城山キリスト教会 礼拝説教    
二〇一七年一月八日              関根弘興牧師
                   ヘブル一章一節〜三節
 ヘブル人への手紙連続説教1
     「至高のお方」

1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(新改訳聖書)

 今日から「ヘブル人への手紙」の連続説教を始めます。
 この手紙は紀元65年から69年頃に書かれたのではないかと言われていて、手紙というよりも説教集のような雰囲気を持っています。差出人の名が書かれていないので、誰が書いたのかはっきりわかりません。宛先も書かれていませんが、内容を見ると、主にユダヤ人クリスチャンたちに向けて書かれたようです。
 ユダヤ人は、イスラエル人、ヘブル人とも言われます。
 「イスラエル人」というのは、アブラハムの子イサクの子ヤコブが、神様からイスラエルという名を与えられたので、その子孫たちを指してイスラエル人と言います。「ヘブル人」というのは、ヘブル語の「イブリー」という言葉から出たもので、「向こうから渡ってきた人」という意味があるそうです。アブラハムが神様に導かれてメソポタミア地方からカナンの地にやってきたということで「ヘブル人」と呼ばれるようになったのが始まりです。
 「ユダヤ人」というのは、最初は十二部族の一つ「ユダ部族」のことでしたが、イスラエルの国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した後、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、他の民族と混じり合って、純粋なイスラエル民族と言えなくなってしまいました。一方、南ユダはバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの人がバビロンに奴隷として連れて行かれてしまいましたが、その後、ペルシャ帝国の時代になると、バビロンに連れて行かれた人々は南ユダがあった場所に帰ることを許されたので、南ユダのあった場所に国が再建されました。南ユダの人々はイスラエル民族としての純血を保っていたので、それ以降、「ユダヤ人」という名称がイスラエル民族全体を指す言葉として使われるようになったのです。
 ですから、このヘブル人の手紙が書かれた時代には、「イスラエル人」も「ヘブル人」も「ユダヤ人」も基本的には同じ人々を指す言葉として使われていたと理解していいでしょう。
 それから、この手紙には旧約聖書が頻繁に引用されていますが、もとのヘブル語で書かれた旧約聖書ではなく、当時の世界の共通語であったギリシャ語に訳した七十人訳聖書が使われています。ですから、この手紙は、外国で生活しているユダヤ人クリスチャン、特に、当時の最も大きな都ローマ周辺にいたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれたようです。
 では、この手紙が書かれた当時、ユダヤ人クリスチャンはどのような状況に置かれていたのでしょうか。
 当時、ユダヤ地方は、ローマ政府の支配下にありました。ユダヤ人が先祖代々継承してきたユダヤ教の教え(旧約聖書は信じるけれど、イエス様が救い主であることは認めない)は、ローマ政府によって法的な保護を受けていました。ですから、ユダヤ人たちは、ユダヤ教に従っている限りは、平穏な生活ができたわけですが、イエス様を信じてクリスチャンになると、大変な困難に直面しなければなりませんでした。
 一つは、ユダヤ人たちからの迫害です。クリスチャンになることは、ユダヤ人社会から追放され、迫害されることを意味していました。
 また、ローマ政府も次第にクリスチャンたちを迫害するようになりました。なぜなら、クリスチャンたちは、ローマ皇帝を神として礼拝しようとしなかったので、ローマ政府に逆らう危険分子、反逆者と見なされたからです。また、クリスチャンたちに対する誤解や中傷や悪意に満ちたうわさが広まりました。例えば、聖餐式を誤解して「クリスチャンは人の肉を食べ、血を飲んでいる残忍な集団だ」という噂が広まったのです。ローマの大火もクリスチャンが放火したのだという噂が広まりました。そこで、激しい迫害が起こり、ペテロは十字架に逆さに磔にされて殉教しました。パウロも首を切られて殉教することになります。
 ですから、ユダヤ人クリスチャンの多くが葛藤していたことでしょう。このままイエス様を信じて従っていくなら、ユダヤ社会からも見捨てられ、ローマ政府からも迫害され、すべてを失ってしまうのではないかという恐れと焦りに襲われていたのではないかと思います。
 そういうユダヤ人クリスチャンたちに対して、この手紙の記者は、「もう一度、イエス様というお方のことを見直そうではないか。私たちが信頼しているイエス・キリストとは、旧約聖書に登場するどの指導者やどの預言者よりも遙かに優れた方、それどころか、神と同じ本質を持った方であり、私たちを完全に救うことがお出来になり、すべてを支配しておられる方なのだ」と書き送ったのです。
 ですから、この手紙を読んでいくと、二つのことを確信できるはずです。それは、イエス様がすべてのものに優る方であること、そして、イエス様の救いは完成された救いであるということです。この二つのことを確信できたら、この手紙を正しく読んだことになるのです。
 では、早速、この手紙を読み進めていくことにしましょう。

1 語りかける神

 まず、1章1節ー2節にこう書かれていますね。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」
 どこの地域、民族にも、たくさんの神様が登場します。日本でも八百万の神がいると言いますね。ある宗教学者がこう言いました。「これほど宗教が存在するということは、日本の歴史が激しく神を求めた神探求の歴史であった、しかし同時に、それはついに今日に至るまで、本当の神を見いだし得なかったと言うことの記念碑であることを雄弁に物語っている。」確かにそうかもしれませんね。人は何か絶対的に信頼できるもの、神と呼び頼れるものを無意識の内に探し続けているのですね。
 しかし、聖書の神様は、私たちの方から探して見つけなければならないような神様ではありません。神様の方から私たちに語りかけてくださるのです。神様は、私たちが探し求める前から、いろいろな方法で私たちに語りかけ続けてくださっているのです。
 旧約聖書を見ると、神様は、御自身でアダムやアブラハムやモーセやダビデなど様々な人物に語りかけておられます。また、預言者たちを通して、幻や夢を通して、また、様々な歴史的な出来事やみわざを通して、人々に語りかけておられます。そして、神様がどのような方か、神様のみこころは何か、神様はどのようなご計画を持っておられるか、ということを多くの部分に分け、いろいろな方法で少しずつ示してこられました。しかし、人々は、その内容を漠然としか理解できなかったのです。
 しかし、最後に神様が私たちのもとに御子イエス・キリストを送ってくださいました。この御子イエスを通して、私たちは、神様のご性質やみこころ、そして、愛、力、救い、恵み、祝福をより明確に理解し経験することができるようになったのです。
 ところで、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」と書かれていますが、「終わりの時」というのは、「この世界が終わってしまう時」という意味ではありません。「今まで旧約の歴史を通して語られ続けてきたことが成就し完成する時」という意味です。ですから、「終わりの時」という言葉には、「イエス・キリストによって始まる新しい時代の幕開け」という意味が込められているのですね。
 神様は、御子イエスを通して私たちに語ってくださったと書かれていますね。それは、つまり、このイエス様をよく見て、イエス様がどのような方かをよく理解することが大切なのだ、それによって、私たちは神様をよく知り、神様としっかりと繋がり、神様の恵みを受けながら生きていくことができるのだ、ということなのです。
 ですから、この手紙全体が、イエス様がどのような方であるかということに焦点を合わせて書かれているわけですが、まず、今日の2節後半から3節にかけては、イエス様についての七つの項目が、まるで本の目次のように紹介されています。この後、それぞれについて詳しく記されていくわけですが、今日は、この目次だけを簡単に見ていきましょう。

2 御子イエス

@万物の相続者

まず、イエス様は万物の相続者であると書かれていますね。
 ユダヤ人クリスチャンたちは、旧約聖書の内容をよく知っていましたが、その中には、将来訪れる救い主がどのような方かを暗示する言葉がたくさん書かれています。例えば、詩篇2篇8節には、こう書かれています。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」つまり、救い主は、神様からすべてのものを相続する方だということですね。
 ですから、この手紙で「御子イエス様が万物の相続者である」と書いているのには、二つの意味が含まれています。
 一つは、「イエス様こそ旧約聖書に預言されている救い主だ」という宣言です。
 もう一つは、「イエス様を信じていれば大丈夫だ」という励ましです。ローマ帝国では、クリスチャンであることの故に土地や家まで没収されてしまうことがありました。ですから、「このままイエス様を信じていていいのだろうか」と葛藤するクリスチャンも多かったでしょう。しかし、「すべてはイエス様のものなので、イエス様がすべての必要を満たしてくださる。だから、心配するな」とこの手紙は励ましているのです。

A世界の創造者

つぎに、神は「御子によって世界を造られました」とありますね。
 私たちがイエス様のことを考える時、普通は、ベツレヘムで誕生されてから、十字架につけられ、復活し、昇天なさるまでの間の姿だけを思い浮かべますね。しかし、実は、イエス様は私たちの想像を遙かに超えた偉大な方なのです。イエス様は人として私たちのもとに来てくださったけれど、まことの神なる方なのだ、と聖書は教えているのです。
 たとえば、ヨハネ1章1節ー3節には、こう書かれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」この「ことば」とは、イエス様のことです
 パウロもコロサイ1章16節でこう書いています。「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
 創世記1章1節に「初めに神が天と地を創造した」とありますが、この時、すでにイエス様はそこにおられたのです。
 イエス様は、天地万物を創造するほどの力と知恵をもった方です。そのイエス様に信頼するなら、何も恐れる必要はないではないか、とこの手紙は教えているわけです。

B神の栄光の輝き

次に、「御子は神の栄光の輝き」とあります。
 「輝き」には、二種類ありますね。太陽のように自ら光を発する光源としての輝きと、月のように何かの光を受けて反射させる輝きです。イエス様は、どちらでしょうか。
 ヨハネ1章9節には、イエス様が「すべての人を照らすまことの光」だと書かれています。イエス様は、光の源なる方なのですね。第一ヨハネ1章5節には「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と書かれていますが、神であるイエス様は、光であって、暗いところが少しもないのです。
 そして、ヨハネがヨハネ1章14節で「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と言っているように、私たちは、イエス様の内に神の御子としての栄光を見ることができるのです。
 では、イエス様の栄光とは、どのようなものでしょうか。
 福音書の中には、イエス様が栄光を受けられたと書いてある箇所が何度か出てきますが、それは、イエス様が人々から拍手喝采を浴びた時ではありません。イエス様が栄光を受けられたと書かれているのは、なんと十字架の場面なのです。十字架は極悪人の受ける刑罰です。人々から忌み嫌われ、栄光とは正反対の場所です。そこには何の輝きを見いだすことなどできない場所です。しかし、イエス様は十字架で栄光をお受けになったというのです。イエス様は、私たちの罪をすべて引き受けて、私たちの代わりに十字架についてくださいました。その結果、私たちの罪が赦され、神様との関係を回復する道が開かれました。それこそ、イエス様の成し遂げてくださった栄光あるみわざだということなのです。また、イエス様は、復活なさることによって、神の御子としての栄光を示されました。
 イエス様の栄光とは、十字架と復活の栄光です。そして、そのイエス様を信じる私たちは、十字架と復活の栄光を反映させて生きるのです。つまり、私たちの栄光とは、キリストによって罪赦され、永遠のいのちの中に生かされていくことです。「その栄光は、この世のどんな富や栄誉よりも素晴らしいものではないか」とこの手紙は教えているのです。

C神の本質の完全な現れ

 次に、イエス様は「神の本質の完全な現れ」であると書かれていますね。この「完全な現れ」とはどういう意味でしょう。 ローマの金貨には皇帝の像が型に描かれた姿そのままに寸分の違いもなく打ち出されていますね。その寸分の違いなく打ち出される様を表すのが、ここで使われている「完全な現れ」という言葉です。つまり、イエス様は寸分の違いもなく神の本質を現している方だということなのです。
 パウロは、コロサイ1章19節で「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」と記しています。また、ヨハネ1章18節には「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とあります。もし神様がどのような方を知りたいなら、イエス様を知る必要があります。私たちはイエス様の中に満ち満ちた神様の本質を見ることができるのです。

D力あるみことばによって万物を保っておられる方

 次に、イエス様は「力あるみことばによって万物を保っておられる」と書かれていますね。イエス様は、万物を造られただけでなく、保ってもおられるのです。
 そして、イエス様のみことばには力があります。創世記1章を見ると、神様が「光あれ」と言われると光ができました。同じように、イエス様が「嵐よ、静まれ」と言われると嵐がやみました。病人に「癒やされよ」と言われると癒やされ、死んだラザロに「出てきなさい」と言われると、ラザロが墓から出てきたのです。イエス様の言葉には権威と力があるのです。イエス様御自身がマタイ28章18節で「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と言われている通りです。そのイエス様の力あるみことばによって私たちの人生も保たれていくのです。

E罪のきよめを成し遂げた方

 また、イエス様は罪のきよめを成し遂げた方です。
 これは、神であるイエス様が、私たち一人一人に密接に関わってくださるということを意味しています。
 「罪」とは、本来の状態からずれている姿を指している言葉です。人は、本来、神様を礼拝しあがめるように造られているのに、神様を無視し、自分勝手に歩んでいるのが罪の姿なのです。犯罪というよりも、神様との関係がずれている状態、それが罪の本質です。そして、その結果として、様々な問題が起こってくるのです。神様との関係がずれて、神様のいのちを受けることができなければ、死んで滅びるしかありません。しかし、私たちは自分の力でその罪の状態から逃れることはできないのです。
 しかし、イエス様が罪のきよめを成し遂げてくださいました。それによって、私たちは神様との関係を回復し、神様との親しい関わりの中に生きていけるようになったのです。
 これは、この手紙の大きなテーマなので、読み進めていく中でじっくりと学んでいきましょう。

F大能者の右の座に着かれた方

そして、イエス様は、「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」とありますね。「すぐれて高い所の大能者」とは、神様のことですね。神様の右の座に着かれたとは、どういう意味でしょうか。
 これも、旧約聖書の中にある救い主に関する箇所から引用した表現です。私たちにはわかりづらくても、ユダヤ人クリスチャンにはよく理解できる表現なのですね。
 詩篇110篇1節に「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」という言葉が出てきます。これは神様がダビデ王に言われた言葉ですが、後には、王として至高の地位を表す言葉として用いられるようになりました。つまり、実際に天に右の座があって、そこにイエス様が座っておられるという意味ではなく、「イエス様こそ誰も超えることの出来ない至高の地位におられる方だ」ということを示す言葉として使われているのです。
そして、素晴らしいことに、第一ヨハネ2章1節には「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」とあります。至高の地位におられるイエス様ご自身が、いつも私たちを弁護してくださっているというのです。
 品物を買うとき、アフターサービスというのものがありますが、イエス様は最高のアフターサービスを提供してくださっています。十字架で罪を赦してくださっただけでなく、私たちの一生涯にわたって弁護し続けてくださるというのです。また、父なる神、御子イエスと同じ本質を持つ聖霊を与えてくださることによって、いつも共にいて守り導いてくださるのです。
 ですから、無用な心配は捨て去りましょう。クリスチャンになっても失敗や失望はたびたびありますが、だからこそ、イエス様にお任せすれば安心して生きていけるのです。

 この世界のものはすべて移り変わっていきます。この手紙が書かれた時代と同じく、私たちも揺れ動く時代の中に生きています。草は枯れ、花はしぼみます。でも「神の言葉は永遠に立つ」と書かれています。だから、神のことばなるイエス様がどのような方かを、この手紙を通してじっくりと知ることが大切なのです。イエス様を深く知り、イエス様と共に歩める幸いを味わっていきましょう。