは、自由です。
 ヨハネの福音書8章31節ー32節で、イエス様は、こう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 また、ガラテヤ5章1節でパウロはこう書いています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
 真理であるイエス様は、私たちに自由をもたらしてくださるというのです。
 ただし、聖書の教える「自由」とは、何をしてもかまわないとか、自分の好き勝手に生きていくということではありません。「自由」は「放縦」とは違います。放縦の生活は、かえって人を不自由にしてしまうのです。
 ルカ15章で、イエス様は「放蕩息子」の話をなさいましたね。 息子は、父親から財産を譲り受け、遠い場所に行き、自由気ままな生活を送りましたが、その結果はどうだったでしょう。財産を使い果たし、人生に行き詰まり、生きる希望さえも失ってしまったのです。しかし、彼は、我に返って、父の所に戻ることを決意します。彼が家に近づくと、息子の帰りを待ち望んでいた父親が走り寄ってきて、彼を抱き寄せ、喜び迎えました。この息子は、放蕩生活に行き詰まってしまいましたが、父のもとに戻ったとき、つまり、本来いるべき場所に戻ったとき、本当の自由を得ることができたのです。
 私たちも、本当の自由を満喫するためには、本来いるべき場所にいる必要があります。魚は、水の中にいるときは自由に生きることができますが、もし「私は陸で生活したい」と思って陸に上がったら、すぐに死んでしまいますね。逆に、もし私たちが魚のように水の中に住みたいと思っても、数分しかもちません。鳥のように自由に空を飛びたいと思って屋上から飛び降りたら、大けがをするか死んでしまうでしょう。私たちが与えられた自由を本当に謳歌し、自分らしく生きていくためには、ふさわしい場所にとどまっていなければならないのです。
 では、私たちがとどまるべき場所とはどこでしょうか。
 イエス・キリストは、ヨハネの福音書15章4節で、こう言っておられます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」また、同じく15章9節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言われました。また、先ほど引用したヨハネの福音書8章31節ー32節では、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言われましたね。
 つまり、私たちは、真理そのもののお方であるイエス・キリストのうちにとどまり、イエス・キリストの愛の中にとどまり、イエス・キリストのことばにとどまるのです。そうすれば、私たちは本当に自由に自分らしく生きることができるのです。

2 愛のうちを歩む

さて、ヨハネは、次に、5節ー6節で「お願いしたいことがあります。それは、あなた方が互いに愛し合うこと、愛のうちを歩むことです」と書いていますね。
 ヨハネの手紙第一の説教でもお話ししましたが、当時、ヨハネを悩ませていたことがありました。それは、偽りの教師たちが教会に間違った教えを持ち込み、教会を混乱させているということでした。その結果、教会は分裂したり、分派が生じたりしていたのです。
 分裂や分派が生じていた教会として有名なのはコリント教会です。コリント教会は豊かな教会で、いろいろな霊的な賜物も与えられていました。しかし、教会の中で、分裂や分派が生じ、混乱していました。「私はパウロにつく」「私はペテロにつく」と争ったり、教会員同士が裁判に訴え合うことさえあったのです。また、聖餐式も各自が自分勝手に飲み食いして飲めや歌えの大騒ぎとなってしまうような状態でした。大混乱した教会になってしまっていたのです。
 そこで、パウロは、問題に対処するためにコリント教会宛に手紙を書き送り、そして、教会にとって最も大切なものは何かということを教えました。それが、第一コリント13章に書かれています。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」パウロは、「愛がないなら何の値うちもありません」「愛がなければ、何の役にも立ちません」と言っていますね。教会にとって大切なのは愛だ、問題解決の鍵となるのは愛に生きることだというのです。つまり、パウロもヨハネと同じように、愛のうちを歩むことが大切なのだと教えたわけですね。
 しかし、「愛に生きる」というのは、言うのは簡単ですが、いざ実行しようとすると、なかなか難しいですね。
 前にもお話ししたように、愛とは相手の最善を願うことですが、相手にとって何が最善なのか迷うことも多いですね。私たちは、「相手の願いを満たす」ことと、「相手の必要を満たす」こととを区別しなければなりません。たとえば、子供を育てるとき、子供の願いをいつも聞くことは、決して愛ではありません。しかし、子供の成長のために必要を満たすこと、たとえば、衣食住やよりよい関係を築いてあげるための備えをすることは大切ですね。ですから。愛に生きるためには、知恵と祈りが必要なのです。
 また、イエス様は、「自分と同じように隣人を愛しなさい」と言われましたから、自分を愛すること、大切にすることも忘れてはなりません。自分の限界を超えて無理をしていると、結局、自分のためにも相手のためにもならない結果を招くことになってしまいます。
 私たちは、互いの最善を願う仲間として、自分のできることととできないことを区別しながら、相手の最善のために祈り、できることを行っていきましょう。

3 よく気をつけなさい

 ヨハネが晩年、心を痛めていたのは、7節にあるように「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行った」ということです。
 「神であるイエスが、私たちと同じ人として来てくださった」というのは、福音の本質です。イエス様がまことの神であり、また、まことの人となってくださったからこそ、イエス様の十字架によって私たちの罪がすべて赦され、イエス様の復活によって私たちは永遠のいのちが与えられ、神様との関係を回復して豊かな恵みを受けて生きることができるようになったのです。
 それなのに、「神であるイエス・キリストが人として来られた」ことを否定するならば、罪の赦しも永遠のいのちも神様の恵みもすべて否定することになるのです。
 ヨハネは、そういう間違った教えを語る人々を「人を惑わす者」「反キリスト」と呼んでいますね。また、9節では「行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者」だと言っています。この「行き過ぎている者」とは、「通り過ごして、とどまらない者」という意味です。この言葉には「先へ進む」という意味もあって、間違った教えを語っている者たちは、自分が進歩主義者、自由で大胆な心の持ち主と自負していたようです。しかし、いかに進歩しても、肝心のキリストを通り過ぎて、キリストにとどまることをしなくなってしまうなら、もはや人も教会もいのちを失ってしまいます。キリストのすべての約束、罪の赦しも永遠のいのちも救いも無に帰してしまうのです。それは、ヨハネの今までの労苦の実を台無しにしてしまうことになりますね。
 この間違った教えは、各地の教会に入り込んでいました。ガラテヤの教会でも同じような問題が起こっていたようです。パウロは、ガラテヤ1章7節で、「あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしている」と記しています。そして、次の8節で大変厳しくこう記しています。「しかし、私たちであろうと天のみ使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」
ヨハネも今日の箇所の10節で、「この教え(正しい福音)を持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません」と厳しく記しています。
 この少し前には「愛に生きなさい」と記していたのに、今度は「家に入れても、あいさつもしてはいけない」というのは、一転して冷たい感じがしますね。一体どういうことなのでしょう。
 「家に受け入れる」とありますが、この家とは教会のことを指していると考えてください。つまり、「家に受け入れる」とは、教会が間違った教えを受け入れるということであり、周りから見たら、その教えに賛同していると見られてしまうのです。また、あいさつをするということも、同じように、その教えに賛同しているととらえられてしまうことになります。ヨハネは、教会に対して、「肝心のイエス様を通り過ごしてイエス様の約束を台無しにしてしまうような人を惑わす教えが教会の中に入り込んでこないように、いつも気をつけていなさい」と警告しているのです。つまり、「彼らに冷たい態度をとりなさい」ということではなく、「彼らの教えを受け入れて振り回されないようにしなさい」という警告なのです。
 皆さん、私たちは、イエス様のうちにとどまり、昔ながらの福音にしっかりと土台を据えているかどうか常に確認しながら歩んでいきましょう。

4 顔を合わせて

さて、ヨハネは、12節で「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです」と記しています。
 ヨハネは、「顔を合わせて語りたい」と願っていますね。
 ヨハネの時代には、少しずつ迫害の魔の手が迫ってきていました。ですから、手紙を書くときも、宛先もはっきり記すことができなくなっていたとも言われます。また、手紙というものは、時々、文章だけが一人歩きし、間違って解釈されたり誤解されて、事態が複雑になってしまうこともありますね。ですから、ヨハネは、手紙ではなく実際に会って語り合いたいと願っているのです。
 「五分間の心からの対話は、周到に用意してきた手紙よりずっと多くのことを悟らせてくれる」とある方が言いました。そうですね。直接、顔と顔と合わせて話すことは大切なことです。私たちも、互いにそのような時を持つことを心がけていきたいですね。

 では、最後に、3節の言葉を読んで閉じることにいたしましょう。「真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。」
 今週もこの恵みとあわれみと平安を味わいながら歩む一週間となりますように